はじめに:コロナ禍で変わった教育現場
2020年春、世界中の教育機関が一夜にして対面授業から遠隔授業への転換を迫られました。多くの教師が慌てふためく中、「明日からオンラインで授業をしてください」という指示に頭を抱えた経験をお持ちの方も多いでしょう。特に語学教育の現場では、これまで教室で行っていた音声を使ったリスニング指導をどうオンラインで実現するかという課題が深刻でした。
今回取り上げる論文”Emergency remote teaching of listening comprehension using YouTube videos with captions”は、スロバキアのコンスタンティン哲学者大学のヤナ・ボルティツィアールとダーシャ・ムンコヴァーの両研究者が、まさにこのような状況下で行った実践研究の成果です。両研究者は翻訳学科で英語教育を担当しており、将来通訳者や翻訳者を目指す学生たちにとって不可欠なリスニングスキルをいかに遠隔教育で効果的に指導するかという切実な問題に取り組みました。
この研究が注目に値するのは、単なる緊急対応ではなく、YouTube動画と字幕機能を活用した体系的な指導法を開発し、その効果を実証的に検証した点です。コロナ禍という制約の中で生まれた創意工夫が、実は従来の教室授業では得られない新たな学習効果をもたらしたという発見は、教育界に重要な示唆を与えています。
研究の背景:翻訳・通訳学習者が直面する課題
翻訳・通訳を学ぶ学生にとって、リスニングスキルは単なる語学力の一部ではありません。例えば、国際会議で同時通訳を行う際、話者の早口な英語を瞬時に理解し、それを自然な日本語に変換する必要があります。この時、一語でも聞き逃せば、全体の意味が分からなくなってしまう可能性があります。
従来の語学教育では、教材に収録された「きれいな英語」を使ってリスニング練習を行うことが一般的でした。しかし、実際の仕事現場では、様々な国籍の話者による多様なアクセント、専門用語が飛び交う会話、雑音が入る環境での音声など、教材とは大きく異なる「生の英語」に対応しなければなりません。
著者らは、このような現実的な課題に対応するため、YouTube動画の活用に着目しました。YouTubeには世界中の人々が投稿した動画が無数にあり、教育、ビジネス、医療、エンターテインメントなど多様な分野の「本物の英語」に触れることができます。また、多くの動画には自動生成された字幕が付いており、学習者が理解困難な部分を視覚的に確認できるという利点もあります。
興味深いのは、研究開始当初、字幕の使用については教育者の間で賛否両論があったという点です。「リスニングの練習なのに文字を読ませては意味がない」という従来の考え方と、「理解を助けるツールとして字幕を活用すべき」という新しい考え方の間で議論がありました。この研究は、まさにこの議論に実証的なデータで答えを示そうとした取り組みでもあります。
研究方法:50名の学生を対象とした実証研究
研究対象となったのは、翻訳学科の1年生50名です。年齢は19歳から21歳と比較的均質な集団で、うち34名が女性、6名が男性でした。また、スロバキア人学生が大多数を占める中、9名の外国人留学生も含まれており、国際的な環境での学習実態を反映していました。
研究の設計は非常に丁寧に行われています。まず、学生たちの英語能力を正確に把握するため、ブリティッシュ・カウンシルが開発した標準的なテストを実施しました。その結果、学生の英語レベルはA2からC1まで幅広く分布していることが判明しました。これを受けて、研究者らは学生をB1レベル(A2-B1含む)18名とB2レベル(B2-C1含む)32名の2つのグループに分けて指導を行いました。
興味深いのは、B1とB2の境界線上にいる7名の学生には、自分の学習能力を考慮してどちらのグループで学習するかを選択させたという点です。この配慮は、学習者の自主性を重視する研究姿勢を表しており、実際の教育現場での個別対応の重要性を示しています。
授業は12週間にわたって実施され、週2回各45分の授業で合計16本のYouTube動画を使用しました。動画のテーマは、インターネット技術、ショービジネス、医療、歴史、ファッション、産業、通訳業界など8つの多様な分野にわたりました。これは、将来様々な分野で通訳・翻訳業務に従事する可能性がある学生たちのニーズを考慮した選択といえます。
学習効果の測定は、授業開始時、中間地点、終了時の3回にわたってリスニングテストを実施することで行われました。また、授業終了後には17項目からなる詳細なアンケート調査を実施し、学生の学習体験や字幕使用に関する意識を調査しました。
主な研究結果:字幕の効果と学習者の反応
研究結果は、多くの教育関係者にとって驚きだったかもしれません。遠隔教育という制約のある環境にもかかわらず、学生のリスニング能力は統計的に有意な向上を示したのです。特に注目すべきは、B1レベルの学生たちの急速な成長でした。彼らは授業の前半で大幅な改善を見せ、学期末にはB2レベルの学生との差が大幅に縮まったのです。
これは教育現場でよく観察される現象でもあります。基礎レベルの学習者ほど、適切な指導と十分な練習機会が与えられれば、短期間で大きな伸びを示すことがあります。まるで乾いたスポンジが水を吸収するように、新しい知識やスキルを貪欲に吸収していく様子は、多くの教師が経験したことがあるでしょう。
字幕の使用について調査した結果も興味深いものでした。50名中46名の学生が字幕を使用しており、完全に使用しなかった学生はわずか4名でした。しかし、大多数の学生(36名)は「普段は字幕なしで視聴し、理解困難な部分でのみ字幕をオンにする」という使い方をしていました。これは、字幕を「理解の杖」として賢く活用していることを示しています。
学生が字幕を必要とする場面も具体的に明らかになりました。最も多かったのは「知らない単語や表現」(24名)で、次に「強いアクセント」(12名)、「早口な話し方」(10名)、「聞き取りにくい連続音」(11名)と続きました。これらは実際の国際的なコミュニケーション場面で通訳者が直面する課題そのものです。
統計分析の結果、字幕使用頻度と最終テストの成績の間に正の相関関係があることが確認されました。つまり、字幕をより頻繁に活用した学生ほど、リスニング能力の向上が大きかったのです。この発見は、字幕を「甘え」と捉える従来の見方を覆すものでした。
学生自身の学習体験についても貴重なデータが得られました。46名の学生が「リスニング能力の向上を感じる」と回答し、具体的な改善点として「新しい語彙の習得」(24名)、「多様なアクセントへの慣れ」(14名)、「つづりと発音の学習」(17名)などを挙げました。
研究の価値と限界:何がわかり、何が課題として残るか
この研究の最大の価値は、緊急事態という制約の中で生まれた教育手法が、実は従来の方法よりも優れた側面があることを実証的に示した点です。特に、学習者の個別ニーズに応じた自律的学習を促進する効果は注目に値します。
教室での一斉授業では、教師のペースに合わせて学習を進める必要があります。しかし、YouTube動画を使った学習では、学生は必要に応じて一時停止、巻き戻し、繰り返し視聴が可能です。まるで個人専用の家庭教師がいるような環境で、自分のペースで学習を深めることができるのです。
また、多モード入力(音声+映像+テキスト)の学習効果についても重要な知見が得られました。人間の脳は複数の感覚チャンネルから同時に情報を受け取ることで、より効率的に記憶や理解を行うことが知られています。この研究は、その理論を実際の語学教育場面で検証し、その有効性を確認したものといえます。
一方で、研究の限界も率直に認識する必要があります。まず、対象者が50名という比較的小さなサンプルサイズである点です。より大規模な調査で同様の結果が得られるかは今後の検証が必要です。
また、研究期間が12週間という短期間であることも限界の一つです。語学能力の向上は長期的なプロセスであり、この手法の長期的効果については不明です。例えば、半年後、1年後に同じ学生たちのリスニング能力を測定したとき、この向上が維持されているかという疑問が残ります。
さらに、この研究はスロバキアの特定の大学の翻訳学科で行われたものであり、文化的背景や教育システムの違いが結果に与える影響についても考慮が必要です。日本のような異なる言語文化圏の学習者に同様の効果があるかは別途検証が必要でしょう。
技術的な側面での限界もあります。YouTube動画の自動生成字幕は完璧ではなく、時に不正確な表示がされることがあります。学習者がこれらの誤りをどの程度認識し、適切に対処できるかという点は今後の課題です。
教育現場への示唆:この研究から学べること
この研究から得られる教育現場への示唆は多岐にわたります。まず、技術を活用した学習環境の設計について重要な指針が示されました。単に動画を見せるだけでなく、学習者の自律性を重視し、個別のニーズに応じて学習をカスタマイズできる環境を整備することの重要性が明らかになりました。
教師の役割についても新たな視点が提示されています。従来の「知識を伝達する」役割から、「学習環境を設計し、学習者の自律的学習を支援する」役割への転換の必要性が示唆されています。この研究では、教師は動画選択、グループ分け、学習進度管理などのコーディネーター的役割を果たしており、これは今後の語学教育における教師の新しいあり方を示しているといえるでしょう。
評価方法についても重要な示唆があります。この研究では、定量的なテスト結果だけでなく、学習者の主観的体験や学習行動の分析も重視されました。学習者自身が「どのような場面で字幕を必要とするか」「どのような改善を感じているか」といった質的データは、教育改善のための貴重な情報源となります。
実践的な応用の観点から見ると、この研究は「混合型学習」(ブレンディッド・ラーニング)の可能性を示しています。対面授業と遠隔学習を効果的に組み合わせることで、それぞれの利点を最大化できる可能性があります。例えば、個別的なリスニング練習は動画を使った自習で行い、ディスカッションや発音練習は対面授業で行うといった組み合わせが考えられます。
字幕の教育的活用についても具体的な指針が得られました。字幕を完全に禁止するのではなく、「理解困難時の補助ツール」として位置づけ、学習者の判断に委ねることの有効性が示されました。これは、学習者の自律性を信頼し、メタ認知能力(自分の学習状況を客観視する能力)の育成にもつながります。
技術とプライバシーへの配慮
この研究で使用されたYouTube動画の活用について、実際の教育現場で採用する際には技術的・法的な配慮も必要です。著作権の問題、学習者のプライバシー保護、インターネット環境の格差などは重要な検討課題です。
特に日本の教育現場では、個人情報保護や動画コンテンツの教育利用に関する規則が厳格に運用されている場合が多く、この研究の手法をそのまま適用することには慎重さが求められます。教育機関は、技術的利便性と法的・倫理的配慮のバランスを取りながら、最適な学習環境を構築する必要があります。
言語学習理論との関連
この研究は、第二言語習得研究の理論的枠組みとも整合性があります。特に、クラッシェンの「理解可能インプット仮説」との関連は注目に値します。学習者が理解可能なレベルより少し上の言語材料に接することで言語能力が向上するという理論ですが、字幕はまさにこの「理解可能性」を高めるツールとして機能していると解釈できます。
また、マルチメディア学習理論とも密接に関連しています。音声、映像、テキストという複数のチャンネルから同時に情報を提供することで、学習者の認知負荷を適切に分散し、より効果的な学習を実現するという理論は、この研究結果と一致しています。
今後の研究課題
この研究を発展させるためには、いくつかの重要な研究課題があります。まず、長期的な効果の検証です。6か月後、1年後の追跡調査により、この学習手法の持続的効果を確認する必要があります。
また、異なる言語ペア(例:日本語-英語、中国語-英語など)や異なる能力レベルでの効果検証も重要です。この研究はスロバキア語話者による英語学習に焦点を当てていますが、他の言語学習者にも同様の効果があるかは別途検証が必要です。
さらに、字幕の品質が学習効果に与える影響についても詳細な研究が必要です。人間が作成した正確な字幕と自動生成字幕の学習効果の違い、誤りを含む字幕が学習に与える負の影響などは重要な検討課題です。
技術的な発展に伴い、AIを活用したより高度な学習支援システムの開発も期待されます。学習者の理解度をリアルタイムで分析し、個別に最適化された字幕表示や補助情報の提供などは、将来的に実現可能な技術として注目されます。
おわりに:ポストコロナ時代の語学教育
この研究は、コロナ禍という危機が教育界にもたらした創造的破壊の一例として位置づけることができます。従来の教室中心の教育から強制的に遠隔教育に移行せざるを得なかった状況が、皮肉にも新たな教育手法の開発と検証の機会を提供したのです。
重要なのは、この研究が示している「学習者中心の教育」という視点です。教師が一方的に知識を伝達するのではなく、学習者が自分のニーズに応じて学習をカスタマイズできる環境を提供することの価値が実証されました。これは、生涯学習が求められる現代社会において、特に重要な示唆といえるでしょう。
また、技術活用の適切なあり方についても重要な指針が示されました。技術は目的ではなく手段であり、学習者の理解と成長を支援するために活用されるべきです。字幕機能という一見単純な技術が、適切に活用されることで大きな教育効果をもたらすという発見は、教育技術の本質を考える上で示唆に富んでいます。
今後の語学教育は、対面授業と遠隔学習、個別学習と協働学習、技術活用と人間的指導など、様々な要素を適切に組み合わせた「ハイブリッド型」の形態に向かっていくと予想されます。この研究は、そのような新しい教育パラダイムの構築に向けた重要な一歩として評価できるでしょう。
最後に、この研究が示している最も重要なメッセージは、困難な状況でも創意工夫によって新たな可能性を切り開くことができるという希望です。制約は時として創造性の源となり、危機は変革の機会となりうることを、この研究は教育現場の実践を通じて示してくれています。これからの教育者にとって、この研究は単なる研究事例以上の意味を持つ貴重な道標となることでしょう。
Boltiziar, J., & Munkova, D. (2024). Emergency remote teaching of listening comprehension using YouTube videos with captions. Education and Information Technologies, 29, 11367–11383. https://doi.org/10.1007/s10639-023-12282-7