「学習」と「習得」の間にある大きな溝
私たちは学校で長年英語を勉強してきたのに、なぜ話せるようにならないのでしょうか。この疑問は日本だけでなく、ヨーロッパの多くの国でも共有されています。Universidade de Trás-os-Montes e Alto DouroのCarmen Manuela Pereira Carneiro Lucasが発表したこの論文”Teaching English to young learners: Second language acquisition or foreign language learning? – A case study”は、ポルトガルの小学校で行われた興味深い実践研究を報告しています。 この研究が扱っているのは、応用言語学の世界で長く議論されてきた問題です。それは、教室で起きているのは「第二言語習得(Second Language Acquisition)」なのか、それとも単なる「外国語学習(Foreign Language Learning)」なのか、という問いです。一見すると言葉の違いに過ぎないように思えますが、実はこの二つには大きな違いがあります。 「習得」というのは、赤ちゃんが母語を身につけるように、自然に言語の仕組みを内在化していくプロセスです。一方「学習」は、文法規則を頭で理解し、単語を暗記していく、より意識的な過程を指します。多くの英語教育が後者に偏っているため、私たちは英語を「知識」として持っているのに「使えない」という状況に陥っているのかもしれません。
ポルトガルの英語教育が直面する現実
ポルトガルでは現在、小学校で英語が必修科目となっています。しかし、Lucasが指摘するように、その実態には多くの課題があります。授業時間は限られており、しかも主に子どもたちの母語であるポルトガル語を使って英語を教えているというのです。 さらに深刻なのは、教員研修の機会が圧倒的に不足しているという点です。多くの小学校英語教員は、研究に基づいた効果的な教授法を十分に学ぶ機会がないまま、教壇に立っています。その結果、教員自身が「小学生に英語の文法を教えるのは無理だ」「単語を覚えさせるのが精一杯だ」という考えに縛られてしまい、子どもたちも英語学習に対する意欲を失っていくという悪循環が生まれています。 この状況は、実は日本の小学校英語教育とも重なる部分が多いのではないでしょうか。外国語活動や英語科が導入されても、「楽しく歌を歌う」「簡単な単語を覚える」程度にとどまり、本格的な言語能力の育成には至らないという課題です。
Krashenの理論に立ち返る―「理解可能なインプット」という鍵
Lucasのアプローチの中心にあるのは、第二言語習得研究の巨人とも言えるStephen Krashenの理論です。Krashenは1980年代に、第二言語習得に関する包括的な理論を提唱しました。その核心にあるのが「理解可能なインプット仮説(Comprehensible Input Hypothesis)」です。 この仮説を簡単に説明すると、学習者が現在のレベルより「少しだけ上」の言語に触れることで、自然に言語能力が伸びていくというものです。Krashenはこれを「i+1」という式で表現しました。「i」は学習者の現在のレベル、「+1」はそれより少し難しいレベルを意味します。 重要なのは、この「理解可能なインプット」は、文法の説明を通じて提供されるのではなく、意味のある文脈の中で、ジェスチャーや実物、絵などを使って提供される必要があるということです。たとえば、食事について教える際に、実際の食べ物の写真や模型を使いながら、「I like cereals and milk for breakfast(朝食にはシリアルと牛乳が好きです)」という文を繰り返し聞かせる。子どもたちは、文法を意識的に学ぶのではなく、意味と形式の結びつきを自然に理解していくのです。
CLIL―教科内容と言語を統合する試み
Lucasが採用したもう一つの重要なアプローチが、CLIL(Content and Language Integrated Learning:内容言語統合型学習)です。