法律という言葉の迷宮を科学的に探る

法律の条文を読んだことがある人なら、その独特な文体に戸惑った経験があるでしょう。「甲は乙に対し」「前項の規定により」といった硬い表現、やたらと長い一文、そして日常では使わない専門用語の数々。まるで別の言語で書かれているかのような印象を受けます。

ポーランドのウッチ大学で専門言語・異文化コミュニケーション学科に所属するスタニスワフ・ゴシュジ=ロシュコフスキ教授は、このような法的言語の特徴を、コンピューターを使って大量のテキストを分析する「コーパス言語学」という手法で解明しようとしています。2021年にInternational Journal of Semiotics of Law誌に発表された彼の論文”Corpus linguistics in legal discourse”は、法的談話研究におけるコーパス言語学の現状と可能性を包括的にまとめた重要な文献です。

コーパス言語学とは何か:大量データが語る言葉の真実

コーパス言語学を理解するには、まず「コーパス」という概念を知る必要があります。コーパスとは、電子的に保存された大量のテキスト集合のことです。まるで図書館のように、特定の基準に従って収集・整理されたテキストが蓄積されています。

従来の言語研究では、研究者が直感や限られた例文に頼って言語の特徴を分析していました。これは、森全体を見ずに数本の木だけを観察して森の生態を理解しようとするようなものでした。しかし、コーパス言語学では、何百万語、何千万語という膨大なテキストデータをコンピューターで処理し、統計的手法を用いて言語パターンを発見します。

ゴシュジ=ロシュコフスキ教授は、現代のコーパス言語学を三つのアプローチに分類しています。「コーパス・ベース」アプローチは、既存の仮説を検証するためにコーパスを使用します。「コーパス・ドリブン」アプローチは、先入観なしにコーパスから帰納的にパターンを発見しようとします。そして「コーパス・アシスト」アプローチは、コーパス分析と他の分析手法を組み合わせる折衷的な方法です。

法的言語の特殊性:なぜ法律の文章は読みにくいのか

法的言語には、一般的な言語とは異なる特徴があります。まず、極めて形式的で定型的な表現が多用されます。契約書の「甲乙丙」という表記や、判決文の「よって主文のとおり判決する」といった決まり文句は、その典型例です。

また、法的言語では精密性が重視されるため、曖昧さを排除しようとして複雑で長大な文章になりがちです。一般的な会話では「だいたい」「おそらく」といった表現で済ませられることも、法的文書では厳密に定義する必要があります。

さらに、法的言語は時代を超えて継承される伝統的な表現を多く含んでいます。現代の日本語でも「しかるに」「よって」といった古風な表現が法的文書で使われ続けているように、言語の保守性が強く現れます。

句読学(フレーズオロジー):法律における定型表現の科学

ゴシュジ=ロシュコフスキ教授が特に注目するのは、法的言語における句読学的特徴です。句読学とは、語と語の組み合わせや定型表現を研究する分野です。

法的文書では、「レキシカル・バンドル」と呼ばれる4語程度の連続する語彙群が頻繁に現れます。たとえば、EU法における「referred to in Article」「in accordance with the」「for the purposes of」といった表現です。日本の法律でも「前項の規定により」「この法律において」「次に掲げる場合」といった定型表現が繰り返し使われています。

これらの定型表現は、法的文書の効率的な作成を可能にする一方で、専門外の人々にとっては理解の障壁となります。まるで秘密の合言葉のように、法律の専門家だけが理解できる言語コードが形成されているのです。

変異の研究:多様な法的ジャンルの言語学的特徴

法的言語といっても、憲法、法律、判決文、契約書、法学論文など、様々なジャンルがあります。それぞれに異なる言語的特徴があり、ゴシュジ=ロシュコフスキ教授はこれを「変異」として分析しています。

たとえば、立法文書(法律や規則)は非常に形式的で、条文構造が明確に定められています。一方、判決文は論理的な論証構造を持ち、事実認定から法的判断へと段階的に進みます。契約書は当事者間の権利義務を明確に定める必要があるため、極めて詳細で網羅的な表現が用いられます。

コーパス言語学の手法により、これらのジャンル間の言語的差異を定量的に分析することが可能になりました。まるで指紋のように、各ジャンルには固有の言語的特徴があることが明らかになっています。

法廷科学への応用:言語が証拠となるとき

コーパス言語学は、法廷科学(フォレンジック・リングイスティクス)の分野でも重要な役割を果たしています。これは、言語的証拠を用いて法的問題を解決する学問分野です。

典型的な例は、文書の著者特定です。脅迫状や自殺の遺書、剽窃文書などの著者を特定する際に、語彙選択、文体、句読法などの言語的特徴が重要な手がかりとなります。人間の言語使用には、まるで指紋のような個人的特徴があり、これをコンピューターで分析することで著者の特定が可能になる場合があります。

ただし、ゴシュジ=ロシュコフスキ教授が指摘するように、法廷科学におけるコーパス分析には限界があります。分析対象となるテキストの長さが短い場合や、文脈情報が不足している場合には、信頼性の高い結論を導くことが困難です。

評価言語の分析:判決文に隠された主観性

一見客観的に見える判決文にも、実は微妙な主観性や評価的表現が含まれています。裁判官は「明らかに」「当然に」「著しく」といった副詞を使って、自らの判断に確信の度合いを示したり、当事者の主張に対する評価を表現したりします。

コーパス言語学の手法を用いることで、このような評価言語の使用パターンを定量的に分析できます。どのような文脈でどのような評価表現が使われるのか、裁判官によって使用パターンに違いがあるのかといった問題を、大量のデータに基づいて検証することが可能になります。

論文の意義と限界:包括的レビューとしての価値

ゴシュジ=ロシュコフスキ教授の論文は、法的談話におけるコーパス言語学研究の現状を包括的にまとめた貴重な文献です。特に、方法論の整理と分類、具体的な研究事例の紹介、今後の課題の指摘など、この分野の研究者にとって有用な情報が体系的に整理されています。

しかし、この論文にもいくつかの限界があります。まず、主に英語圏とヨーロッパの研究に焦点が当てられており、他の地域や言語圏の研究への言及が限られています。日本語、中国語、アラビア語など、異なる言語系統における法的言語の特徴についての議論が不足しています。

また、論文は主に記述的なレビューに留まっており、批判的な分析や独自の理論的貢献が限定的です。既存研究の整理は優れていますが、新たな研究の方向性や具体的な研究課題の提示という点では物足りなさを感じます。

技術的進歩と新たな可能性

近年の自然言語処理技術の急速な発達により、コーパス言語学にも新たな可能性が開かれています。機械学習や深層学習の手法を用いることで、従来は発見が困難だった複雑な言語パターンの抽出が可能になっています。

たとえば、文書の自動分類、類似性の検出、翻訳の品質評価などの分野で、AI技術とコーパス言語学の融合が進んでいます。法的文書の自動要約や、契約書の条項の自動チェックといった実用的な応用も期待されています。

ただし、このような技術的進歩に対して、ゴシュジ=ロシュコフスキ教授は慎重な姿勢を示しています。コンピューターによる分析は有用な道具ですが、言語の意味や文脈を理解するためには、人間の専門知識と判断が不可欠であることを強調しています。

学際的アプローチの重要性

法的言語の研究には、言語学だけでなく、法学、社会学、認知科学など多様な分野の知識が必要です。ゴシュジ=ロシュコフスキ教授は、真に意義のある研究を行うためには、言語学者、法学者、コンピューター科学者の協力が不可欠であると述べています。

しかし、現実には学問分野間の溝は深く、効果的な協力関係の構築は容易ではありません。それぞれの分野には固有の専門用語、方法論、問題意識があり、共通の理解を築くには時間と努力が必要です。

データの質と代表性の問題

コーパス言語学の信頼性は、分析対象となるデータの質と代表性に大きく依存します。法的文書の場合、機密性や著作権の問題により、質の高いデータを大量に収集することが困難な場合があります。

また、公開されている法的文書にも偏りがある可能性があります。たとえば、最高裁判所の判決は公開されやすいですが、下級審の判決や和解調書などは入手が困難です。このようなデータの偏りが、研究結果の一般化可能性に影響を与える可能性があります。

翻訳と多言語対応の課題

グローバル化が進む現代において、法的文書の翻訳や多言語対応は重要な課題です。EU法のように、複数の言語で同等の効力を持つ法的文書の場合、言語間の微妙な違いが重大な法的影響を与える可能性があります。

コーパス言語学は、このような多言語法的文書の比較分析に有用な手法を提供できます。しかし、言語の構造的違い、文化的背景の相違、法制度の差異などを考慮した分析は極めて複雑であり、単純な統計的比較では限界があります。

実務への応用可能性と課題

コーパス言語学の研究成果を法的実務に応用する試みも進んでいます。契約書の標準的な表現の整備、判決文の予測モデルの構築、法的文書の可読性改善などが期待される応用分野です。

しかし、研究成果の実務への橋渡しには多くの困難があります。法的実務は保守的であり、新しい技術や手法の導入には慎重です。また、法的判断には技術的分析だけでは捉えきれない複雑な要素が含まれており、コンピューター分析の結果を過信することの危険性も指摘されています。

倫理的考慮事項

コーパス言語学研究、特に法廷科学への応用においては、倫理的な配慮が重要です。プライバシーの保護、データの適切な使用、分析結果の解釈における責任などが主要な課題です。

特に、著者特定や文書の真偽判定などの法廷科学的応用では、分析結果が個人の人生を左右する可能性があります。そのため、研究者には高い倫理的責任と専門的能力が求められます。

研究の質的向上への提言

ゴシュジ=ロシュコフスキ教授の論文を踏まえ、この分野の研究の質的向上のためには、いくつかの改善点が考えられます。

まず、研究の透明性と再現可能性の向上が必要です。使用したデータセット、分析手法、統計的処理の詳細を明確に報告し、他の研究者が結果を検証できるようにすることが重要です。

また、研究の理論的基盤の強化も必要です。単なるデータの記述に留まらず、言語理論や法学理論との関連を明確にし、研究結果の意義を深く考察することが求められます。

教育への含意

コーパス言語学の手法は、法学教育や言語教育にも有用な示唆を与えます。法学部の学生が法的文書の特徴を理解し、適切な法的文章を作成する能力を身につけるために、コーパス分析の結果を活用することができます。

また、外国人向けの法的言語教育においても、コーパス分析によって抽出された特徴的な表現や構造を体系的に教授することで、より効果的な学習が可能になるでしょう。

今後の展望と課題

コーパス言語学と法的談話研究の分野は、技術的進歩とともに急速に発展しています。今後は、より洗練された分析手法の開発、多様な言語・文化圏への研究の拡大、実務への応用の促進などが重要な課題となるでしょう。

同時に、技術的可能性の拡大に伴い、研究の質的管理や倫理的配慮の重要性も増しています。量的拡大だけでなく、質的深化を図ることが、この分野の健全な発展のために不可欠です。

ゴシュジ=ロシュコフスキ教授の論文は、このような課題に取り組むための基盤となる重要な文献として、今後の研究に大きな影響を与えることでしょう。法的言語という複雑で重要な研究対象に対する科学的アプローチの発展は、法学と言語学の両分野にとって意義深い貢献となっています。


Goźdź-Roszkowski, S. (2021). Corpus linguistics in legal discourse. International Journal of Semiotics of Law, 34, 1515–1540. https://doi.org/10.1007/s11196-021-09860-8

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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