はじめに:新しい教育概念の提起

現代のグローバル化社会において、外国語教育の役割は単なる言語技能の習得を超えて、より包括的な教育的使命を担うべきだという議論が活発化しています。本論文”Intercultural citizenship in the (foreign) language classroom”は、そうした議論の最前線に位置する重要な研究として、異文化間市民性教育(Intercultural Citizenship Education: ICE)という概念を中心に据えた特集号の導入論文です。

この論文の著者陣は、この分野における第一人者たちです。主執筆者であるメリナ・ポルト氏は、アルゼンチンのラ・プラタ国立大学とアルゼンチン国立科学技術研究会議(CONICET)に所属し、南米における外国語教育研究の拠点的存在です。ステファニー・アン・ホートン氏は日本の佐賀大学で教鞭を執り、日本の英語教育における異文化理解の専門家として知られています。そして、マイケル・バイラム氏は英国ダラム大学の教授で、異文化コミュニケーション能力の概念を体系化した第一人者として国際的に高い評価を受けています。

異文化間市民性教育の理論的基盤

概念の核心とその意義

異文化間市民性教育は、従来の外国語教育が持つ道具的価値(実用的価値)を認めつつも、それを超えた教育的価値に焦点を当てる概念です。この考え方の根底には、外国語教育が単なる言語習得の場ではなく、個人の発達と社会の発展に寄与する教育の場であるべきだという信念があります。

バイラム氏が2008年に提唱したこの概念は、外国語教育における異文化コミュニケーション能力の育成と、市民教育における地域社会での市民的行動を統合しようとする試みです。つまり、外国語を学ぶ過程で異文化への理解を深めると同時に、その理解に基づいて実際の社会問題に取り組む能力を育成することを目指しています。

この統合の核心は、外国語教育の関係性(他者への焦点)、超国家的視点、批判的視点と、市民教育の地域社会での市民的行動を組み合わせることにあります。このアプローチにより、学習者は自国の枠を超えた視野を持ちながら、同時に具体的な社会変革に参加する能力を身につけることができるとされています。

批判性の位置づけと実践

ICEの中核概念の一つである「批判性」は、単なる批判的思考を超えた概念として位置づけられています。バイラム氏の異文化コミュニケーション能力モデルにおける「批判的文化意識」は、「自分自身と他の文化や国々の視点、実践、産物を明示的な基準に基づいて批判的に評価する能力」と定義されています。

この批判性は、個人的・社会的変革を引き起こし管理する力として機能し、異文化対話を通じて意識的で意図的な個人的・社会的変革のプロセスを促進するとされています。実践レベルでは、この批判性は「行動における批判」、つまり批判的自己省察と国家的視点や伝統の再構築を伴う変革的批判として現れます。

しかし、このような批判性の概念には課題も存在します。文化的背景によって批判性の理解や実践方法が大きく異なる可能性があり、特に権威を重視する文化的文脈においては、このような批判的アプローチが適用困難な場合があります。また、批判性を追求する過程で、建設的な対話よりも対立を生み出してしまうリスクも考慮する必要があります。

ネイティブスピーカー主義への挑戦

理論的批判の意義

論文では、ネイティブスピーカー主義(native-speakerism)への批判が重要な論点として取り上げられています。従来の外国語教育では、ネイティブスピーカーを言語的・社会文化的モデルとして位置づける傾向がありましたが、ICEの観点からは、このような考え方は偏見や差別の温床となる問題として捉えられています。

この批判は英語教育に限定されず、フランス語、日本語、さらには絶滅危機言語であるガーンジー島のガーンジー語教育にまで及んでいることが指摘されています。このような広範囲にわたる問題の存在は、ネイティブスピーカー主義が言語教育全般に根深く浸透している現実を示しています。

実践上の困難

しかし、ネイティブスピーカー主義の克服には実践上の困難が伴います。論文中でも言及されているように、興味深いことに、一方でネイティブスピーカー主義を批判しながら、他方で「ノンネイティブスピーカー同士の交流」を価値あるものとして評価する研究が存在するという矛盾が指摘されています。

この矛盾は、「ゾンビカテゴリー」という概念で説明されています。これは、多文化主義や多言語主義が一般化した現代においても、文化、国家、言語を静的で境界の明確なシステムとして描写するカテゴリーが「死んでいながら生きている」状態で存在し続けているという状況を指しています。このような概念的混乱は、理論と実践の間の齟齬を示す重要な問題として認識する必要があります。

異文化間話者概念の可能性と限界

理想的モデルとしての異文化間話者

ICEにおいて中心的な役割を果たすのが「異文化間話者」または「異文化間仲介者」の概念です。この概念は、様々な種類のテキスト(言語的・非言語的、口頭・書面・視覚的・デジタル・マルチモーダル)を批判的・比較的に「読む」能力を持つ人物として描かれています。

異文化間話者は、テキストの意味をその文脈で分析するだけでなく、それが他の文脈でどのように解釈され得るかを理解し、時には対立する誤解を解決する能力を持つとされています。さらに、このような話者は多言語的、世界市民的、合意志向的、支援的で交渉に開かれた存在として特徴づけられ、自らの立場性から出発して他者と対等な条件で意味を交渉する能力を持つとされています。

現実的制約の認識

しかし、このような理想的な異文化間話者の育成には現実的な制約が存在します。まず、言語能力の問題があります。外国語学習者が、母語話者と同等の複雑な文化的・政治的議論を行うことは容易ではありません。また、文化的背景の違いにより、「対等な条件での交渉」という理想が必ずしも実現できない場合があります。

さらに、異文化間話者の概念は、個人の能力や資質に重点を置く傾向がありますが、実際の異文化間コミュニケーションでは、制度的・構造的な権力関係が大きな影響を与えることが多く、個人の努力だけでは解決できない問題も存在します。

国家的枠組みを超えた市民性の模索

コスモポリタンな視点の意義

ICEの重要な特徴の一つは、従来の国家中心的な市民教育を超えて、世界市民的(コスモポリタン)な視点を提示することです。マイヤーズ氏の指摘によれば、グローバル市民教育の主要な障壁は、愛国的な国民を育成するという学校教育の伝統的な基本理念にあります。ICEは、このような国家的枠組みに挑戦し、普遍的人権への取り組みを含むコスモポリタンな視点を促進しようとしています。

オスラーとスターキー氏による「世界市民のための教育」の概念は、国家的市民性のモデルとは対照的に、複雑で多重なアイデンティティの現実を強調し、市民性の文脈におけるアイデンティティの探求のための空間を提供します。このような視点により、言語学習者は国家の代表者という役割から解放され、異文化的視点の個人的探求として経験を枠組み化することができるとされています。

実践上の課題

しかし、このようなコスモポリタンなアプローチには実践上の課題があります。まず、多くの教育制度は依然として国家的枠組みの中で運営されており、教師や学校管理者がこのような超国家的視点を受け入れることは容易ではありません。また、保護者や地域社会からの理解を得ることも困難な場合があります。

さらに、コスモポリタンな視点と地域的・国家的アイデンティティのバランスをどのように取るかという問題もあります。グローバルな視点を重視するあまり、学習者が自らの文化的ルーツや地域社会とのつながりを軽視してしまう危険性も考慮する必要があります。

地域社会での行動:理論と実践の架橋

行動指向の意義

ICEの特徴的な要素の一つは、「地域社会での行動」への強調です。これは、学習者が異文化理解を深めるだけでなく、その理解に基づいて実際の社会変革に参加することを求める概念です。論文では、世界11カ国(アルゼンチン、中国、デンマーク、ハンガリー、イタリア、日本、韓国、スウェーデン、台湾、英国、米国)での実践例が紹介されており、学習者がインターネットを通じて国際的に協力し、社会的に重要な問題を比較検討する手法が示されています。

このような実践では、外国語が実際のコミュニケーションツールとして使用され、時には英語がリンガ・フランカとして機能します。学習者は他国のパートナーの助けを借りて自国の社会問題を分析し、国際的またはコスモポリタンな視点を獲得し、それを基盤として自らの社会政治的環境における市民的行動を起こすとされています。

実践の限界と課題

しかし、このような行動指向のアプローチには限界があります。まず、多くの実践例が小規模で短期的なものにとどまっており、持続可能な社会変革につながるかどうかは疑問視されます。また、学習者の言語能力や文化的理解の制約により、複雑な社会問題に対して表面的な取り組みに終わってしまう危険性もあります。

さらに、「地域社会での行動」の定義や範囲についても議論の余地があります。論文中の一つの研究では、教室内での議論自体が「世界での行動」を構成するかどうかという重要な問題が提起されています。このような概念的曖昧さは、ICEの実践的価値を評価する上で重要な課題となっています。

特集号収録論文の多様性と共通課題

地域的多様性の価値

この特集号の大きな価値の一つは、世界各地の多様な文脈でのICE実践を収集していることです。アルゼンチンと英国の学生による軍事独裁政権とサッカーワールドカップに関する協働プロジェクト、台湾の学生によるフィリピンでの国際サービスラーニング、韓国の小学生を対象とした批判的異文化市民性教育、ノルウェーの多様性対応教師教育など、様々な地域と教育段階での取り組みが紹介されています。

これらの事例は、ICEが特定の文化的文脈に限定されない普遍的な可能性を持つことを示唆しています。同時に、各地域の特殊性や制約についても貴重な知見を提供しています。例えば、ノルウェーの事例では、移民の多様性に対応する必要性と、教師の既存の概念や方法を変革することの困難さが明らかにされています。

共通する課題の浮上

一方で、これらの多様な実践から共通する課題も浮上しています。教師教育の重要性と困難さは多くの事例で言及されており、特に多様性の経験が少ない教師が新しい要求にどのように対応するかという問題が指摘されています。また、教室と地域社会の境界線の曖昧さ、理論と実践のギャップ、持続可能性の問題なども共通の課題として認識されています。

さらに、多くの実践が質的データと解釈的アプローチに基づいており、アクション・リサーチの要素を含んでいることも注目されます。これは、ICE研究がカリキュラム開発と密接に関連していることを示していますが、同時に客観的評価の困難さという問題も提起しています。

研究方法論の特徴と限界

質的アプローチの妥当性

特集号に収録された研究の多くが質的データと解釈的な視点を採用していることは、ICE研究の特徴を示しています。学生のスカイプ会話、省察的記録、インタビュー、公開発表、協働的成果物など、多様なデータ源が活用されており、ケーススタディ、アクション・リサーチ、内容・談話分析などの手法が用いられています。

このような質的アプローチは、ICEのような複雑で文脈依存的な現象を理解する上で適切な選択と考えられます。特に、学習者の意識変化や文化的理解の深化といった内面的プロセスを捉えるためには、質的手法が不可欠です。また、アクション・リサーチの採用は、研究と実践の統合というICEの理念と整合しています。

客観性と一般化可能性の問題

しかし、質的アプローチ中心の研究には限界もあります。主観的解釈に依存する傾向があり、研究者の価値観や理論的立場が結果に影響を与える可能性があります。また、小規模で短期的な研究が多く、結果の一般化可能性には疑問が残ります。

論文では、因果関係の探求や説明的研究の必要性についても言及されており、例えば「ICEへの参加が学習者の政治的活動に与える影響」といった実験的デザインの可能性が示唆されています。しかし、実際にはそうした研究はほとんど行われておらず、ICEの効果についての客観的評価は十分になされていないのが現状です。

教師教育の課題と複雑性

多次元的な挑戦

教師教育は、ICE実践において最も重要でありながら最も困難な課題の一つです。論文では、市民権と人権のための教育が「権利についての教育」「権利における・を通じた教育」「権利のための教育」という三つの次元を含む困難な課題であることが指摘されています。これらは、知識と価値観の習得、教育環境と構造の整備、変革への参加技能の育成を意味しています。

教師が直面する課題は多岐にわたります。人権に関する法的文書の理解不足、政策文書や教材における支援の欠如、学校や地域社会での実践の困難さなどが挙げられています。さらに、多くの教育制度が国家主義的基盤を持ち、人類よりも国家への忠誠を優先する傾向があることも大きな障壁となっています。

アイデンティティと役割の再考

特集号の三つの教師教育関連論文(ノルウェーと米国の事例)から浮かび上がる重要な問題の一つは、教師のアイデンティティの問題です。言語教師は、言語に特化した従来の役割を見直し、カリキュラム横断的な協力を行う必要があります。また、教師としての立場だけでなく、地域社会の積極的な市民としてのアイデンティティも考慮する必要があります。

この点で、教師教育は単なる教授法や知識の伝達を超えた、社会化のプロセスとして捉える必要があります。教師が国家の被雇用者として国家への忠誠を誓うという道徳的ジレンマについても、教師教育において取り組むべき重要な課題として位置づけられています。

普遍性と文化相対性の緊張

人権の普遍性への挑戦

ICEの根底にある重要な課題の一つは、人権の普遍性に関する問題です。ICEの理論家や実践者の多くは人権の普遍性を前提としていますが、これに対しては異なる文化的、言語的、宗教的文脈において、市民権や人権、そしてそれらに関連する民主主義、自由、平等、多様性の尊重、開放的思考といった価値観が異なって定義・解釈される可能性があるという批判があります。

この問題は特に複雑で、教育における人権枠組みの使用自体が疑問視される場合もあります。さらに、人権の視点内でも、人権の評価と文化的多様性の価値が対立する場合があり、文化的多様性が他者の権利を損なう場合の対処法という困難な問題も存在します。

実践的指針の模索

論文では、オスラー氏の提案として「権利は文化的文脈の中で適用される必要があるが、正義と平等という広範な人権原則が優先されるべきである」という指針が示されています。しかし、この指針の具体的な適用方法については、さらなる検討が必要です。

特集号では、多様な国や文脈での事例を提示することで、普遍性の前提に基づくICEの広範な適用可能性を検証し始めていますが、この問題の解決には理論と実践の両面でのさらなる深化した分析が必要とされています。

デジタル時代の新たな課題

新メディアの影響

論文では、デジタル領域での参加や新メディアが異文化コミュニケーションに与える影響についても言及されています。「デジタル世界における責任ある、倫理的なグローバル市民」の育成が新たな課題として浮上しており、言語教育と情報技術教育の学際的対話の必要性が指摘されています。

グローバル・デジタル・シティズン財団による「グローバルデジタル市民性のための必須流暢性」と、ICEで重視される「批判的市民性リテラシー」の発達との関係性についても検討が必要とされています。表面的には異なる概念的枠組みを持つように見えても、より注意深い分析により、学際的対話を通じて発展させることができる重複する関心領域が見つかる可能性があります。

拡張されたリテラシー概念

ICEの中核にある批判的市民性リテラシーの発展は、「拡張されたリテラシー概念」を含んでおり、言語教育においては言語的、デジタル、コミュニケーション的、異文化間的な市民性能力の発達を意味します。これらの能力には、学生が地域社会と相互作用し、挑戦し、行動する力を与えるための批判性と想像力が含まれています。

このような包括的なリテラシー概念は魅力的ですが、実践レベルでの具体化には多くの課題があります。教師の準備、カリキュラムの設計、評価方法の開発など、多面的な取り組みが必要となります。

結論:ICEの意義と課題の総合的評価

理論的貢献の認識

この論文が提起するICEの概念は、外国語教育分野において重要な理論的貢献をなしています。従来の言語教育が持つ道具的価値を否定することなく、それを教育的価値と統合しようとする試みは画期的です。特に、言語学習を通じた異文化理解と、それに基づく社会的行動を結びつける視点は、グローバル化時代の教育にとって意義深いものです。

また、ネイティブスピーカー主義への批判や、国家中心的な市民教育からの脱却といった問題提起も時宜を得たものです。これらの問題意識は、言語教育の民主化と多様性の尊重という観点から重要な意味を持っています。

実践的課題の認識

一方で、ICEの実践には多くの課題があることも明らかです。理論と実践のギャップ、教師教育の困難さ、普遍性と文化相対性の緊張、評価方法の未確立など、解決すべき問題は山積しています。特に、小規模で短期的な実践が多く、持続可能な社会変革への寄与については疑問が残ります。

また、批判性の概念についても、文化的文脈によっては適用困難な場合があることや、建設的対話よりも対立を生み出すリスクがあることなど、慎重な検討が必要な点があります。

今後の発展への期待

それでも、ICEの概念が提起する問題意識と方向性は、外国語教育の今後の発展にとって重要な指針を提供しています。言語教育が単なる技能訓練を超えて、批判的思考力と社会参加能力を育成する場となる可能性を示しているからです。

今後の発展のためには、より厳密な研究方法論の採用、長期的な効果の検証、多様な文化的文脈での適用可能性の検討、教師教育プログラムの体系的開発などが必要となるでしょう。また、デジタル時代の新たな課題に対応するためのカリキュラムや教材の開発も重要な課題です。

ICEの概念は、まだ発展途上の段階にありますが、その基本的な方向性は外国語教育の可能性を大きく広げるものとして評価できます。理論と実践の継続的な対話を通じて、より具体的で実効性のある教育アプローチとして発展していくことが期待されます。


Porto, M., Houghton, S. A., & Byram, M. (2018). Intercultural citizenship in the (foreign) language classroom. Language Teaching Research, 22(5), 484-498. https://doi.org/10.1177/1362168817718580

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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