言語を教えるとはどういうことか。この問いに対して、多くの英語教師はおそらく「語彙を覚え、文法を理解し、四技能を鍛えることだ」と答えるでしょう。それ自体は間違いではありません。しかし、もし言語の習得において「身体」が中心的な役割を果たしているとしたら、どうでしょうか。Zhu Hua(朱华)、Li Wei(李威)、そしてDaria Jankowicz-Pytelの三名が2020年に発表した論文 “Translanguaging and Embodied Teaching and Learning: Lessons from a Multilingual Karate Club in London” は、まさにそうした視点からロンドン東部の空手クラブを舞台にした観察研究です。発表誌は International Journal of Bilingual Education and Bilingualism で、2019年にオンライン公開されたこの論文は、約9000回もの閲覧を記録し、43本の論文に引用されている注目作です。
著者のZhu Huaはバービック・カレッジ(ロンドン大学)の応用言語学・コミュニケーション学の教授であり、異文化コミュニケーションや多言語実践の分野で多数の著作を持つ研究者です。Li Weiはロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)の応用言語学の議長教授であり、Ofelia Garcíaとの共著 Translanguaging: Language, Bilingualism and Education(2014年)は2016年に英国応用言語学会のブック賞を受賞したことで知られます。二人はトランスランゲージング研究の第一人者として国際的な評価を確立しており、本論文はその知見をスポーツという非日常的な文脈に適用した意欲的な試みです。
本研究の問いは明快です。多民族・多言語の子どもたちが集うロンドンの空手クラブでは、コーチと子どもたちはどのようにして教え、学んでいるのか。そして、そこで起きていることは、私たちが「言語教育」と呼ぶものに何を問いかけているのか。この問いを、研究者たちは「トランスランゲージング」という理論的枠組みで考察します。
トランスランゲージングとは何か―「言語の壁」を超える実践
トランスランゲージングという概念は、1990年代にウェールズの研究者Cen Williamsが少数言語教育の文脈で使い始めたものです。当初は「入力と出力に別々の言語を使う指導法」という実践的な記述にすぎませんでしたが、現在でははるかに広い意味をもちます。Li Weiの定義によれば、それは「社会的・政治的に規定された言語の境界を気にせず、話者の言語レパートリーを全面的に展開すること」であり、さらには言語とそれ以外の記号資源(身体、視線、ジェスチャー、空間配置など)の境界も越えていく実践です。
重要なのは、「トランスランゲージング」が単なるコードスイッチング(言語の切り替え)とは異なるという点です。コードスイッチングは「二つの言語システムを行き来する」という発想に基づきますが、トランスランゲージングは「そもそも言語は複数の独立したシステムとして分離できるものではない」という立場をとります。人が意味を作り出す際には、言語だけでなく、身振り、表情、視線、物体の配置、リズム、音などのあらゆる記号資源が一体となって機能しているのだ、と主張するのです。
この視点から本論文の著者たちは、David Block(2014年)が指摘した「言語中心主義(lingualism)」の問題を取り上げます。応用言語学は「一言語主義バイアス(monolingual bias)」を克服しつつあるが、まだ「言語的なもの」を過度に中心に置きすぎているというBlockの批判を受け、著者たちは身体的レパートリーこそが教育実践の核心にあると主張します。
空手クラブという「翻訳不可能な教室」
研究が行われた空手クラブは、ロンドン東部ニューハム区に位置しています。ニューハムは英国で最も言語的多様性が高い行政区であり、英語を第一言語とする住民の割合は約58.6%にすぎません。このクラブは無料で地域の子どもたちに開放されており、約20名の子どもたちが在籍しています。ポーランド語話者が6名、リトアニア語話者が2名、アルバニア語話者が1名、ロシア語のみ話す16歳の男の子、さらには英語のみ話す子ども、アフロカリビアン系の子どもたちなど、その背景は実に多様です。
コーチを務めるのはSensei SKと呼ばれる50代の男性で、ポーランドのロマ系(ジプシー)家族の出身です。彼の言語プロフィールは実に複雑です。父方・母方それぞれ異なるロマニ(ロマ語)の方言を話し、7歳でポーランド語教育を受け始め、現在は英国で英語を毎週習いながらも日常会話での英語使用には抵抗を感じています。さらに、空手の世界に15歳から入ったことで日本語の専門用語を豊富に習得しており、それが彼の最も誇る言語的資源の一つです。英語への不安を抱えながらも、空手道場という自分が「所有者」として権限を持つ空間では、ロマニ語・ポーランド語・英語・日本語を自在に組み合わせて指導を行います。
この空手クラブは、まさに「翻訳不可能な教室」です。参加者全員が共有する単一の言語がなく、それでも指導は成立し、子どもたちは技を学び、日本語の掛け声を覚えていく。どうしてそれが可能なのか。この問いに答えるために、著者たちはリンギスティック・エスノグラフィー(言語学的民族誌)を方法論として採用し、フィールドノート、音声・映像記録、インタビュー、写真記録などを組み合わせて分析しています。
「ここを見て」―身体がことばを超えるとき
論文では四つのデータ例が詳細に分析されています。最初の例では、SKが新しい練習を子どもたちに教える場面が取り上げられます。「Like this(こうやって)」「Watch(見て)」「First(最初)」といった最小限の言語を用いながら、SK は膝をつき、床に手をつき、立ち上がり、走り寄り、蹴りを繰り出すという一連の身体的動作を見せます。日本語で「ichi ni san shi go roku(一二三四五六)」と数えながら蹴りを繰り返す。子どもたちは言葉の意味が分からなくても、身体の動きを見てそれを真似る。言語の説明は最小限であり、身体こそが第一の「教科書」です。
これはスポーツ指導の現場では当然のことのように見えるかもしれませんが、著者たちはここに重要な理論的含意を見出します。つまり、言語的発話は身体的デモンストレーションを「補完」するものとして機能しており、身体こそが意味生成の中心にあるということです。Bucholtz and Hall(2016年)が「身体的社会言語学」において警告したように、身体を「言語の背景ノイズ」として扱う姿勢を、このクラブの実践は根本から覆しているわけです。
二番目の例では、SKが子どもたちを二列に並べる場面が描かれます。彼は「one, two, three, four(一、二、三、四)」と英語で数を割り振りながら子どもたちを適切な位置に誘導し、肩に手を添え、手を引き、視線で合図し、床を指さします。途中から「san(三)」と日本語に切り替え、その後は言葉なしに身体的接触だけで指示を伝える。そしてある子どもには「gdzie masz swoje miejsce. tu chodź(あなたの場所はどこ?ここに来て)」とポーランド語で話しかける。英語、日本語、ポーランド語、そして身振り・触覚・視線が一つの流れの中で統合されているのです。
「hajime」が身体に刻まれるとき―言語学習の本質を問う
三番目の例は、本論文で最も示唆に富む場面です。SKが子どもたちに基本形(形)「太極初段(taikyoku shodan)」を繰り返し練習させる場面において、日本語の命令語がどのように学ばれるかが詳細に記録されています。
「yoi. hajime!(用意、始め!)」という日本語コマンドで練習が始まり、子どもたちが「kiai!(気合!)」と叫ぶ。練習の途中、誰かが命令に合わせて動き出せなければ、SKはポーランド語で叱ります。「hajimeと言ったら動くんだろう、言わなかったか」と。そして同じことを英語でも繰り返す。「I’m not count. again.」と。さらに「yoi. mosubi dachi(用意、結び立ち)」と日本語に戻る。この流れの中で、子どもたちは「hajime」という言葉の意味を翻訳によって学ぶのではなく、その言葉が発せられた瞬間に自分が何をすべきかという身体的経験を通じて習得していきます。
SKは自分の指導方法をインタビューでこう語っています。「いや、そんなことはない。みんな同じように覚えるんだ、先生の話し方を通じて、彼がその言語をどう使うか、どう語りかけるかを通じて。先生は一つの練習で何百回もそれを繰り返す。そうすれば子どもたちは、いつの間にかもう覚えているんだよ」と。これは偶然の所産ではなく、身体的反復と言語的入力を意識的に統合した教授法の実践です。
四番目の例では、SKが日本語コマンド「mae(前)」を教える場面が描かれます。子どもたちがストレッチで前屈みになるよう求める際、SKは前傾姿勢をとりながら「mae. forwards.」と日本語と英語を続けて発します。翻訳というよりも、意味の二重提示であり、身体的動作が言語的説明を包み込んでいます。
「オーケストレーション」という概念の力
著者たちがこれらの実践を記述するために用いる中心概念が「オーケストレーション(orchestration)」です。オーケストラでは、バイオリン、チェロ、フルート、打楽器がそれぞれ独自の音を奏でながら、互いに応答し、全体として一つの音楽を作り出します。どの楽器が「主役」ということはなく、それぞれが文脈に応じて前面に出たり引いたりしながら、全体の意味が生まれます。
空手クラブにおける多言語・多記号実践も同様です。身体の動き、日本語コマンド、ポーランド語の規律的叱責、英語の指示、視線、触覚、リズム―これらは独立したチャンネルではなく、互いに呼応しながら「教える」「学ぶ」という共同実践を構成しています。Li Wei(2018年)が指摘するように、トランスランゲージングとはこのオーケストレーションを見える化する概念です。
この概念は、Pennycook and Otsuji(2017年)の「記号論的アセンブラージュ(semiotic assemblage)」や、Scollon and Scollon(2003年)の「記号論的集積(semiotic aggregate)」とも共鳴します。しかし著者たちは「オーケストレーション」という語を選ぶことで、単なる「要素の集まり」ではなく、意図的な調整と相互応答の動態を強調しています。これは音楽のメタファーが持つ説得力です。
日本の英語教育への示唆―「身体」を取り戻す授業デザイン
この研究が日本の英語教育に与える示唆は、一見すると遠回りに見えるかもしれません。しかし立ち止まって考えると、じつに深いところを突いています。日本の英語授業は、依然として「言語的正確さ」を中心に設計されがちです。文法の正確さ、発音の矯正、語彙のテスト。これらはすべて、言語を脱身体化された記号体系として扱う傾向を強化します。
しかし本論文が示すように、意味は身体の動きや視線、リズム、触覚と切り離せないところで生まれます。例えば、英語で「Stand up」と言いながら実際に立ち上がる動作を示す教師と、「Stand upとはstood up, stood upの過去形を持つ動詞で…」と説明する教師では、どちらがより多くの学習者に意味を届けるか。答えは明らかです。それは決して「英語が下手な教師でもジェスチャーで何とかなる」という話ではなく、「意味はそもそも身体的経験と結びついて記憶される」という認知的事実に基づいています。
また、SKが英語への不安を持ちながらも、自分が権限を持つ空間では複数言語を自在に使いこなすという事実は、日本の英語教育における「英語のみで指導すべき」という規範への問い直しにもなります。英語だけで授業をすることが「より良い英語教育」だという信念は根強いですが、この研究は、目的に応じた複数言語・複数記号資源の統合的使用こそが効果的な教育を可能にすることを示しています。
さらに言えば、多くの日本の英語教師が直面している「クラスの多様化」という現実があります。外国にルーツを持つ子どもたちが増え、日本語の習得も途上の状態で英語を学ぶという状況が各地で生じています。そうした子どもたちにとって、身体的デモンストレーションと複数言語の柔軟な使用を統合したトランスランゲージング的教授法は、言語の壁を乗り越えるための現実的な手段となりえます。
批判的考察―研究の限界と残された問い
本論文の貢献は大きいですが、批判的に読む目も持ちたいと思います。まず、データの文脈特殊性という問題があります。空手という身体実践を中心とした教育活動は、もともと身体的レパートリーが中心にあります。それを一般的な言語教育への含意として展開するには、もう一歩の橋渡し議論が必要です。空手は「動きを覚える」ことが本質であるため、言語的説明が補助的になるのは当然とも言えます。では、文学的な読解や文法の概念学習においても同じことが言えるのかは、別途検証が必要です。
次に、「トランスランゲージング空間」という概念の操作的定義の曖昧さも気になります。この概念はLi Wei(2011年、2018年)に依拠していますが、「どのような空間がトランスランゲージング空間であり、どのような空間はそうでないのか」という境界が必ずしも明確ではありません。概念が広すぎると、すべての多言語実践が「トランスランゲージング空間」として回収されてしまい、分析的切れ味を失うリスクがあります。
また、本研究では子どもたちの学習成果への言及がほとんどありません。SKの指導が実際に効果的だったのかどうか、子どもたちが日本語コマンドをどの程度習得したかについての定量的・長期的評価は行われていません。これはリンギスティック・エスノグラフィーという方法論の特性上やむを得ない面もありますが、教育的示唆を議論する際には欠かせない視点です。
さらに、SKの個人的なカリスマと言語的・身体的習熟が、このクラブの成功に果たしている役割が過小評価されている可能性もあります。6段という最高位に近い段位を持つ彼のデモンストレーションの質、子どもたちとの信頼関係、クラブに対する所有感と責任感―これらはSK個人の資質であり、それをそのまま「トランスランゲージング実践の効果」として一般化することには注意が必要です。
関連研究との対話―記号論と教育実践の接点で
本論文はRosborough(2014年)の研究と重要な共鳴を持ちます。Rosboroughは小学校の第二言語学習場面でジェスチャーと身体的位置取りが共同注意・内容調整・意図変容において果たす役割を分析しており、身体的実践が単なる補助ではなく「媒介ツール」として機能すると主張しました。本論文はその知見を支持しつつ、さらに多言語環境という文脈を加えることで、身体的実践と複数言語の統合という問いを前景化しています。
Belhiah(2013年)によるジェスチャーと相互主観性の研究も参照されており、第二言語学習場面での「互いの理解の表示」においてジェスチャーが重要な役割を果たすという知見が本論文の理論的基盤を補強しています。また、McNeill(2015年)のジェスチャー研究が「ジェスチャーは発話をオーケストレートする」と主張したことは、本論文の「オーケストレーション」概念と直接的につながります。
一方で、本論文がそれほど詳細に論じていない関連領域として、Embodied Cognition(身体化認知)の研究があります。Lakoff and Johnson(1980年)の身体化概念論(Embodied Conceptual Metaphor)以来、認知科学では概念は身体的経験に根ざすという主張が展開されてきており、本論文の観察はそうした認知科学的枠組みとも接続可能です。この架橋は今後の研究課題として残されていると言えるでしょう。
「本物の世界」を教室に持ち込むこと
論文の結論部でZhu Hua、Li Wei、Jankowicz-Pytelは次のように述べています。「(言語)教授・学習は学校や教室を超えた場所でも行われる。本研究はそれを示した。しかし、空手クラブで観察したことは、従来の学校教室で起きていること、あるいは起きるべきことと根本的に異なるものではない」と。この言葉は挑発的です。空手道場で起きていることが教室でも起きうるならば、私たちはいったい何を変えなければならないのか。
答えの一つは、「教室もトランスランゲージング空間たりうる」という発想の転換です。教師と学習者の歴史・経験・アイデンティティが交差し、複数の意味生成システムが動員される場として教室を捉え直すこと。そこでは言語的正確さだけでなく、身体的表現、視覚的資源、複数言語の柔軟な使用が意味を生み出す正当な手段として位置づけられます。
空手クラブの子どもたちは、「hajime」という言葉の意味をテキストブックで学んだわけではありません。道場の床の感触、コーチの視線の鋭さ、仲間の緊張、そして「hajime!」という声と同時に動き出す自分の身体を通じて、その言葉を身体に刻みました。それが本当の意味での「学習」だとすれば、私たちの教室はもっと身体的で、もっと多感覚的で、もっと多言語的であってよいはずです。この論文はその確信を、丁寧なフィールドワークと豊かな理論的考察で裏打ちしてくれています。
Zhu, H., Li, W., & Jankowicz-Pytel, D. (2020). Translanguaging and embodied teaching and learning: Lessons from a multilingual karate club in London. International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, 23(1), 65–80. https://doi.org/10.1080/13670050.2019.1599811
