はじめに:AI教育技術への膨大な投資と高い期待
教育分野における人工知能(AI)の活用は、近年急速に注目を集めています。2021年だけで世界中でAI技術に940億ドルという膨大な投資が行われ、教育市場においても今後5年間で200億ドル規模に成長すると予測されています。このような状況の中、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのWayne Holmes氏とフィンランドのMeaning Processing社のIlkka Tuomi氏が共同執筆した論文「State of the art and practice in AI in education」は、AI教育技術(AIED)の現状を包括的に分析し、その可能性と課題を体系的に整理した重要な研究です。
この論文”State of the art and practice in AI in education”は、AI教育技術に対する過度な期待と現実のギャップを冷静に分析し、教育関係者や政策立案者に向けて貴重な指針を提供しています。著者らは、技術の進歩に目を奪われがちな現状に警鐘を鳴らし、教育の本質的な目的を見失わないことの重要性を強調しています。
AI技術の基盤となる二つのアプローチ
データ駆動型AIの可能性と限界
論文では、現在のAI技術を支える二つの主要なアプローチを詳細に説明しています。まず、データ駆動型AIについて見てみましょう。この技術は、大量のデータから学習してパターンを認識する能力に優れており、画像認識や自然言語処理において目覚ましい成果を上げています。例えば、OpenAIのGPT-3は1750億のパラメータを持ち、人間が書いたかのような文章を生成できます。
しかし、著者らは、データ駆動型AIの教育への応用には重要な限界があることを指摘しています。この技術は膨大な計算資源を必要とし、GPT-3の学習には地球から月まで車で往復するのと同等のエネルギーが必要で、8万5千キログラムのCO2を排出すると推定されています。また、人間の脳がわずか20ワットで動作するのに対し、現在のAIシステムは根本的に異なる原理で動作しているため、教育における人間の学習プロセスとは大きく異なる特性を持っています。
知識ベース型AIの継続的な重要性
一方、知識ベース型AIは専門家の知識を体系化してコンピュータが処理できる形にしたものです。教育分野では、数学や物理学などの構造化された分野において、安定したドメインモデルを構築しやすいため、多くのAI教育システムがこのアプローチを採用しています。この技術の利点は、システムの動作を説明できることにあります。データ駆動型AIがブラックボックスとして機能するのに対し、知識ベース型AIは「なぜそのような判断をしたのか」を明確に説明できます。
教育現場におけるAI技術の分類と実例
学生中心のAI技術
著者らは、AI教育技術を三つのカテゴリーに分類しています。最初の学生中心のAI技術には、最も普及している知能的個別指導システム(ITS)があります。これらのシステムは、数学などの構造化された科目において、個々の学生の学習状況に応じてカスタマイズされた教材と練習問題を提供します。
具体的な例として、フランスのDomoscio社のSparkシステムが挙げられています。このシステムは個別化された学習経路を提供し、教師が学習分析情報を確認できるダッシュボードを備えています。また、Gooru Navigatorは「学習のためのGoogle Maps」を目指し、400万件のAI選別された学習リソースを提供しています。
しかし、著者らは、現在の個別化学習の概念が非常に限定的であることを批判しています。多くのシステムは、学習者を「適切な箱に収める」ことに焦点を当て、真の個人化よりも標準化を促進している可能性があると指摘しています。
教師支援のAI技術
教師支援のAI技術には、剽窃検出システムや自動採点システムなどがあります。Turnitinのような剽窃検出ソフトウェアは広く普及していますが、自動採点システムについては議論が分かれています。一部の研究では、学生の約98%が自動採点システムのフィードバックに同意したという報告もありますが、高リスクな評価への使用には慎重さが求められます。
特に興味深いのは、AIが教師の作業を代替するのではなく、支援することを目指すシステムです。例えば、Graideシステムは教師が以前に使用したフレーズを再利用できるよう支援し、教師主導の評価を可能にします。
機関運営のAI技術
機関運営レベルでは、入学選考支援システムや電子監督システム(e-Proctoring)などが導入されています。しかし、これらの技術は特に議論を呼んでいます。テキサス大学オースティン校のGRADEシステムは、入学審査の効率を74%向上させると主張していましたが、結果的に解決しようとした偏見を再現してしまい、廃止されました。
COVID-19パンデミック中に急速に普及した電子監督システムは、学生のプライバシー侵害や精神的健康への悪影響が報告されており、教育における悪い実践を自動化した例として批判されています。
AI教育技術の深刻な課題
倫理的な問題と人権への配慮
論文の重要な貢献の一つは、AI教育技術の倫理的課題を体系的に分析していることです。欧州評議会の報告書を参照し、以下のような人権の観点から問題を整理しています。
人間の尊厳への権利として、教育や評価をAIシステムに完全に委ねるべきではないとしています。自律性への権利では、子どもたちが個人プロファイリングを避け、学習経路を強制されない権利を保護する必要があります。また、透明性と説明可能性への権利として、AIシステムによる判断を理解し、異議申し立てができることの重要性を強調しています。
個人化学習の矛盾
現在のAI教育技術が掲げる「個人化学習」について、著者らは鋭い批判を展開しています。真の個人化とは、Biesta(2011)が提唱する「主体化(subjectification)」、つまり個々の学生が自分の可能性を実現し、自己実現を図り、主体性を高めることを意味します。しかし、現在の多くのAIシステムは、適応的な学習経路を提供するものの、学生の均質化を促進する傾向があります。
さらに、個別化された学習経路の多くは、過去の学習者の平均データに基づいており、真の個別対応とは言えません。教育は本来、協力や社会的相互作用を含む活動であるにもかかわらず、現在のITSの多くはこの側面を軽視しています。
効果に関する証拠の不足
AI教育技術の効果について、著者らは既存の研究の限界を厳しく指摘しています。多くの影響評価研究は、技術を開発した組織自身によって実施されており、しばしば小規模な実験に基づいています。独立した大規模研究は稀で、多くが米国で実施されているため、他国への適用可能性には疑問があります。
学習効果の測定も限定的で、多くの研究がテスト成績の向上にのみ焦点を当て、教室環境での広範な影響や教師と学生への長期的な効果を考慮していません。du Boulay(2016)の結論「AIEDシステムは大規模クラスで働く人間教師よりも優れている」という主張も、教育の多面的な機能を考慮していない可能性があります。
技術至上主義の危険性
論文は「技術至上主義」の問題についても言及しています。「AIEDシステムは人間教師より優れている」という結論が、発展途上国の農村部など、経験豊富な教師が不足している地域での導入を正当化するために使われています。しかし、このようなアプローチは、問題の症状(質の高い教育を受けられない)に対処するものの、根本的な原因(経験豊富で資格のある教師の不足)を解決するものではありません。
実際には、多くの農村地域では電力やインターネットアクセスといった基本的なインフラが不足しており、ハードウェアやソフトウェアの管理・サポートに必要な熟練スタッフもいません。複雑な現実世界の問題には、複雑な現実世界の解決策が必要であり、技術だけでは解決できないのです。
AI教育植民地主義の問題
グローバル化の文脈で、著者らは「AI教育植民地主義」という重要な概念を提示しています。グローバルノース(先進国)の企業が開発したAI教育ツールが世界中に輸出され、現地のデータや資本の搾取、経済的利益の流出を引き起こす可能性があります。
この問題は、単に特定のツールの輸入に留まりません。ほとんどのクラスルーム向けAIが主にアメリカ英語で訓練されているため、英語以外の環境でのAI教育ツールの影響は未知数です。また、多くの商業的AIEDシステムに埋め込まれた教育学的アプローチ(現在は主に教授主義と行動主義)の押し付けも問題となります。
商業化による教育の変質
利益追求と教育目的のギャップ
論文が指摘するもう一つの重要な課題は、教育の商業化です。40年間研究室で開発されてきた学習者中心のAI技術が、約10年前から多数の数百万ドル規模のAI教育企業によって商業製品として開発されるようになりました。
学術研究が教育と学習の向上を明確な目標とするのに対し、商業組織は定義上、利益創出に焦点を当てます。著者らは重要な問題を提起しています。「子どもたちとAIシステムとの相互作用が、製品の動作方法と製品の使用方法の両方に関する技術的知識と市場知識を生成するとすると、世界中の教室の子どもたちが、企業の利益を支援するビジネスインテリジェンスを作成・提供するために密かに募集されているのでしょうか。そして、これが子どもの学習と認知発達よりも優先されているのでしょうか」
データ支配と教育統制
Google Classroomの複雑な方法でのAIED利用者と開発者の組み込みに関する研究では、このプラットフォームが学生データの世界的収集者であると同時に、参加ルールが定義される重要な統制点になっていることが示されています。商業的AI教育組織は個別の学習者を形成するだけでなく、ガバナンスや国家政策にも影響を与え始めています。
データ駆動型AIには重要なスケール効果があり、現在のネットワーク化されたエコシステムでは、自然独占につながる可能性があります。AIEDの行く末は、経済的問題であると同時に、地政学的問題でもあります。
論文の評価と今後への示唆
研究の意義と限界
この論文の最大の価値は、AI教育技術という複雑で急速に発展する分野を体系的に整理し、冷静で批判的な分析を提供していることです。技術的な進歩に対する無批判な賞賛が多い中で、教育の本質的な目的や価値を見失わない視点を維持している点は高く評価できます。
分類システム(学生中心、教師中心、機関中心)は有用で、それぞれのカテゴリーにおける具体的な技術例の提示も理解を深めるのに役立ちます。また、商業的、投機的、研究段階という成熟度の分類も実用的です。
しかし、いくつかの限界も指摘できます。論文は主に西欧と北米の文脈での研究に基づいており、アジアやアフリカの教育現場での実情や需要については限定的な言及に留まっています。また、技術的な説明が詳細すぎる部分があり、教育関係者にとっては理解が困難な箇所もあります。
今後の研究課題
著者らは、AI教育技術の評価における重要な欠落を指摘しています。現在の研究の多くは、AIツールが狭い領域での個別学生の学業成績を向上させる効果のみに焦点を当て、教室環境での広範な影響や教師・学生への長期的な影響を考慮していません。
人間の認知と脳発達への影響についても、重要な研究課題として挙げられています。子どもの認知構造と能力は発達途中であるため、技術使用が注意問題などの認知・行動的結果の原因となるのか、技術使用が子どもの脳の一部の再構築に関与するのか、技術使用に関連する実際の健康リスクがあるのかなど、重要な疑問が残されています。
教育政策への含意
この論文は、教育政策立案者にとって重要な示唆を提供しています。AI技術への投資を検討する際は、技術の可能性だけでなく、倫理的課題、長期的影響、教育の根本的な目的との整合性を慎重に評価する必要があります。
また、商業企業による教育データの収集と利用に対する適切な規制枠組みの必要性も浮き彫りになっています。欧州のGDPR(一般データ保護規則)のような取り組みがありますが、実際の複雑なインターネットベースのサービスがデータをどのように使用・処理しているかを把握することは極めて困難です。
結論:バランスの取れた視点の重要性
Holmes とTuomiによるこの包括的な論文は、AI教育技術に対する過度な期待と現実のギャップを明確に示し、教育関係者や政策立案者に冷静な判断材料を提供しています。AI技術が教育分野で果たす可能性のある有益な役割を否定するものではありませんが、技術中心の思考から脱却し、教育の本質的な価値と目的を常に念頭に置くことの重要性を強調しています。
教育におけるAI技術の活用は、人間の教師を置き換えるのではなく、教師の専門性と技能を向上させる「拡張」のアプローチを取るべきです。データ駆動型AIが基本的な情報処理機能を提供する一方で、教育は理論的概念構造の段階的発達に焦点を当てています。このため、AIEDの発達は人間と人工的認知の共同発達として理解されるべきです。
技術環境の急速な変化に伴い、教育における技術の役割について継続的に考察することが必要です。10年後には、データは中央集権的なクラウドからユーザーに向かって移動し、仮想現実と拡張現実が広く使用され、物理環境がリアルタイムでデジタル世界とリンクされることが予想されます。しかし、どのような技術的変化があっても、教育の根本的な目的は変わりません。それは、個々の学習者が知識を構築し、批判的思考能力を発達させ、社会の責任ある一員として成長することを支援することです。
この論文は、AI教育技術という魅力的だが複雑な分野において、技術的な進歩と教育的価値のバランスを取る重要性を示しています。教育関係者、技術開発者、政策立案者すべてにとって、この慎重で包括的な分析は貴重な指針となるでしょう。
Holmes, W., & Tuomi, I. (2022). State of the art and practice in AI in education. European Journal of Education, 57(4), 542-570. https://doi.org/10.1111/ejed.12533