筆者の背景と研究の意義

本論文”Has artificial intelligence rendered language teaching obsolete?”の著者であるゾーイ・ハンドリー(Zoe Handley)氏は、イギリスのヨーク大学言語・教育高等研究センターの研究者であり、コンピュータ支援言語学習(CALL)分野の専門家として長年活動してきました。特に音声技術を用いた言語学習支援に関する研究において、第一波のAI時代から一貫して取り組んできた実績を持っています。

ハンドリー氏が本論文で取り上げた問題意識は、非常に現代的で切迫した課題です。ChatGPTを代表とする生成AIの登場により、言語教育の現場では「もはや外国語を学ぶ必要があるのか」「AI技術が人間の言語教師を不要にするのではないか」という根本的な疑問が提起されています。実際に、イギリスやアメリカでは外国語学習への関心が低下し、過去20年間で10以上の大学言語学部が閉鎖されるという深刻な状況が生じています。

このような背景において、ハンドリー氏は単純にAI技術の進歩を否定するのではなく、言語工学の専門知識を活かして冷静かつ体系的な分析を試みています。彼女は「言語教育者がAIとは何か、どのように機能するかについてより深い理解を持つ必要がある」と主張し、感情的な議論ではなく客観的な評価に基づいた判断の重要性を強調しています。

良い言語教師の条件とAIの現状分析

ハンドリー氏の分析手法で特に評価すべき点は、まず「優れた言語教師とは何か」を明確に定義してから、AI技術の能力と比較検討を行っていることです。彼女はバウマートとクンター(2013)による教師の専門的能力モデル(COACTIV)を基盤として、効果的な教師に必要な要素を体系的に整理しています。

このモデルによれば、優れた教師には5つの知識領域が必要とされます。まず、教科内容に関する知識、そして一般的な教育学的知識があります。さらに重要なのが「教えるための教科知識」、つまり学習者がどこでつまずきやすいかを理解し、適切な教授法を選択する能力です。加えて、組織運営に関する知識と、学習者やその保護者への相談・助言を行うカウンセリング知識も必要とされます。

言語教育においては、これらに加えてさらに特殊な専門性が求められます。言語は単なる知識の対象ではなく、コミュニケーションの手段として習得する必要があります。そのため、教師は学習者間の相互作用を促進し、意味交渉や言語に関する対話を効果的に組織する能力が必要です。また、言語習得理論や第二言語教授法に関する専門知識、そして言語システムへの理解と言語について語る能力(メタ言語意識)も不可欠です。

一方、AI技術についてハンドリー氏は、「ChatGPTが社会を変革する」といった誇大な宣伝に惑わされることなく、冷静な技術的分析を提供しています。彼女は、現在話題となっている生成AIも含めて、AIとは「人間が定義した目標に対して、予測、推奨、または決定を行う機械ベースのシステム」であり、決して新しい概念ではないことを明確にしています。

実際、言語教育分野におけるAI技術の活用は1990年代から始まっており、文法チェッカーや音声認識ソフトウェアなどが既に広く利用されています。現在の大規模言語モデル(LLM)は確かに高度な言語処理能力を持っていますが、これらは統計的なパターン認識に基づいており、人間のような言語理解とは本質的に異なるものです。

具体的なAI教育ツールの検証

ハンドリー氏は抽象的な議論にとどまらず、実際に市場で利用されている具体的なAI言語学習ツールの詳細な分析を行っています。この実証的アプローチは、論文の説得力を大きく高めています。

Duolingoの分析

まず取り上げられているのは、月間8000万人以上のユーザーを持つDuolingoです。ハンドリー氏は、Duolingoの創設者ルイス・フォン・アーン氏や一部の教育機関が「Duolingoが従来の言語教育を代替できる」と主張していることを紹介しつつ、その実態を冷静に評価しています。

Duolingoの核となる学習システムは、家族、食事、旅行といった特定のトピックを中心とした構成になっており、限定的な文法・文化的説明とともに、主に語彙導入と反復練習に焦点を当てています。練習問題は翻訳、多肢選択式の単語認識、スペリングが中心で、間違いに対する対応も機械的です。

確かにDuolingoは単純なルールベースシステムを超えており、機械学習を活用した練習間隔の最適化や、個別学習者への動機づけメッセージの調整なども行っています。つまり、AI技術を用いて教育学的内容知識の一部を実装し、学習者の関心を維持する機能も備えています。

しかし、ハンドリー氏は独立した評価研究の結果を引用し、Duolingoの限界を明確に指摘しています。学習者の多くが活動の反復的性質により動機を維持することが困難であり、特に受動的な言語スキルに偏重していることが問題とされています。また、明示的な文法説明の不足や、学習内容の効果的な表現方法にも課題があることが示されています。

Grammarlyの評価

次に分析されているのは、日々3000万人が利用するとされる自動作文評価システムGrammarlyです。このようなシステムは、自然言語処理、潜在意味解析、機械学習技術を組み合わせて、学習者の作文に対して繰り返し練習とフィードバックの機会を提供します。

しかし、評価研究によれば、これらのツールを効果的に活用するためには人間の指導者からの教育的支援が必要であることが明らかになっています。特に注目すべきは、学習者がフィードバックの半分を無視したり、適切に活用できなかったりするという事実です。これは、技術的にフィードバックを生成できることと、それが学習者にとって理解可能で活用可能であることの間には大きな隔たりがあることを示しています。

最近の研究では、ChatGPTを作文評価に活用する試みも行われていますが、ここでも興味深い結果が得られています。ChatGPTは従来のツールとは異なり内容に関するフィードバックを提供できるものの、教師と比較すると情報量が少なく、明確化を求める質問も行いません。また、形式面のフィードバックが過多になり、かえって学習意欲を削ぐ可能性も指摘されています。

Rosetta Stoneの検討

1990年代後期から利用されているRosetta Stoneについても、ハンドリー氏は詳細な分析を行っています。このシステムは「動的没入法」と呼ばれるアプローチを採用し、大人も子どもと同様の方法で言語を学習できるという前提に立っています。

Rosetta Stoneでは、音声認識技術を活用して発音練習へのフィードバックを提供し、音声対応の分岐対話による「会話練習」も実装されています。しかし、ここでも独立した評価研究では混在した結果が得られており、多くの学習者が継続的な学習を困難に感じていることが報告されています。

興味深いことに、ハンドリー氏は初期の研究成果を引用し、AI指導システムの価値が「人間ではない」という特性にある可能性を指摘しています。つまり、疲れることがなく、判断を下さないという特徴により、特に外国語での発話に不安を感じる学習者にとって、人間教師を補完する役割を果たす可能性があるというのです。

論文の強みと学術的貢献

この論文の最大の強みは、感情的になりがちなAI教育論議に対して、体系的で客観的な分析フレームワークを提供していることです。ハンドリー氏は、まず教師の専門性を明確に定義し、次にAI技術の現状を正確に把握し、そして具体的な製品の実証的評価を通じて結論を導くという、学術的に厳密なアプローチを取っています。

特に評価すべきは、技術決定論に陥ることなく、教育学的観点からAI技術を評価していることです。多くの議論が「技術的に可能かどうか」に焦点を当てる中で、ハンドリー氏は「教育的に有効かどうか」という本質的な問いを追求しています。この姿勢は、教育技術研究の模範となるものです。

また、コンピュータ支援言語学習分野における長年の研究経験を活かし、現在のAI技術を歴史的文脈の中に位置づけている点も重要です。ChatGPTなどの生成AIが突然現れた技術ではなく、長い技術発展の延長線上にあることを示すことで、過度な期待や恐怖を冷静化させる効果があります。

さらに、実際の商業製品を対象とした分析により、理論と実践の架け橋となる知見を提供している点も高く評価できます。学術研究が実世界の課題解決に貢献するという観点から、このような実証的アプローチは非常に価値があります。

研究手法と分析の限界

一方で、本論文にはいくつかの限界も指摘することができます。まず、分析対象となったAI教育ツールが主に英語圏で開発された商業製品に限定されていることです。言語教育は文化的・社会的文脈に深く依存するため、より多様な地域や言語背景を考慮した分析が必要でしょう。

また、技術の急速な発展に対する考慮が不十分である可能性もあります。ハンドリー氏は現在のAI技術の限界を詳細に分析していますが、機械学習技術の進歩は予想以上に速く、今後数年間で状況が大きく変化する可能性があります。特に、マルチモーダルAIや個別化学習技術の発展により、彼女が指摘した課題の一部が解決される可能性もあります。

研究手法の観点からは、既存の評価研究に依存している部分が多く、著者自身による実証研究が限定的であることも挙げられます。より説得力のある論証のためには、統制された条件下での比較実験や、長期的な学習効果の追跡調査などが必要でしょう。

さらに、学習者の多様性への配慮も不十分です。年齢、学習目的、文化的背景、学習スタイルなどによって、AI教育ツールの効果は大きく異なる可能性があります。これらの個人差を考慮した、より細分化された分析が求められます。

教育現場への実践的含意

ハンドリー氏の分析から導かれる教育現場への示唆は多岐にわたります。まず、AI技術を単純に「教師の代替」として捉えるのではなく、「教師の補完」として活用することの重要性が明確になりました。現在のAI技術は、反復練習や基礎的なフィードバック提供などの領域では優れた能力を発揮しますが、複雑な相互作用の促進や個別指導、感情的サポートなどは依然として人間教師の専門領域です。

具体的には、AI教育ツールは「練習パートナー」としての役割を果たすことで、教師がより高次の教育活動に集中できる環境を作り出す可能性があります。例えば、基本的な語彙や文法の反復練習をAIに任せることで、教師は創造的な言語使用機会の提供や、学習者一人一人との深い対話により多くの時間を割くことができるでしょう。

また、特に発話不安を抱える学習者にとって、AIシステムの「非人間的」特性が逆に利点となる可能性も示されています。判断されることへの恐怖なく練習できる環境を提供することで、最終的により効果的な人間との相互作用への準備となることが期待されます。

教育機関の管理者や政策立案者にとっては、安易にAI技術による「効率化」を追求するのではなく、教育の質的向上を目指した慎重な導入が必要であることが示唆されています。言語学部の閉鎖のような極端な決定を行う前に、AI技術と人間教師の適切な役割分担について十分な検討が必要です。

今後の課題と展望

ハンドリー氏の分析は、AI言語教育技術の研究と開発において取り組むべき重要な課題を浮き彫りにしています。技術的な観点からは、現在のAIシステムが抱える教育学的知識の不足、特に学習者の理解状況に応じた柔軟な指導方法の選択能力の向上が急務です。

また、学習者との相互作用の質的向上も重要な課題です。現在のシステムは主に一方向的なフィードバック提供にとどまっていますが、真の教育効果を得るためには、学習者の反応に応じた適応的で建設的な対話能力の開発が必要でしょう。

研究方法論の面では、より長期的で包括的な評価研究の実施が求められます。現在の多くの評価が短期間の使用経験に基づいているため、実際の言語習得に対する効果を正確に測定することが困難です。また、異なる学習文脈や文化的背景における効果の違いを明らかにする比較研究も重要です。

教育政策の観点からは、AI技術の導入に伴う教師の役割変化への対応が必要です。技術に置き換えられるのではなく、技術を効果的に活用しながらより高度な教育実践を行うための教師教育プログラムの開発が急務でしょう。

さらに、倫理的考慮も忘れてはなりません。AI教育システムが収集する学習者データの取り扱い、アルゴリズムの透明性、教育格差の拡大防止など、技術的進歩と並行して検討すべき課題は多岐にわたります。

結論―バランスの取れた視点の価値

ハンドリー氏の論文は、AI技術と言語教育をめぐる議論において、極端な技術楽観主義と技術悲観主義の両方を避け、証拠に基づいた冷静な分析を提供している点で高く評価されます。彼女の結論である「現在のAI言語指導システムは、最良の場合でも、無制限の反復練習と言語形式に関するフィードバックを提供することで、専門的な人間指導者を補完する役割を果たす」という判断は、現実的で建設的です。

この視点は、教育現場の関係者にとって非常に有用な指針を提供しています。AI技術を恐れて拒絶するのでもなく、盲目的に受け入れるのでもなく、その特性と限界を理解した上で適切に活用することの重要性を示しています。

また、本論文は学術研究と実践的応用の橋渡しとしても価値があります。理論的な分析と具体的な製品評価を組み合わせることで、研究者、教育者、技術開発者、政策立案者すべてにとって有意義な知見を提供しています。

ただし、技術の急速な発展を考慮すると、このような分析は継続的に更新される必要があります。ハンドリー氏が構築した分析フレームワークを基盤として、新たな技術開発や教育実践の評価を継続的に行うことが、この分野の健全な発展にとって不可欠でしょう。

最終的に、この論文が提起する最も重要な問いは、「AI技術によって言語教育が不要になるか」ではなく、「AI技術をどのように活用すれば、より効果的で人間らしい言語教育を実現できるか」であると言えるでしょう。この問いに対する答えを見つけるためには、技術開発者と教育実践者の継続的な協働が不可欠です。ハンドリー氏の論文は、そのような協働のための重要な基盤を提供していると評価できます。


Handley, Z. (2024). Has artificial intelligence rendered language teaching obsolete? The Modern Language Journal, 108(2), 548–555. https://doi.org/10.1111/modl.12929

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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