はじめに―論文との出会い

外国語教育の現場にいると、奇妙な矛盾に気づくことがある。授業中、学習者たちは教師の目を盗むように母語でひそひそと話し合い、教師はそれを「禁止」する。だが授業が終わった瞬間、その同じ子どもたちは複数の言語を自在に行き来しながら友人と冗談を言い合い、SNSに投稿し、音楽を楽しんでいる。教室という空間だけが、現実の言語使用から切り離されているように見える。こうした違和感に理論的な言葉を与えてくれるのが、Claudia VallejoとMelinda Doolyが2020年に発表した論文 “Plurilingualism and Translanguaging: Emergent Approaches and Shared Concerns. Introduction to the Special Issue”(International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, Vol.23, No.1, pp.1–16)である。

本論文はスペインのバルセロナ自治大学を拠点に活動する二人の研究者によって書かれた、特集号の序論にあたる。VallejoはGREIP(複言語教授・インタラクション研究センター)のメンバーとして、社会的・教育的不平等と複言語実践の関係を探るフィールドワークを続けてきた研究者であり、Doolyはテクノロジーを活用した言語学習や教師教育を専門とするシニア研究者である。二人はともにカタルーニャという多言語環境に身を置きながら、言語教育が現実の言語使用とどれほど乖離しているかを日常的に目にしてきた。その経験が、この論文の底流に流れている。

「一言語のみ」という呪縛

論文が最初に問題にするのは、OLON(One-Language-Only)という考え方である。一つの場面には一つの言語だけがふさわしい、という思い込みのことだ。英語の授業では英語だけ、数学のテストでは国語だけ、という運用が世界中の教室で当然のように行われている。VallejoとDoolyはこの発想が単なる教育方針ではなく、「一国家・一文化・一言語」というイデオロギーの産物であると指摘する。問題はその影響が教室内にとどまらず、入試・市民権審査・就職試験にまで及んでいることだ。

日本の英語教育を想起させるこの指摘は、ただちに現実的な意味を持つ。日本の大学入試における英語の筆記試験は、受験者の実際のコミュニケーション能力よりも、単一言語・単一規範に基づく運用能力を測ることに特化してきた。日本語以外の母語を持つ親の子どもや海外経験を持つ学習者が、むしろその多言語資源を持て余してしまうという逆説は、OLONが生む歪みの典型例だと言える。著者たちが引用するMcNamaraとShohamyの議論―標準化されたテストが個人の全体的な言語能力を見えなくする―は、日本の教育評価論と接続する論点として重要である。

複言語主義の二つの顔

論文の核心部分の一つは、「複言語主義」(plurilingualism)という概念を丁寧に整理していることにある。著者たちは複言語主義に二つの異なる顔があることを明確にする。一方は欧州評議会(Council of Europe)が政策文書に掲げる「移動と競争力のための複言語主義」であり、もう一方はGumperz以来の相互行為論的伝統に根ざした「研究フレームワークとしての複言語主義」である。前者は個人の言語レパートリーを社会流動性に結びつける功利的な側面を帯びており、後者は話者が実際にどのように多様な言語資源を使って意味を共同構築するかを微視的に分析する営みだ。

この区別は、一見地味に見えて実は根本的に重要である。なぜなら、欧州評議会の共通参照枠(CEFR)は複言語主義を謳いながら、言語ごとのレベル記述子(A1、B2など)という形で言語分離の論理を温存しているからだ。VallejoとDoolyはこの矛盾を「両義性」と呼び、批判的な視点から整理している。日本では2020年代以降CEFRの導入が進んでいるが、そのフレームをどのように使うかによって、複言語主義の精神を生かすことも、逆に硬直した評価体制を再生産することもできる。この論文は、その選択の意味を問い直す契機を与えてくれる。

トランスランゲージングが開く問い

次に著者たちが論じるのがトランスランゲージング(translanguaging)だ。この概念はもともとウェールズ語の教育実践から生まれた(Williams, 1996)が、その後Garcia、Li Wei、Canagarajahらによって理論化され、特に英米圏の多言語・多文化都市環境における言語研究で急速に広まった。

トランスランゲージングの核心は、二言語使用者の頭の中に「英語システム」と「日本語システム」が別々に存在するのではなく、一つの統合された記号資源があるという発想にある。OtheguyとGarcíaの言葉で言えば、話者は「社会的・政治的に定められた名前付き言語の境界線を気にすることなく、自分の言語レパートリー全体を展開する」のである。英語の会話中に日本語の表現で考え、スペイン語のジョークを英語で紹介しながら身振りで補足する。そうした実践は「コードスイッチング」という名で従来は分析されてきたが、トランスランゲージングはその発想自体を問い直し、言語の境界線という概念そのものを解体しようとする。

VallejoとDoolyはこのトランスランゲージングの政治性を丁寧に描き出す。「トランス」という接頭辞は単なる言語間の移動を示すのではなく、言語ヒエラルキーへの「越境」と「変革」を意味する。少数言語使用者が教室で自分の言語を使うことを許されず、自分の知識を示せないとき、その沈黙は認識論的な暴力でもある。トランスランゲージングはその暴力に対する抵抗の言語として生まれたという歴史的文脈が、この論文によってきちんと位置づけられている。

二つの概念の緊張と接点

論文の読みどころはなんといっても、複言語主義とトランスランゲージングの「違い」を誠実に直視している点だ。多くの概説論文なら両者を「似たようなもの」として並べて終わるところを、VallejoとDoolyは両者の緊張関係に踏み込む。

たとえばコードスイッチングという現象を取り上げてみよう。複言語主義の研究者たちにとって、話者が「なぜ今、その言語を、この場面で使ったのか」を問うことは、相互行為の微細な組み立てを読み解く重要な手がかりになる。ところがトランスランゲージングの理論的枠組みからすると、言語の境界線を前提にしたコードスイッチングという分析カテゴリー自体が、すでに言語分離のイデオロギーに妥協していることになる。これは単なる用語の違いではなく、「言語とは何か」という根本的な問いをめぐる見解の相違だ。

また話者の言語能力をめぐっても重要な相違がある。トランスランゲージングの立場では、二言語使用者の言語能力は「常にすべての段階において完全である」と捉えられる。一方、複言語主義の立場では、能力は流動的で状況に依存し、常に「発展中」にあるという「創発的能力」の概念を重視する。この違いは教育評価のあり方にも直結する。著者たちは両者の架け橋を無理に架けるのではなく、それぞれの論理的帰結を追いながら、対話の可能性を探っている。その誠実さが本論文の学術的な強みである。

教室への応用―理念と現実の間

理論的な議論が豊富なこの論文で、日本の英語教育関係者が最も実感を持って読めるのは、「なぜ教師たちはこれらの理念をなかなか採用しないのか」という箇所だろう。VallejoとDoolyは、教師たちが複言語的・トランスランゲージング的な実践に概して賛同しつつも、実際の授業への組み込み方や評価との整合性に具体的な困難を感じていることを率直に述べている。

これは日本の教育現場そのものだ。英語で英語を教えることが推奨され、授業での日本語使用は「逃げ」と見なされることが多い。しかし現実には、学習者の母語や既存の言語知識を活用することで理解が深まる場面は無数にある。英語で文法を説明するよりも、日本語で概念を確認してから英語で練習する方が習得が早い場合は少なくない。この実践的な知恵は教師たちが現場で積み上げてきたものだが、それを理論的に正当化するフレームワークとして、本論文が示す複言語主義・トランスランゲージングの視点は有効に機能する可能性がある。

さらに論文は評価の問題にも切り込んでいる。GarcíaとLi Weiが提唱するように、トランスランゲージング的な評価は学習者が持つ言語レパートリー全体を使って知識を示せるようにするものだが、著者たちはそれが「現在ほとんどの学校や教師が許容し価値を置いているものの限界を超えた認識論的な変革を必要とする」という現実も認めている。変えたいが変えられない。この「わかっているがどうにもならない感」は、日本の英語教師が抱える閉塞感と深く共鳴するのではないだろうか。

関連研究との対比―日本の文脈で考える

本論文は主に欧州と北米の文脈を中心に議論を展開しているが、日本の第二言語習得研究との接点も重要だ。日本ではKrashenのインプット仮説やSwainのアウトプット仮説が長らく英語教育の理論的基盤として機能してきた。これらの理論は基本的に「言語は分離されたシステム」という前提に立っており、論文が批判するOLONの発想と親和性が高い。

これに対し、複言語主義やトランスランゲージングの議論は、第二言語習得論が見落としてきた「言語間のクロスリンガルな資源活用」や「マルチモーダルな意味構築」という現象を前景化する。Cumminsが「共通基盤能力モデル」(CUP)で示したように、言語間の知識転移は学習において重要な役割を果たすが、それをさらに拡張した形で実践論に結びつける試みとして本論文は読める。日本語母語話者が英語を学ぶ場合、二つの言語は互いに切り離された別物として扱われることが多いが、実際には日本語の語彙知識、文章構造への意識、さらには非言語的なコミュニケーション経験がすべて英語習得のリソースになりうる。

また近年、日本でも増加する外国人児童生徒を対象とした研究が注目を集めている。こうした子どもたちは複数言語を持ちながら学校現場では日本語のみで評価される。VallejoとDoolyが指摘するOLONの問題は、この文脈でこそ切実なリアリティを持つ。学校カリキュラムが単一言語・単一文化の規範を前提とし続ける限り、多言語資源を持つ子どもたちの知識と能力は見えないままになってしまう。

批判的考察―論文の強みと限界

本論文の最も重要な学術的貢献は、複言語主義とトランスランゲージングを単純に統合するのではなく、その差異を知的誠実さをもって記述した点にある。二つの概念をめぐる議論は、ともすれば「どちらが正しいか」という二項対立に陥りがちだが、VallejoとDoolyはそれぞれの認識論的な起点―相互行為論的社会言語学と、より社会学的・政治的な言語観―の違いを明確にしながら、対話の可能性を探っている。この姿勢は研究者だけでなく、実践家にとっても手本となる。

一方で限界も指摘できる。論文の性格上、特集号の序論として書かれているため、個別の実証研究への言及が薄く、理論的・概念的な整理に終始している部分がある。日本語のような孤立した言語環境、あるいはアジアの多言語文脈での応用可能性については十分に論じられていない。欧州および北米中心の事例に基づく議論が、そのままアジアの文脈に当てはまるかどうかは慎重に検討する必要がある。Kubotaが指摘するような「西洋中心性」の問題は、本論文自体にも程度の差こそあれ当てはまる。

また、論文の末尾で著者たちが「学習者の声が研究や教育実践から欠如している」と自己批判的に述べていることは興味深い。複言語実践をめぐる研究の多くが教師や研究者の視点から書かれており、学習者自身がそれをどう感じるか、学習者が望む言語実践はどのようなものかという問いは、確かに十分に探究されてきていない。この反省的な姿勢は、論文全体の知的誠実さを示すものとして評価されるべきだ。

日本の英語教育への示唆

この論文から日本の英語教育関係者が得られる実践的な問いを、いくつか提起しておきたい。まず、「英語の授業で英語だけを使う」という方針は、本当に学習効果を高めているのか、あるいは教室における言語の純粋性を守るためのイデオロギー的慣行に過ぎないのか。次に、入試や資格試験のスコアだけで「英語ができる」と判断する評価の枠組みは、学習者の持つ複言語的な資源をどれほど見えなくしているのか。そして、日本の英語教育が「英語を学ぶ」ことと「英語で考える・生きる」ことをいつまでも切り離し続ける限り、グローバル社会における言語実践との乖離は広がるばかりではないか。

VallejoとDoolyが引用するLambの言葉は重い。「モノリンガルな習慣性は、トップダウンの言語教育政策だけでは是正できない。多言語主義が誰にとっても当たり前の価値として定着するためには、フォーマルな教育構造においても非公式な公共空間においても、深く批判的な再教育のための機会が必要だ」。これは欧州の話として遠くにある話ではない。日本の英語教育が「受験英語」から「使える英語」へと転換しようとするたびに繰り返されてきた議論の、根っこにある問いと重なる。

おわりに―変化は遅い、でも始まっている

この論文を読み終えて感じるのは、理論的な洗練さと同時に、実践への温かい視線だ。VallejoとDoolyは変革が難しいことをよく知っている。教育における変化は遅い。効果が見えるまでに何年もかかる。それでも彼女たちは諦めない。それは彼女たちが研究者であると同時に、実際の教育現場と向き合い続ける実践者でもあるからだろう。

複言語主義とトランスランゲージングという二つの言葉は、今の日本の英語教育には馴染みが薄いかもしれない。だが、その背後にある問い―学習者の持つすべての言語資源を教育的に価値あるものとして認めるかどうか、言語の「正しさ」よりも言語の「豊かさ」を評価するかどうか―は、英語教育に携わるすべての人が日々直面している問いでもある。この論文は、その問いに対する答えを一つ押しつけるのではなく、問い続けることの大切さを示してくれる。それが本論文の、大きな意義と思う。


 

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By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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