英語を媒介言語として教科内容を教えるEMI(English Medium Instruction)の授業では、教師はどのような存在であるべきなのでしょうか。日本の英語教育においても、近年はCLIL(Content and Language Integrated Learning)の普及とともに、「英語で何かを教える」という授業形態への関心が高まっています。そうした状況のなかで、香港の中等学校を舞台にした本論文は、教師が授業中に自らの「社会的役割」を意図的に変えていくことの意味と効果を、精緻な相互行為分析によって明らかにしようとした意欲的な研究です。
筆者のKevin W. H. Taiは、現在香港大学教育学部の言語・リテラシー教育部門でAssistant Professorを務めるとともに、UCLのIOEにも籍を置く研究者です。彼の専門はConversation Analysis(会話分析)、トランスランゲージング、教室談話、そして質的研究法であり、本論文はその複数の専門領域が交差する地点に位置しています。本論文が掲載されたのは、Taylor & Francis発行の査読誌Language and Education(2025年、第39巻第4号)であり、オープンアクセスで公開されています。
「トランスポジショニング」とは何か
本論文のキーワードは「トランスポジショニング(transpositioning)」です。この概念はLi and Lee(2023)によって提唱されたもので、個人がコミュニケーションのなかで自らのアイデンティティの立ち位置(ポジション)を流動的に変えていくプロセスを指します。いわば「キャラ変」の学術的な表現とでも言えるかもしれませんが、単なる役割演技や気分転換ではありません。トランスポジショニングは、ポジショニング理論(Davies and Harré 1990)と「液状の近代(liquid modernity)」(Bauman 1996)という二つの思想的背景を持ちます。
ポジショニング理論によれば、人のアイデンティティは固定されたものではなく、会話のなかで相互行為的に、かつ反復的に構築されます。一方、Baumanの液状の近代という概念は、現代社会においては自己や役割が固定されず、常に変容し続けるという視点を強調します。この二つを組み合わせたトランスポジショニングは、「話者が対話の流れのなかで、自分のスタンスを絶えず変化させていくプロセス」として定義されます(Li and Lee 2023, p. 5)。そして、このプロセスを促進するのが「トランスランゲージング」という言語実践です。
トランスランゲージングという視点
トランスランゲージングとはもともと、Williams(1994)がウェールズのバイリンガル教室において提唱した概念で、理解や表現のために意図的に言語を切り替える実践を指していました。しかしその後、Li(2018)らによって理論的に発展し、今日では複数言語や記号体系、身体的・感覚的なリソースを流動的に活用する意味生成のプロセス全体を指す概念へと拡張されています。ジェスチャー、表情、声のトーン、図や絵といった多様なリソースもすべて、トランスランゲージングの一部とみなされます。
つまり本論文の主張は、教師がトランスランゲージングという実践を通じて、授業中に自らの社会的役割を変容させ(トランスポジショニング)、それによって生徒の学びを深めることができる、というものです。そしてこの能力こそが、教師の「教室トランスランゲージング・コンピテンス」の本質的な一部をなすのだと論じています。
研究の舞台と方法
研究が行われたのは、香港の由緒あるEMI中等学校の中学3年生のクラスです。このクラスは「強化クラス」と呼ばれ、数学の内部試験で平均以下の成績を収めた18名の生徒で構成されていました。担当教師は男性数学教師で、EMI校出身のカントン語母語話者であり、英語は第二言語です。8年以上の数学指導経験を持つかたわら、学部生時代には演劇の指導も行っていたという異色の経歴の持ち主で、こうした背景が後の分析にも影響を与えていることがわかります。
データ収集は2019年4月に行われ、40分授業11コマのビデオ録画、フィールドノート、事前の半構造化インタビュー、そして授業後に行われた「ビデオ刺激想起インタビュー(video-stimulated-recall interview)」から構成されています。分析には二つの方法論が組み合わされています。一つはMCA(Multimodal Conversation Analysis、多モード会話分析)で、発話の連鎖だけでなく、視線、ジェスチャー、移動などの身体的行為も含めた相互行為を詳細に分析します。もう一つはIPA(Interpretative Phenomenological Analysis、解釈的現象学的分析)で、教師自身の経験や認識を内側から理解しようとするアプローチです。この二つの組み合わせにより、「何が起きているか」という外的観察と、「なぜそうしているか」という内的解釈の両面から、教師の実践を浮かび上がらせています。
二つの場面から読み解くトランスポジショニング
論文の分析は二つの抽出場面(Extract)から構成されています。第一の場面は「計算機を使った式の入力方法を生徒と共に学ぶ」場面です。教師が数学の式を計算機に入力することが面倒だという考えを述べたところ、生徒のS4が「そうでもないですよ」と異議を唱えました。教師はその意見に驚き、「そんなに簡単なの?」と問い返し、生徒が計算機の操作方法を実演してみせると、教師は自分の席から離れてS4の元に近づき、その様子を熱心に観察しました。
この「物理的な移動」が象徴的です。教師の机という「権威の場」を離れ、生徒に近づくという身体的行為は、教師としての立場から「学ぶ者」としての立場への移行を視覚的に表現しています。そして生徒の説明に対して「哦(へえ)」「嘩(すごい)」と驚きの声を上げ、genuineな驚きを示す。これは形式的な称賛ではなく、本当に知らなかったことを知った、というモーメントとして機能しています。その後教師は「でも計算機に頼りすぎると、未知数が含まれる問題のときに手も足も出なくなるよ」と数学教師の役割に戻りつつも、今度は「好似哎呀死啦我平時就掛住撳機(ああ、やばい、いつも計算機ばかり押してたから)」と、計算機頼りの生徒を演じてみせます。教師の立場、生徒の立場、仮想の生徒の立場、という三つのポジションを行き来するこの一連の流れが、トランスポジショニングの好例として分析されています。
第二の場面は「山登りのたとえで正の傾きと負の傾きを教える」場面です。教師は黒板に三角形の山を描き、その頂上に人物を描き加えながら「and then after that I go up」と言います。「I(私)」という一人称の使用によって、教師は数学教師ではなくハイカーとしての自分を演じ始めます。「山を離れるときはどんな気持ち?」と問いかけ、悲しい顔の絵文字を黒板に描き、「it’s very negative」と述べることで、「ネガティブ」という語の日常的意味(悲しい、消極的)と数学的意味(負の値)を同時に活性化させます。目を閉じてから開けてにっこり笑いながら「energetic、very happy、very positive」と言い、山を下りながら「I feel very↓ negative↓」と語尾を下げて言う。この場面では言語(英語・広東語)、声のトーン、表情、ジェスチャー、身体の位置、黒板の図といったあらゆるリソースが統合されていることがわかります。
ビデオ刺激想起インタビューが語るもの
本論文の分析に厚みを加えているのが、IPA分析によるインタビューデータです。教師は事後インタビューで、このような授業スタイルをとる動機を率直に語っています。自分自身が中学生のころ、傾きの正負を覚えるのに苦労したという個人的な経験が、このハイキングのたとえを生み出した、と。計算機の使い方についても、自分自身が計算機に頼るうちに公式を忘れた経験があるから生徒に伝えたかったのだと語っています。
このことは、Li(2011)やTai(2023)が指摘する「トランスランゲージング空間は、話者の個人的な歴史、生活経験、信念によって形成される」という主張を裏付けるものです。教師の個人史が、授業の相互行為デザインに直接反映されているのです。こうした内側からの声を引き出すことができたのは、まさにIPAという質的手法の強みと言えるでしょう。
「教室トランスランゲージング・コンピテンス」の再定義
本論文の理論的貢献として特に注目すべきは、「教室トランスランゲージング・コンピテンス(classroom translanguaging competence)」の概念を拡張した点です。Tai and Dai(2023)らによれば、この能力とはトランスランゲージングを教育的リソースとして活用し、生徒の学びを媒介・促進する能力のことです。しかし本論文はここに「トランスポジショニング」という要素を加えます。すなわち、教師は単に複数言語・複数モードのリソースを戦略的に動員するだけでなく、授業の動的な展開に応じて自らのアイデンティティ的立ち位置を流動的に変えながら、そのつどリソースを選択・組み合わせる能力が必要だと主張するのです。
これは大きな転換です。これまでの言語教育研究では、教師の「コンピテンス」はしばしば知識や技術の蓄積として語られてきました。しかし本論文は、教師の有能さをそのような固定的な能力観では捉えきれないと示唆しています。教師は流動的な存在として、授業の文脈のなかでアイデンティティを変容させながら教えているのです。
日本の英語教育現場への示唆
日本の英語教育の文脈でこの研究を読むと、いくつかの重要な示唆が浮かび上がります。まず、多くの日本の英語教師が「英語のネイティブスピーカーではないこと」に引け目を感じているという現実があります。しかしこの研究が示す教師は、カントン語母語話者であり英語は第二言語であるにもかかわらず、その言語的な「不完全さ」を逆手にとって、生徒と一緒に学ぶ姿勢を体現することで、むしろ豊かな学習環境を作り出しています。日本の英語教師もまた、「自分もまだ学んでいる」というポジションを恐れず取ることが、生徒との対等な学びの空間を生む可能性があるのではないでしょうか。
次に、CLILやEMIの授業で教師に求められる「内容知識と言語指導の統合」という課題についてです。本研究は、複言語・複モードのリソースを意識的に活用することが、数学という抽象的な内容を生徒にとって身近で記憶しやすいものにする可能性を示しています。つまり、広東語と英語を行き来する、絵文字を描く、山登りのたとえ話をする、といった「雑多に見える実践」が、実は緻密に計算された教育的行為であるという視点は、日本のCLIL教師にとっても参考になるはずです。ついつい「英語だけで通す」ことにこだわってしまいがちな日本のEMI・CLIL教室に対して、母語や多様なリソースの活用を積極的に認める本論文の立場は、一種の解放感を与えてくれます。
また、「生徒から学ぶ」という教師の姿勢についても考えさせられます。日本の学校文化において、教師が生徒に「わからないことを教えてもらう」という場面は、まだまだ稀です。しかし本論文が描く「コ・ラーニング(co-learning)」の場面は、それが決して教師の権威失墜を意味しないことを示しています。むしろ教師が「受け取る側」としての役割を担うことで、生徒の知識が正当に評価され、より公平な学習環境が生まれうるのです。
関連研究との対比と学術的位置づけ
本論文と関連する先行研究としては、Tai and Li(2021)によるコ・ラーニングの研究と、同じくTai and Li(2023)による身体化された演技(embodied enactment)の研究が重要な位置を占めています。前者はEMI数学教室において教師と生徒が相互に知識を学び合うプロセスを示し、後者は教師が仮想的な場面を身体で演じることで数学的文脈を創り出す様子を分析したものです。本論文はこれら二つの先行研究を「トランスポジショニング」という新たな概念的枠組みで再解釈し、発展させた作品と言えます。
また、Sah and Li(2022)がネパールのEMI教室における翻訳言語実践を批判的に分析し、国家語が先住民の言語よりも優先されることで言語ヒエラルキーが再生産されていると指摘した点とも対比できます。本論文の香港の教室では、広東語と英語を自在に行き来する実践が生徒の参加を促進していますが、ここで問われるべきは「どの言語リソースが自由に使われているのか」という問いです。香港という文脈では広東語と英語が主要なリソースとして機能していますが、日本のような文脈では日本語と英語の間でいかに流動的な実践が可能か、そしてそれが誰にとってのものかという問いを持ち続けることが必要です。
Bozbıyık and Morton(2023)による大学院レベルのEMI薬学クラスの研究と比較すると、本論文は中等教育レベルかつ成績下位層の生徒を対象としている点で、より実践的な課題に向き合っていると言えます。成績の振るわない生徒たちが、教師のトランスポジショニングによって授業に引き込まれていく様子は、「学力の差」を超えて学びを成立させるための手がかりを与えてくれます。
方法論的な評価と限界
MCAとIPAを組み合わせるという方法論的な選択は、本研究の強みの一つです。MCAによって相互行為の細部が丁寧に記述され、IPAによって教師の内的な経験が補完される。この組み合わせにより、表面的な行動の記述に留まらず、その行動を支える教師の動機や信念にまでアクセスすることが可能になっています。Tai(2023)自身がこの組み合わせを方法論的枠組みとして著書でも提唱しており、本論文はその実践的な適用例としても読めます。
一方で、本論文自身も認める限界もあります。まず、対象となった教師は1名であり、かつ研究者がトランスランゲージングに強い関心を持っていることを事前に把握したうえで自ら参加を希望した人物です。つまり、彼の実践はEMI教師全般を代表するものとは言えません。また、収集されたデータは2019年4月という特定の時期に限定されており、複数年度にわたる継続的な観察があれば、より深い理解が得られたかもしれません。さらに、筆者自身がこの学校の卒業生であるという事実は、研究者のポジショナリティとして正直に述べられていますが、それがデータ解釈に与える影響を完全に排除することは難しいでしょう。
加えて、トランスポジショニングが生徒の数学的理解や言語習得にどのような効果をもたらすかについて、定量的なエビデンスが示されていない点は、今後の研究課題として残されています。筆者も結論部でこれを明示しており、将来的には生徒のパフォーマンスデータとの照合が求められるでしょう。
政策的インプリケーションと今後の展望
本論文は最後に、香港の言語教育政策に対する提言も行っています。EMI政策においてトランスランゲージングを「問題」や「違反」ではなく、多様な言語的・記号論的リソースを活用するための「資源」として積極的に位置づけるよう求めているのです。さらに、複言語的モデルを社会的文脈に根ざした形で構築し、教師が実際にトランスランゲージング空間を創り出せるような支援体制を整えることの必要性を訴えています。
この提言は、日本においても同様に重要な意味を持ちます。現在の日本のEMI・CLIL教育は、「英語だけを使うべき」という規範と、「生徒の理解を助けるために日本語を使いたい」という現場の要求との間で揺れ続けています。本論文は、その揺れを「能力不足」の問題として捉えるのではなく、複言語・複モードのリソースを戦略的に活用する「コンピテンス」の問題として再枠組みする視点を提供しています。
トランスポジショニングという概念はまだ新しく、2023年にLi and Leeによって提唱されたばかりです。本論文はそのコンセプトを教室という具体的な場で初めて経験的に検証した研究として、先駆的な位置を占めています。今後、異なる文化・言語的文脈でのトランスポジショニングの研究が積み重なることで、この概念の有効性と限界がより明確になっていくでしょう。日本の研究者や教育実践者にとっても、自らの文脈でこの問いを引き取る余地は十分にあると感じます。教室の中で「役割を変える」ことが、いかに豊かな学びを生むか。それを丁寧に記述し、理論的に位置づけた本論文は、英語教育研究の一つの重要な参照点となるはずです。
Tai, K. W. H. (2025). Transpositioning in English medium instruction classroom discourse: Insights from a translanguaging perspective. Language and Education, 39(4), 965–999. https://doi.org/10.1080/09500782.2024.2382748
