はじめに:言語学習をめぐる根本的な問い

私たちは皆、幼い頃に母語を習得する経験をしています。この過程は一見当たり前のように思えますが、実は科学的には非常に複雑で謎に満ちた現象です。どのようにして子どもは、限られた言語データから無限に豊かな表現を生み出せる言語能力を身につけるのでしょうか。

この根本的な問いに対して、言語学者のニック・チェイター(ウォーリック大学)と認知科学者のモルテン・クリスチャンセン(コーネル大学、オーフス大学)が、従来の考え方とは大きく異なる視点を提示しました。彼らの論文”Language acquisition as skill learning”は、言語習得を自転車の運転や楽器演奏などの技能学習と本質的に同じプロセスとして理解すべきだと主張しています。

従来の言語習得観:子どもは「小さな言語学者」なのか

まず、従来の言語習得研究がどのような前提に立っていたかを理解する必要があります。ノーム・チョムスキーやスティーブン・ピンカーといった影響力のある言語学者たちは、言語習得を理論的な問題として捉えてきました。この視点では、子どもは「小さな言語学者」として位置づけられ、周囲から聞こえてくる言語データを分析して、その言語の文法規則を推論していると考えられてきました。

この考え方によると、言語習得の課題は実用的な問題(どうやって効果的にコミュニケーションするか)ではなく、理論的な問題(その言語の文法体系を解明すること)です。そして、この課題があまりにも困難であるため、人間には「普遍文法」と呼ばれる生得的な言語知識が備わっているはずだと考えられてきました。

しかし、チェイターとクリスチャンセンは、この伝統的な見方に疑問を投げかけます。彼らは、言語習得を知識の獲得ではなく、技能の習得として理解すべきだと主張します。

技能学習としての言語習得:新しい枠組みの提案

「今すぐかさもなくば決して」のボトルネック

著者らが提示する新しい枠組みの中核には、「Now-or-Never bottleneck(今すぐかさもなくば決して)ボトルネック」という概念があります。これは、人間の記憶の制約に基づく考え方です。

私たちの聴覚記憶は極めて短く、音の情報は50から100ミリ秒程度で失われてしまいます。視覚情報も同様に短時間で消失します。この制約は、言語処理だけでなく、音楽演奏、スポーツ、運転など、あらゆる技能において共通の課題となります。

この問題を解決するために、脳は「Chunk-and-Pass(塊化して渡す)処理」と「Just-in-Time(間に合うように)処理」という二つのメカニズムを発達させたと著者らは主張します。

Chunk-and-Pass処理では、低レベルの情報(音響的な入力など)が即座に圧縮され、より抽象的なレベル(音素、単語、文など)へと段階的に変換されます。Just-in-Time処理はその逆で、高レベルの計画(何を伝えたいか)が低レベルの具体的な運動指令へと展開され、即座に実行されます。

構文を手順として理解する

この技能学習の観点から言語を見ると、従来の文法観が変わります。文法規則は抽象的な知識ではなく、音と意味を結びつける具体的な手順として理解されます。例えば、「I want ___」という構文パターンは、抽象的な規則ではなく、特定の音のパターンと特定の意味を結びつける処理手順として機能します。

この考え方は、最近の用法基盤理論や構文文法理論と親和性があります。これらの理論では、言語知識は個別の「構文」の集合として理解され、それぞれの構文は音と意味の局所的な対応関係を表現します。

実証的証拠:理論を支える研究成果

子どもの言語発達パターン

著者らの理論を支持する重要な証拠の一つは、子どもの実際の言語発達パターンです。従来の理論では、子どもが大胆な仮説を立てて言語規則を推論すると考えられていましたが、実際の研究では、子どもの言語使用は極めて保守的であることが示されています。

言語学者カリカバーが「保守的注意深い学習」と呼んだように、子どもは最初から抽象的な規則を作るのではなく、具体的な言語構文を模倣し、徐々に変化させていきます。「I like ___」や「I wanna ___」といったパターンから始まって、徐々に多様な語彙でスロットを埋めていく過程が観察されています。

処理速度と言語能力の関係

さらに印象的な証拠は、言語処理速度と長期的な言語能力との関係です。2歳児を対象とした研究では、「犬を見て」という指示を聞いて適切な絵を見る速度が、8歳時点での言語能力を予測することが示されています。これは、言語習得が抽象的な規則の学習ではなく、リアルタイムでの処理技能の発達であることを示唆しています。

対話的相互作用の重要性

また、単純な言語入力の量よりも、養育者との対話的な相互作用の質と量が言語発達により強く関連することも明らかになっています。これは、言語習得が受動的な規則学習ではなく、能動的な技能練習であることを支持します。

批判的検討:理論の限界と課題

言語の創造性をどう説明するか

技能学習理論の最大の課題は、言語の創造性と生産性をどう説明するかです。人間は、以前に聞いたことのない文を無限に生成し、理解することができます。この能力を、局所的な構文パターンの組み合わせだけで説明できるでしょうか。

著者らは、個別の構文が組み合わさることで複雑な表現が可能になると主張しますが、この説明が十分かどうかは議論の余地があります。特に、言語の階層構造や長距離依存関係(「この本は、昨日買った雑誌よりも面白い」のような構造)をどう処理するかについては、より詳細な説明が必要でしょう。

言語系統差の問題

もう一つの課題は、言語系統間の構造的差異をどう説明するかです。日本語、英語、フィンランド語のように、語順や格標示システムが大きく異なる言語を、同じ技能学習メカニズムで習得できるのでしょうか。技能学習理論は、この多様性を説明するためにより精緻な枠組みが必要かもしれません。

臨界期仮説への対応

言語学習における臨界期の存在については、著者らは第二言語習得の困難さを「以前の技能が新しい技能学習に干渉する」という形で説明します。しかし、この説明が十分かどうかは疑問です。第二言語習得の困難さには、音韻知覚の可塑性の低下や脳の成熟に伴う変化など、より生物学的な要因も関与している可能性があります。

実証研究の評価:証拠の強さと限界

処理速度研究の意義

マーチマンとファーナルドの研究は、2歳時点での言語処理速度が8歳時点での能力を予測するという印象的な結果を示しています。これは技能学習理論の重要な証拠ですが、因果関係の解釈には注意が必要です。処理速度が言語能力の原因なのか、それとも両方が共通の基盤的能力に依存しているのかは明確ではありません。

相互作用研究の限界

ワイスレーダーとファーナルドの研究は、対話的相互作用の重要性を示していますが、この研究にも限界があります。測定された「対話的相互作用」が具体的に何を意味するかは、より詳細な分析が必要です。また、相関関係が観察されても、それが技能学習理論を決定的に支持するわけではありません。

理論的含意:言語科学への影響

言語学習研究の方向性

もし技能学習理論が正しければ、言語学習研究の方向性は大きく変わるでしょう。従来の形式的統語理論や生成文法の研究よりも、使用に基づく言語研究や心理言語学的研究が重要になります。また、言語習得と他の認知技能との共通点に焦点を当てた学際的研究が推進されるでしょう。

教育実践への示唆

技能学習理論は、語学教育にも重要な示唆を提供します。従来の文法規則中心の教育よりも、実際のコミュニケーション場面での練習を重視する教育法が効果的である可能性があります。また、個別の言語構文パターンを段階的に習得していくアプローチが有効かもしれません。

進化的・発達的視点からの考察

言語進化への新しい視角

技能学習理論は、言語進化についても新しい視点を提供します。言語能力の進化を生物学的適応だけでなく、文化的進化の産物として理解する余地が広がります。言語構造は、人間の一般的な学習・処理能力に適合するように文化的に進化した可能性があります。

この視点は、言語の多様性と共通性を同時に説明する可能性があります。共通の認知制約により言語構造に制限が生まれる一方で、文化的伝達過程での変異により多様性が生まれるという説明です。

発達心理学との接続

技能学習理論は、言語発達を一般的な認知発達の文脈に位置づけます。これにより、言語発達の個人差や、他の認知能力との関係をより統合的に理解できる可能性があります。

今後の研究課題と展望

必要な実証研究

技能学習理論をさらに検証するためには、いくつかの研究が必要です。まず、言語処理における「塊化」過程を直接測定する研究が重要です。脳波や機能的磁気共鳴画像法を用いて、リアルタイムの言語処理における情報圧縮と転送の過程を観察する研究が求められます。

また、異なる言語系統での技能学習過程の比較研究も重要です。日本語、中国語、アラビア語などの構造的に大きく異なる言語で、同様の学習パターンが観察されるかを検証する必要があります。

理論的精緻化の必要性

技能学習理論自体も、より精緻化される必要があります。特に、個別の構文パターンがどのように組み合わさって複雑な言語表現を生成するかについて、より具体的なメカニズムの提案が必要です。

また、言語習得における個人差や、特定の言語障害(例:特異的言語障害)をこの枠組みでどう説明するかも重要な課題です。

結論:新しい視点がもたらす可能性

チェイターとクリスチャンセンの技能学習理論は、言語習得研究に新しい風を吹き込む刺激的な提案です。従来の抽象的・理論的なアプローチに対して、実用的・実践的なアプローチを提示し、豊富な実証的証拠によって支持されています。

しかし、この理論にも限界と課題があります。言語の創造性や階層構造、言語系統差などの現象を十分に説明できているとは言えません。また、実証研究の解釈についても、より慎重な検討が必要です。

それでも、この理論が提起する基本的な問いは重要です。言語習得を特殊な能力ではなく、一般的な認知能力の発現として理解する視点は、言語科学全体に大きな影響を与える可能性があります。今後の研究により、この理論がどこまで妥当性を持つかが明らかになるでしょう。

言語習得の謎は、まだ完全には解明されていません。しかし、技能学習という新しいレンズを通して見ることで、これまでとは異なる側面が見えてくることは確かです。この議論が、言語科学の発展と、より効果的な言語教育の実現に貢献することを期待します。


Chater, N., & Christiansen, M. H. (2018). Language acquisition as skill learning. Current Opinion in Behavioral Sciences, 21, 205-208. https://doi.org/10.1016/j.cobeha.2018.04.001

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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