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エジンバラ大学のベン・ウィリアムソンによる論文”The Social Life of AI in Education”(教育におけるAIの社会的生活)は、教育分野におけるAI技術の導入と普及を、単なる技術的進歩として捉えるのではなく、複雑な社会的、歴史的、経済的、政治的要因が絡み合った現象として分析した重要な研究です。本稿では、この論文の論点を詳しく検討し、その意義と課題について批評的に考察します。

筆者の背景と研究の位置づけ

ベン・ウィリアムソンは、エジンバラ大学デジタル教育研究センターの上級講師として、教育技術の社会学的分析を専門とする研究者です。彼は長年にわたって教育分野におけるデジタル技術の普及とその社会的影響について研究を重ねており、特に教育政策と技術の関係性について批判的な視点から分析を行ってきました。

この論文は、2024年にInternational Journal of Artificial Intelligence in Educationに掲載されたコメンタリーであり、AI教育研究の主流的な技術中心的アプローチに対する反省的な視点を提示しています。論文の執筆背景には、Times Higher Education誌が展開したAI教育特集への批判的な応答があり、AI技術が教育を必然的に改善するという広く受け入れられている仮定に疑問を投げかけています。

技術万能主義への根本的な疑問

ウィリアムソンの論考の出発点は、現代の教育界で広く受け入れられているAI技術への楽観的な期待に対する根本的な疑問です。彼は、メレディス・ブルーサードが提唱した「技術偏重主義(technochauvinism)」という概念を援用し、デジタル技術やAIが常に問題の解決策になるという誤った前提を批判しています。

この批判は極めて重要な指摘です。教育分野では、新しい技術が導入されるたびに、それが学習効果を劇的に向上させるという期待が繰り返し表明されてきました。しかし、実際には多くの教育技術が期待されたような変革的効果をもたらしていないという現実があります。ウィリアムソンは、AI技術についても同様の慎重な検討が必要だと主張しており、これは技術導入に際しての冷静な判断を促す重要な視点といえます。

特に注目すべきは、彼がAI教育技術の証拠基盤の薄さを指摘していることです。現在話題となっている自然言語生成技術についても、教育における変革的効果を謳う声がある一方で、偏見の再生産や誤情報の生成、社会的弱者への不平等な影響といった深刻な問題を抱えていることを明確に述べています。これらの指摘は、技術導入における慎重な評価の必要性を強く示唆しています。

社会的・歴史的文脈の重要性

ウィリアムソンの最も重要な貢献の一つは、AI教育を社会的・歴史的文脈の中で理解することの重要性を強調した点です。彼は、レベッカ・アイノンとの共同研究を引用しながら、現在のAI教育への関心が、学術分野でのAIED(AI in Education)研究の数十年にわたる蓄積、商業的なAI教育利用への関心の高まり、そして政治的な「デジタル変革」への熱意という複数の要因の収束によって生まれたものだと分析しています。

この分析は、AI技術を単独で存在する中立的な道具として見るのではなく、特定の社会的・歴史的条件の下で形成され、発展してきた複雑な現象として捉える重要性を示しています。実際に、AI技術の発展は、統計学、アルゴリズム設計、データ保存技術、コンピューティング能力の向上、機械学習や深層学習といった新しい自動データ科学発見手法の歴史的蓄積の結果であり、これらは全て特定の社会的文脈の中で人間によって行われた活動の産物です。

さらに重要なのは、ウィリアムソンが「AI」という用語そのものの曖昧性と政治性を指摘していることです。ジョージタウン大学法学部のプライバシー・技術センターの事例を引用し、「AI」という包括的な用語が、実際にはシステムを機能させる社会的、技術的、経済的、政治的要因を曖昧にしてしまう危険性について警告しています。これは学術的な議論においても実践的な政策決定においても極めて重要な指摘です。

経済的要因の詳細な分析

論文の特筆すべき点の一つは、AI教育の経済的側面に関する詳細で具体的な分析です。ウィリアムソンは、教育技術(EdTech)産業が現在数十億ドル規模のグローバル産業となり、民間のベンチャーキャピタル投資家によって支えられていることを明らかにしています。

彼の分析によると、AI教育の商業的発展は「プラットフォーム化」と「データ化」というビジネスモデルに基づいています。従来のソフトウェア販売という短期的なビジネスモデルに代わり、教育技術企業は継続的な収入を得るための購読ベースのオンラインサービスを提供しようとしています。このプロセスで企業は大量のデータを収集し、それらを活用してAIアップグレードなどの新しいデータ駆動型サービスを開発し、顧客から追加料金を徴収するという仕組みを構築しています。

この分析は、AI教育技術の発展が純粋に教育的な目的によって推進されているわけではなく、明確な商業的動機に基づいていることを示す重要な指摘です。特に興味深いのは、Google、Microsoft、Amazonといった巨大技術企業の役割に関する分析です。これらの企業は「ハイパースケーラー」として教育分野に参入し、自社のクラウドやAIインフラを教育機関の日常的な業務に導入することで、将来的な収益源としての独占的地位の確立を目指しているとウィリアムソンは分析しています。

Amazonの事例は特に示唆的です。同社は直接的には教育サービスを提供していませんが、Amazon Web Servicesを通じて教育技術業界全体にクラウドコンピューティングサービスを提供することで、AI教育の発展と展開に対して巨大な影響力を持つようになっています。この構造は、教育技術スタートアップ企業の多くがAmazonのインフラに依存しており、結果的に同社がAI教育産業全体の方向性を左右する立場にあることを意味しています。

政治的次元の複雑性

ウィリアムソンは、AI教育の政治的側面についても鋭い分析を提示しています。彼は、学術的なAIED研究者にとってAIが学習への知見を得るための方法論である一方、産業界にとっては利益を得る機会であり、これらは全く異なるものであって、異なる結果や含意をもたらす可能性があることを指摘しています。

特に重要なのは、AI技術が政策立案者によって潜在的に有害な方法で取り上げられるリスクについての議論です。AI技術が学習や成果を向上させることができるという約束は政策的な観点から非常に魅力的ですが、教育政策は既存の政治的仮定や優先事項によって形成されているため、これらの技術が本来意図されていない目的に利用される危険性があります。

ウィリアムソンは、1980年代以降の多くの国や地域で教育政策が市場化、民営化、成果主義的説明責任といったプロセスによって特徴づけられてきたことを指摘し、AI技術がこれらの既存の政治的枠組みの中で解釈され、活用される可能性について警告しています。実際に、AI技術は説明責任測定のプロセスを加速し、予測分析に基づく「実行可能な」知見を自動的に生成することで成果向上への循環を完成させるものとして政策当局の関心を集めています。

しかし、これらの動きには重大なリスクが伴います。人間の判断に代わって自動化された意思決定が教育に関する政治的選択を行う可能性や、質の低いデータが学校、職員、学生に影響を与える重要な決定に使用される危険性があります。さらに、学術研究センターや商業的教育技術企業によって生成されるAI教育の可能性に関する誇大宣伝を政治的行為者が買い込み、意図された直接的効果(測定可能な学習向上)の証拠や意図しない副作用の予防的検討なしに学校での広範な展開を求める可能性もあります。

倫理的・法的・規制的課題の現実

論文の後半では、AI教育技術が実際の文脈や実践に導入される際に生じる倫理的、法的、規制的問題について詳細に検討されています。ウィリアムソンは、ルチ・パングラツィオとジュリアン・セフトン・グリーンの研究を引用し、教育におけるデータ化プロセスが、異なる社会的、文化的、政治的文脈の中で局所的に組み込まれ、経験されることを強調しています。

特に深刻な問題として挙げられているのは、リモート試験監視ソフトウェアの事例です。これらの多くは自動顔認識技術に基づいており、既に社会的に最も疎外されたグループの学生を「疑わしい」として不平等に「フラグ」する傾向があることが複数の報告で指摘されています。顔認識AI技術は、特定の社会的、経済的、政治的に位置づけられたコミュニティ内で既存の構造的差別、不平等、排除のパターンを悪化させる可能性があります。

この問題は技術的な改善だけでは解決できない構造的な課題を示しています。AI技術は中立的な道具ではなく、それを開発し、実装し、使用する人々の価値観や偏見を反映する可能性があります。したがって、技術的な精度の向上だけでなく、社会的公正と包摂性を確保するための包括的なアプローチが必要です。

ウィリアムソンは、多くの文脈でAI教育が倫理的で必要な法的・規制的制約に従うように確保するための試みが行われていることを認めながらも、これらの取り組みの実効性について懐疑的な見方を示しています。倫理フレームワークから国家レベルや地域レベルのガバナンスや権利ベースの規制提案まで様々な手段が提案されているものの、これらを実施することの困難さや、データ倫理、権利、規制が依然として大きく争われ、不均等に実施され、政治的・商業的挑戦にさらされる可能性が高いことを指摘しています。

教育現場における権力の非対称性

論文で特に注目すべき点の一つは、教育におけるAI技術の実装における権力の非対称性に関する分析です。ウィリアムソンは、デジタル・フューチャーズ・コミッション(Digital Futures Commission)の調査を引用し、倫理的・規制的遵守を確保する負担が学校に課される一方で、教育技術企業や巨大技術企業は、データ保護規制の遵守に失敗しても影響を受けないという状況を明らかにしています。

この構造は深刻な問題を示しています。教育技術企業は、しばしば教育的利益の弱い証拠でAI製品を市場に出すことができる一方、学校はデータ保護とプライバシーのデューディリジェンスを維持する負担を負うことが期待されています。これは明らかに不公平な状況であり、教育機関の資源と専門知識の制約を考えると、効果的な監督と規制の実施を困難にしています。

この問題は、AI教育技術の発展における市場の失敗を示していると同時に、適切な規制フレームワークの必要性を強調しています。技術企業が自己規制に委ねられ、学校や教育機関が規制遵守の主要な責任を負うという現在の状況は持続可能ではなく、より包括的で効果的な規制アプローチが必要です。

AI教育研究への抵抗と批判的検討

論文の最終部分で、ウィリアムソンはダン・マクキランの著書「Resisting AI(AIへの抵抗)」を引用し、AI教育に対するより批判的で抵抗的なアプローチの必要性について論じています。マクキランの重要な指摘は、AIの実際について考える際に、コードの計算を適用の社会的文脈から分離することができないということです。

この観点から、ウィリアムソンは現代のAI技術の多くの応用が既存の不平等と不正義を増幅し、社会的分裂と不安定性を深めているというマクキランの懸念を共有しています。教育分野においても、AI技術が既存の教育不平等を悪化させたり、新たな形の排除や差別を生み出したりする可能性について真剣に検討する必要があります。

この批判的視点は、AI教育技術の潜在的リスクを予測し、それらに積極的に抵抗することの重要性を強調しています。ウィリアムソンが指摘するように、新しい技術の下流リスクを予測することは困難ですが、教育専門家はAIや関連技術の長い歴史を考慮し、その効果が支持者が主張するような単純に有益で理想化された方法で展開されることは稀であったという事実を認識することができます。

学際的協力の必要性

ウィリアムソンは、AIED分野の生産的な発展のためには、アプリケーション開発者と社会科学・歴史学からのより批判的な声の間のより深い関与が必要であると提案しています。前者は貴重な教育的、設計的、技術的専門知識をもたらし、後者は技術の複雑で予期しない社会的効果を理解する専門知識をもたらします。

この提案は非常に重要です。現在のAI教育研究は、技術的な観点からのアプローチが支配的であり、社会科学的、人文学的な視点からの批判的検討が不十分です。しかし、教育は本質的に社会的な営みであり、技術の導入は必然的に複雑な社会的、文化的、政治的影響を伴います。したがって、技術的専門知識と社会科学的専門知識を統合したより包括的なアプローチが不可欠です。

このような学際的協力は、AI教育技術の設計段階から実装、評価に至るまで、すべてのプロセスに組み込まれる必要があります。技術開発者が社会的文脈とその技術の潜在的影響を理解し、社会科学者が技術の可能性と限界を理解することで、より効果的で公正なAI教育技術の開発が可能になるでしょう。

批評と今後の課題

ウィリアムソンの論考は、AI教育分野における重要で必要な批判的視点を提供していますが、いくつかの限界と課題も指摘できます。

まず、論文は主に批判的な分析に焦点を当てており、建設的な代替案や具体的な改善策の提示が限定的です。AI教育技術の問題点を詳細に分析することは重要ですが、同時にこれらの課題にどのように対処すべきかについてのより具体的な提案も必要でしょう。

次に、論文の分析は主に西欧、特に英語圏の文脈に基づいています。AI教育の社会的生活は地域や文化によって大きく異なる可能性があり、より多様な文脈からの視点を取り入れることで、分析の普遍性と特殊性をより明確にすることができるでしょう。

また、論文はAI教育技術の否定的な側面に重点を置いていますが、適切に設計され実装された場合のAI技術の潜在的な教育的利益についても、より均衡の取れた検討が望ましいかもしれません。批判的視点は重要ですが、技術の可能性を完全に否定するのではなく、その適切な活用方法を模索することも同様に重要です。

さらに、論文で提起された問題に対処するための具体的な政策提言やガバナンスメカニズムについて、より詳細な議論が必要でしょう。規制の必要性は明確に示されていますが、実際にどのような規制フレームワークが効果的であるかについては、さらなる検討が必要です。

教育実践への含意

この論文の分析は、教育実践者、政策立案者、研究者にとって重要な含意を持っています。

教育実践者にとっては、AI技術の導入に際してより慎重で批判的な評価を行う必要性が示されています。技術の宣伝文句や期待される効果に惑わされることなく、実際の教育的価値と潜在的リスクを慎重に評価し、学習者の最善の利益を最優先に考慮することが求められます。

政策立案者にとっては、AI教育技術の規制とガバナンスにおいて、より包括的で効果的なアプローチを開発する必要性が強調されています。企業の自己規制に依存するのではなく、公的利益を保護するための強力な規制フレームワークの構築が不可欠です。

研究者にとっては、AI教育研究において社会科学的、人文学的視点を統合することの重要性が示されています。技術的な効率性や性能だけでなく、社会的公正、平等、包摂性といった価値も考慮した研究アプローチが必要です。

結論:技術と社会の相互作用への深い理解

ウィリアムソンの「The Social Life of AI in Education」は、AI教育技術を社会的、歴史的、経済的、政治的文脈の中で理解することの重要性を説得力を持って論証した優れた研究です。この論考は、技術決定論的な思考から脱却し、AI技術が社会的に構築され、特定の利益や価値観を反映するものであることを明確に示しています。

論文の最大の貢献は、AI教育分野における「技術偏重主義」への批判と、技術の社会的生活に対する注意深い分析です。AI技術は中立的な道具ではなく、その開発、普及、実装は特定の経済的利益、政治的目標、社会的価値観によって推進されているという認識は、この分野の研究と実践において極めて重要です。

また、論文が明らかにした教育技術産業の経済構造と権力関係、政策立案における政治的考慮、そして実際の教育現場における倫理的・法的課題の分析は、AI教育技術の複雑性と多面性を浮き彫りにしています。これらの知見は、より公正で効果的なAI教育技術の発展に向けた重要な基盤を提供しています。

今後のAI教育研究と実践においては、ウィリアムソンが提起した批判的視点を踏まえつつ、技術の潜在的利益と社会的責任のバランスを取った取り組みが求められるでしょう。技術の進歩を否定するのではなく、その社会的影響を十分に理解し、すべての学習者にとって公正で包摂的な教育環境の実現を目指すことが重要です。


Williamson, B. (2024). The social life of AI in education. International Journal of Artificial Intelligence in Education, 34, 97–104. https://doi.org/10.1007/s40593-023-00342-5

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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