日本人が直面する英語の「壁」

英語を学ぶ日本人なら誰もが経験したことがあるでしょう。「Right」と「Light」、「Rock」と「Lock」—これらの単語の区別がどうしてもうまくできない、という悩みです。カーネギーメロン大学のエリン・イングヴァルソン氏らによる本研究”Predicting native English-like performance by native Japanese speakers”は、まさにこの身近で切実な問題を科学的に解明しようとした興味深い取り組みです。

この現象は単なる個人的な語学の悩みではありません。実際、日本語話者における英語の/r/と/l/の混同は、言語学の分野では非常によく知られた現象として数十年にわたって研究されてきました。なぜこのような困難が生じるのか、そして長期間英語圏に住んでいる日本人はこの問題をどのように克服していくのか—これらの疑問に対する答えを探ることは、言語習得のメカニズムを理解する上で重要な意味を持ちます。

研究チームが着目したのは、「Speech Learning Model(SLM)」という理論です。この理論は、ジェームズ・フレゲ氏によって提唱されたもので、大人になってから第二言語を学ぶ際の音韻習得について説明しようとするものです。SLMの基本的な考え方は、人間の言語習得能力は生涯にわたって維持されているというものです。しかし、母語の音韻体系がすでに確立されている大人の学習者では、新しい言語の音を母語の音に「同化」してしまう傾向があるため、新しい音韻カテゴリーの形成が困難になるとされています。

研究の舞台設定:科学的手法で謎に迫る

本研究の魅力は、この複雑な問題に対して非常に体系的かつ包括的なアプローチを取っていることです。研究者たちは、ピッツバーグ、バンクーバー、パロアルトという北米の3つの都市で、合計55名の日本語話者を対象に調査を行いました。参加者は全員日本で生まれ育ち、18歳以降に北米に移住した人たちです。

参加者を在住期間によって3つのグループに分けたのは興味深い工夫です。2年未満、2年から5年、そして10年以上という区分は、言語習得における時間の効果を段階的に測定するために設定されました。まるで言語習得の「定点観測」のような研究デザインです。

研究の方法論も非常に巧妙です。単に「RとLを聞き分けられるか」を測るだけでなく、自然音声の知覚テスト、合成音声を使った詳細な音響分析、実際の発音の録音、そして英語話者による評価まで、多角的な測定を行いました。これは、まるで医師が患者の症状を様々な角度から診断するのと似ています。

特に興味深いのは、音響的な分析に焦点を当てている点です。研究者たちは、英語話者が/r/と/l/を区別する際の最も重要な手がかりが「F3」(第三フォルマント)の開始周波数であることに注目しました。これは専門的に聞こえますが、簡単に言えば、音の「指紋」のような特徴的な周波数パターンのことです。英語話者は無意識のうちにこのF3の違いを頼りに/r/と/l/を区別しているのに対し、日本語話者は別の音響的特徴(F2)により依存する傾向があることが分かっています。

期待と現実:予想外の発見

研究結果は、一部で期待された通りであり、一部では意外なものでした。予想通りだったのは、在住期間が長い日本人ほど、より英語話者に近いパフォーマンスを示したことです。10年以上在住している人たちは、外国語なまりが少なく、/r/と/l/の発音もより正確で、自然音声の聞き取りも上達していました。これは、多くの人が経験的に予想できる結果でしょう。

しかし、本当に興味深いのは予想外の発見です。在住期間が長くなってもF3への依存度は増加しなかったのです。つまり、日本人の英語学習者は長期間英語環境にいても、英語話者と同じような音の聞き取り方に変わることはなかったということです。これは、まるで「目的地には着いているが、そこに至る道筋は全く違う」ような状況です。

この発見は、言語習得に対する我々の理解に重要な示唆を与えます。従来の考え方では、第二言語の習得が進むにつれて、学習者はよりネイティブスピーカーに近い音の処理方法を身につけるはずでした。しかし、この研究は、実際の改善は必ずしもそのような方法によるものではないことを示しています。

研究者たちは興味深い分析も行いました。F3への依存度と自然音声の聞き取り能力の間には強い相関関係があったのですが、在住期間とF3への依存度の間には関係がありませんでした。これは、まるで「成功への道は一つではない」ことを示しているようです。

言語習得の新たな理解

この研究結果は、言語習得のメカニズムについて新しい視点を提供します。従来のSLMの予測では、経験の蓄積とともに新しい音韻カテゴリーが形成され、より効果的な音響的手がかりの使用が期待されていました。しかし、実際には、パフォーマンスの改善は音響的手がかりの重み付けの変化を伴わずに起こる可能性があることが示されました。

これを日常的な例で考えてみましょう。料理の技術向上に例えると、従来の考え方では「上達するにつれて、より洗練された技法や道具を使うようになる」と予想されていました。しかし、この研究結果は「基本的な道具や技法のまま、経験による感覚的な改善で料理の質が向上する」ことがあることを示しているようなものです。

研究者たちは、この現象を説明するいくつかの可能性を提示しています。一つは、学習者が既存の母語と第二言語のカテゴリーの境界内で、より効率的な分類戦略を発達させるという考え方です。これは、根本的な変化ではなく、既存の枠組み内での最適化と言えるでしょう。

また、バイリンガル話者の音韻空間が、どちらの言語のモノリンガル話者とも異なる特別な性質を持つ可能性も示唆されています。これは興味深い観点で、バイリンガルの人々は必ずしも二つのモノリンガル話者の中間的存在ではなく、独自の言語処理システムを持つ可能性を示しています。

研究の価値と課題

この研究の価値は、単に学術的な理論の検証にとどまりません。実際の英語教育や言語習得支援に対する重要な示唆を含んでいます。たとえば、従来の英語教育では「正しい発音」を身につけることに重点が置かれがちですが、この研究は、学習者が異なる戦略でも十分に効果的なコミュニケーションを達成できることを示しています。

一方で、研究の限界も認識する必要があります。参加者は全員18歳以降に移住した人たちであり、より早い年齢で英語に接触した場合の結果は異なる可能性があります。また、個人差の要因についても、さらなる探究が必要です。なぜ一部の人は他の人よりもF3手がかりを効果的に使用できるのか、という疑問は残されたままです。

研究手法についても、いくつかの改善の余地があります。合成音声を使った実験は制御された条件下での測定には有効ですが、日常的な言語使用の複雑さを完全には反映していません。また、社会的要因や学習動機といった心理的側面についても、より詳細な検討が望まれます。

実践的含意と今後の展望

この研究は、英語教育の現場にも重要な示唆を与えます。従来の発音指導では、しばしば「ネイティブのような発音」を目標として設定しがちですが、この研究は、学習者が独自の効果的な戦略を発達させる可能性を示しています。教育者は、画一的な指導方法ではなく、個々の学習者の特性に応じた多様なアプローチを検討する必要があるかもしれません。

また、長期的な言語習得における「プラトー効果」についても新しい理解が得られます。多くの学習者が経験する「ある程度上達した後の停滞感」は、必ずしも学習の失敗ではなく、異なる習得戦略による安定した状態である可能性があります。

研究者たちが提案している今後の研究方向も興味深いものです。複数の言語背景を持つ学習者の比較研究、個人差を決定する認知的要因の解明、そして訓練方法の効果に関するより詳細な検討など、多くの重要な課題が残されています。

特に、ワーキングメモリや処理能力といった認知的要因と言語習得の関係については、より深い理解が求められています。また、学習者の動機や社会的環境といった要因も、音韻習得に重要な影響を与える可能性があります。

むすび:言語習得の多様性を認める

この研究が我々に教えてくれるのは、言語習得という現象の複雑さと多様性です。人間の脳は驚くべき適応性を持っており、必ずしも一つの「正解」に向かって直線的に発達するわけではありません。むしろ、個々の学習者が自分なりの効果的な戦略を見つけ出し、それを洗練させていく過程として理解できます。

日本人の英語学習者にとって、この研究結果は心強いメッセージでもあります。完全にネイティブスピーカーと同じような音の処理ができなくても、十分に効果的なコミュニケーションが可能であることが科学的に示されました。「完璧でなくても良い」という考え方は、言語学習に対するプレッシャーを軽減し、より積極的な学習態度を促すかもしれません。

同時に、この研究は言語習得研究の分野に新しい課題も提起しています。従来の理論的枠組みでは十分に説明できない現象があることが明らかになり、より柔軟で包括的な理論構築の必要性が示されました。

言語は人間の最も基本的な能力の一つであり、その習得過程を理解することは、人間そのものを理解することにつながります。この研究のような詳細で丁寧な実証研究の積み重ねによって、我々は言語と人間の関係についてより深い理解を得ることができるでしょう。そして、そこから得られる知見は、より効果的な言語教育方法の開発や、多様な言語背景を持つ人々が共生する社会の実現にも貢献していくはずです。


Ingvalson, E. M., McClelland, J. L., & Holt, L. L. (2011). Predicting native English-like performance by native Japanese speakers. Journal of Phonetics, 39(4), 571–584. https://doi.org/10.1016/j.wocn.2011.03.003

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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