はじめに:グローバル化時代における言語学習の複雑性
現代社会において、人々はますます多様な言語環境の中で生活し、学習しています。移民、留学、国際結婚、多国籍企業での勤務など、様々な理由で複数の言語を習得する必要に迫られる人々が増加している中で、第二言語習得(Second Language Acquisition: SLA)研究も従来の枠組みを超えた新しいアプローチが求められています。
本稿で検討するPatricia A. Duffの論文”Social Dimensions and Processes in Second Language Acquisition: Multilingual Socialization in Transnational Contexts”は、このような時代背景を受けて、SLA研究における社会的側面の重要性を論じた重要な学術的貢献です。
著者の背景と研究領域
Patricia A. Duffは、カナダのブリティッシュコロンビア大学教育学部言語・リテラシー教育学科の教授として、長年にわたってSLA研究の社会的側面に焦点を当てた研究を行ってきました。特に、多言語環境における言語社会化、ヘリテージ言語学習、留学における言語習得など、実際の社会的コンテクストの中での言語習得プロセスを詳細に分析してきた研究者として知られています。
Duffは、言語習得を単に個人の認知的プロセスとして捉えるのではなく、社会的、文化的、政治的、経済的な要因が複雑に絡み合った現象として理解する必要性を一貫して主張してきました。この論文も、そうした長年の研究蓄積を基盤として、SLA研究分野全体に対して新しい方向性を提示しようとする野心的な試みといえます。
論文の概要と主要な問題提起
Douglas Fir Groupモデルの再検討
この論文の出発点となっているのは、2016年に発表されたDouglas Fir Group(DFG)による「多言語世界におけるSLAのための超学際的フレームワーク」の再検討です。DFGは、従来のSLA研究が個人の認知的側面に偏重していることを批判し、マクロ(巨視的)、メゾ(中間的)、ミクロ(微視的)の三つのレベルでの分析を統合する必要性を提唱しました。
Duffは、このDFGモデルが画期的である一方で、各レベル間の動的な相互作用や、時間軸を考慮した変化のプロセスを十分に捉えきれていないという限界を指摘しています。特に、静的な円形図では表現しきれない、複雑で流動的な言語習得の実態をより適切にモデル化する必要があると主張しています。
言語社会化アプローチの重要性
論文では、言語社会化(Language Socialization)研究が、DFGモデルの限界を補完する有効なアプローチとして位置づけられています。言語社会化研究は、人々が特定の言語形式を学習する過程で、同時にその言語が使用される文化や社会における適切な参加の仕方を身につけていくプロセスに注目します。
この視点では、言語習得は単なる言語的知識の獲得ではなく、特定のコミュニティにおける社会的アイデンティティの構築、権力関係の理解、文化的価値観の内在化といった、より広範な社会化プロセスの一部として理解されます。Duffは、このアプローチが現代の多言語・越境的な環境における言語習得の複雑性を捉える上で特に有効であると論じています。
主要な理論的貢献
スケール分析の精緻化
論文の重要な理論的貢献の一つは、マクロ・メゾ・ミクロというスケール分析をより精緻化した点にあります。従来の研究では、これらのレベルが比較的独立した分析単位として扱われがちでしたが、Duffは、実際の言語習得過程では、これらのレベルが複雑に絡み合い、相互に影響を与え合っていることを強調しています。
例えば、言語イデオロギーは一般的にマクロレベルの現象として位置づけられますが、実際には個人の日常的な言語選択(ミクロレベル)や教育機関での言語政策(メゾレベル)にも直接的な影響を与えています。このような多層的な相互作用を適切に分析するためには、従来の静的なモデルではなく、より動的で柔軟なフレームワークが必要であるとDuffは主張しています。
インデクシカリティ概念の導入
論文では、言語人類学における「インデクシカリティ」という概念が重要な理論的ツールとして紹介されています。インデクシカリティとは、特定の言語形式や言語使用が、それ自体を超えた社会的意味や文化的価値を「指し示す」機能を持つという考え方です。
例えば、ある学習者が特定の敬語形式を使用することは、単にその文法形式を習得したということ以上に、その言語コミュニティにおける階層関係の理解、適切な社会的距離の認識、文化的価値観への同調などを示すものとして解釈されます。このような視点は、言語習得を社会的・文化的プロセスとして理解する上で極めて重要な概念といえます。
多時間軸的分析の必要性
もう一つの重要な理論的貢献は、言語習得分析における時間軸の複雑性への注目です。Duffは、従来の研究が比較的短期的な習得プロセスに焦点を当てがちであったことを批判し、個人の生涯にわたる言語発達、世代を超えた言語継承、歴史的な言語変化といった、より長期的な時間軸での分析の重要性を強調しています。
特に、移民コミュニティにおけるヘリテージ言語の維持や変化、国際的な言語政策の変遷が個人の言語選択に与える影響など、複数の時間軸が交錯する現象を理解するためには、このような長期的視点が不可欠であると論じています。
方法論的課題と提案
事例研究の重要性
論文では、理論的議論に加えて、具体的な研究方法論についても詳細な検討が行われています。Duffは、複雑な社会的コンテクストにおける言語習得を理解するためには、量的研究だけでなく、質的研究、特に詳細な事例研究が重要であると主張しています。
事例研究の利点として、個人の言語習得プロセスを、その人が置かれた具体的な社会的、文化的、政治的コンテクストの中で詳細に分析できることが挙げられています。また、複数の事例を比較検討することで、異なる環境における言語習得の共通点と相違点を明らかにできるとしています。
学際的アプローチの必要性
論文の中でも特に重要な方法論的提案は、真の学際的研究の必要性です。Duffは、現在のSLA研究が「学際的」を標榜しながらも、実際には言語学や心理学など限られた分野の知見に依存しがちであることを指摘しています。
真の学際的研究を実現するためには、社会学、人類学、政治学、経済学、地理学など、より幅広い分野の専門家が協力して、同一の事例を多角的に分析する必要があるとしています。このようなアプローチは、医学分野における多職種チーム医療に類似したものとして提示されています。
超学際的研究の可能性
さらに進んで、Duffは「超学際的」研究の可能性についても論じています。超学際的研究とは、学術分野を超えて、実際の政策立案者、教育実践者、コミュニティメンバーなど、様々なステークホルダーが研究プロセスに参加する形態の研究を指します。
このアプローチは、研究成果が実際の社会問題の解決に直接貢献できる可能性を持つ一方で、異なる専門背景を持つ参加者間での認識論的な違いをどのように調整するかという課題も抱えています。Duffは、これらの課題を認識しつつも、SLA研究の社会的妥当性を高めるためには、このような挑戦的なアプローチが必要であると主張しています。
実証研究の事例分析
留学研究における多層的分析
論文では、理論的議論を具体化するための事例として、留学研究における言語社会化プロセスが詳しく分析されています。従来の留学研究は、出発前と帰国後の言語能力テストスコアの比較に焦点を当てることが多かったのですが、Duffは、このようなアプローチでは留学の真の効果を理解できないと批判しています。
代わりに、留学生が置かれた具体的な社会的コンテクスト、受け入れ社会における言語イデオロギー、ホストファミリーや現地学生との相互作用パターン、学習者自身のアイデンティティ変化など、多層的な要因を統合的に分析する必要があると主張しています。
特に興味深いのは、留学先での「アクセス」の問題です。多くの留学生は、形式的には現地の言語環境に「浸る」機会を得ているにも関わらず、実際には現地話者との意味のある相互作用の機会が限られていることが指摘されています。このようなアクセスの制限は、言語能力の問題だけでなく、社会的地位、人種、ジェンダー、国籍などの様々な社会的要因によって影響を受けることが論じられています。
ヘリテージ言語学習の複雑性
もう一つの重要な事例として、ヘリテージ言語学習が取り上げられています。ヘリテージ言語とは、移民の子どもたちが家庭で学ぶ継承語のことを指しますが、この分野の研究は、言語習得における社会的・政治的要因の複雑性を理解する上で特に示唆的です。
論文では、日本における在日韓国人コミュニティの事例が詳しく分析されています。この事例では、北朝鮮系の朝鮮学校で学ぶ韓国系の子どもたちが、学校で教えられる標準的な北朝鮮語、家庭で使用される在日韓国人特有の韓国語変種、日本社会で必要な日本語、さらには韓流文化の影響による韓国語など、複数の言語変種の間で複雑な選択を迫られている状況が描かれています。
この事例は、言語習得が単なる言語的スキルの獲得ではなく、複雑な社会的・政治的アイデンティティの構築プロセスでもあることを明確に示しています。学習者たちは、それぞれの言語変種を使用することで、異なる社会集団への帰属を表明し、異なる政治的立場を示すことになります。このような状況では、言語選択そのものが高度に政治的な行為となっているのです。
アクセスと包摂の問題
両方の事例を通じて浮かび上がってくるのは、言語学習における「アクセス」と「包摂」の問題です。形式的な学習機会が提供されていても、実際に学習者がその機会を活用できるかどうかは、様々な社会的要因によって制約されています。
例えば、留学生の場合、現地学生が留学生の第一言語に切り替えてしまうことで、目標言語での会話練習の機会が奪われることがあります。また、ヘリテージ言語学習者の場合、学校で教えられる「標準的な」言語変種と家庭で使用される変種との間の乖離が、学習意欲の低下や文化的アイデンティティの混乱を引き起こすことがあります。
このような問題は、言語教育政策や教育実践の改善だけでは解決できない、より深刻な社会構造的な問題と関連していることをDuffは強調しています。
学際的アプローチの可能性と限界
医学モデルからの学び
論文の後半では、SLA研究における真の学際的・超学際的研究の可能性について、医学分野との比較を通じて論じられています。現代の医学では、一人の患者の治療に複数の専門分野の医師が関わることが一般的であり、それぞれの専門性を活かしながら統合的な治療方針を決定します。
Duffは、このような多職種連携のモデルをSLA研究にも適用できる可能性を示唆しています。例えば、一人の言語学習者を対象として、言語学者、心理学者、社会学者、人類学者、教育学者などが協力して、それぞれの専門的視点から分析を行い、統合的な理解を構築するというアプローチです。
このようなアプローチの利点は、単一の理論的枠組みでは捉えきれない複雑な現象を、多角的に理解できることにあります。しかし同時に、異なる学問分野間での認識論的相違、専門用語の不一致、研究方法論の違いなど、多くの困難も伴うことが指摘されています。
実用性と理論性のバランス
超学際的研究のもう一つの重要な側面は、研究の実用性と理論性のバランスです。従来の学術研究は、理論的な精緻さや方法論的な厳密さを重視する傾向がありましたが、超学際的研究では、実際の社会問題の解決に貢献することも同じく重要な目標とされます。
SLA研究の文脈では、これは言語教育政策の改善、教師教育の向上、多言語コミュニティの支援などの実践的な目標と、言語習得理論の発展という学術的な目標を両立させることを意味します。このようなバランスを取ることは決して容易ではありませんが、研究の社会的妥当性を高める上で重要な挑戦といえます。
実現可能性の課題
一方で、このような野心的な研究アプローチには多くの実現可能性の課題があることも認識されています。まず、異なる専門分野の研究者が効果的に協力するためには、相当な時間と資源が必要です。また、研究成果の評価基準、知的財産権の扱い、研究資金の配分など、実際的な問題も多数存在します。
さらに、現在の学術評価システムが単著論文や単一分野内での業績を重視する傾向があるため、真の学際的研究に従事する研究者のキャリア形成に不利益をもたらす可能性もあります。これらの構造的な障壁を克服することなしには、理想的な学際的研究の実現は困難であることをDuffは率直に認めています。
批判的検討
理論的整合性の課題
この論文は多くの重要な示唆を提供する一方で、いくつかの理論的・方法論的課題も抱えています。まず、複数の理論的アプローチを統合しようとするあまり、全体的な理論的整合性が不十分になっている感があります。言語社会化理論、社会文化理論、生態学的アプローチ、複雑系理論など、様々な理論的枠組みが言及されていますが、これらの間の関係性や優先順位が必ずしも明確ではありません。
また、DFGモデルの批判的検討は有益ですが、代替案として提示されている新しいモデルも、批判している元のモデルと同様の課題を抱えている可能性があります。特に、複雑な社会的現象を図式化して表現することの限界は、どのようなモデルを採用しても根本的に解決困難な問題かもしれません。
方法論的実現可能性
学際的・超学際的研究の提案は理想的である一方、その実現可能性については疑問も残ります。論文で提示されている医学分野との類推は魅力的ですが、医学と言語教育では研究対象の性質、社会的緊急性、資源の利用可能性などが大きく異なります。
また、複数の専門分野の研究者が協力して一つの事例を分析するというアプローチは、確かに包括的な理解をもたらす可能性がありますが、そのような研究に要する時間、費用、人的資源を考慮すると、限られた数の事例しか扱えないという限界があります。このような深い分析から得られた知見がどの程度一般化可能であるかという問題も残されています。
政治的・倫理的配慮
論文の最後で触れられている政治的な課題も重要な検討事項です。現代世界では、移民や難民に対する排外主義的な政策、多言語教育への攻撃、言語的マイノリティの権利の侵害など、言語の問題が深刻な政治的対立の焦点となっています。
このような状況において、SLA研究がどのような政治的立場を取るべきかという問題は避けて通れません。Duffは多言語主義と言語的多様性の価値を前提としていますが、これらの価値観が普遍的に受け入れられているわけではないという現実があります。研究の客観性と政治的コミットメントのバランスをどのように取るかは、今後のSLA研究の重要な課題といえます。
実証的証拠の限界
論文で提示されている事例研究は示唆的である一方、その実証的な基盤については限界があります。特に、提案されている新しい理論的アプローチやモデルの有効性を支持する体系的な実証的証拠はまだ十分に蓄積されていません。
また、論文で扱われている事例(留学、ヘリテージ言語学習)は、確かに現代的な重要性を持っていますが、より広範なSLA現象を代表しているかどうかは疑問です。多くの言語学習者は、これらのような特殊な状況ではなく、より「通常の」教室環境で言語を学んでいるという現実があります。
今後の研究への示唆
方法論的革新の必要性
この論文の最も重要な貢献の一つは、SLA研究における方法論的革新の必要性を明確に示したことです。従来の量的研究と質的研究の二項対立を超えて、より統合的で柔軟な研究アプローチを開発する必要性が浮き彫りになっています。
特に、デジタル技術の発展により、従来は困難であった長期間にわたる言語使用の追跡調査や、複数の地域にまたがる国際比較研究などが技術的に可能になっています。このような新しい技術的可能性を活用した革新的な研究デザインの開発が期待されます。
理論統合の課題
論文が提起している理論統合の課題は、SLA研究分野全体が直面している重要な問題です。認知的アプローチと社会的アプローチ、構造主義的視点と後構造主義的視点、量的パラダイムと質的パラダイムなど、様々な理論的対立を建設的に統合する新しい枠組みの開発が求められています。
このような統合は、単に既存の理論を機械的に組み合わせることではなく、より根本的な認識論的・存在論的な問題に取り組むことを要求します。言語、学習、社会、個人といった基本概念そのものを再検討する作業が必要かもしれません。
教育実践への含意
論文で提案されている社会的アプローチは、言語教育実践にとっても重要な含意を持っています。従来の言語教育は、文法や語彙などの言語的知識の伝達に重点を置いてきましたが、この論文の視点からは、学習者が目標言語を使用する社会的コンテクストへの適切な参加の仕方を学ぶことが同じく重要になります。
このことは、教師教育、カリキュラム開発、教材作成、評価方法など、言語教育の様々な側面において根本的な見直しを迫るものです。特に、多様な背景を持つ学習者のニーズに対応し、言語学習を通じた社会的包摂を促進するための教育実践の開発が急務といえます。
まとめ:社会的転回の意義と課題
Patricia A. Duffのこの論文は、SLA研究における「社会的転回」の現状と課題を包括的に論じた重要な学術的貢献です。従来の個人中心的・認知中心的なアプローチの限界を明確に指摘し、より包括的で社会的に埋め込まれたアプローチの必要性を説得力を持って論じています。
特に、DFGモデルの批判的検討、言語社会化アプローチの詳細な分析、具体的な事例研究を通じた理論の具体化、学際的・超学際的研究の可能性の探求など、多角的な議論を展開している点で、この分野の研究者にとって極めて価値の高い論考といえます。
一方で、理論的整合性の課題、方法論的実現可能性への疑問、政治的・倫理的配慮の必要性など、今後検討すべき多くの課題も明らかになっています。これらの課題は、この論文の価値を損なうものではなく、むしろSLA研究分野の更なる発展のために取り組むべき重要な研究課題として位置づけることができます。
現代世界において、言語の問題は単なる学術的関心事ではなく、社会正義、人権、平和構築といった重要な社会的課題と密接に関連しています。移民の増加、グローバル化の進展、デジタル技術の発達など、急速に変化する社会情勢の中で、SLA研究がどのような役割を果たすべきかという問いに対して、この論文は重要な方向性を示していると評価できます。
今後のSLA研究においては、この論文で提起された課題に真摯に取り組みながら、理論的深化と実践的妥当性の両立を目指す努力が求められるでしょう。それは決して容易な道のりではありませんが、多言語・多文化社会の実現に向けて、SLA研究が果たすべき重要な社会的責任でもあります。
Duff, P. A. (2019). Social dimensions and processes in second language acquisition: Multilingual socialization in transnational contexts. The Modern Language Journal, 103(Supplement 2019), 6–22. https://doi.org/10.1111/modl.12534