小さな国の大きな言語的多様性
ヨーロッパの中心に位置する小国ルクセンブルクは、人口約60万人ながら、公用語が3つ(ルクセンブルク語、ドイツ語、フランス語)あり、実際にはさらに多くの言語が日常的に話されています。2016年から2017年の学年度には、4歳から6歳の子どもの64%が、ルクセンブルク語以外の言語を家庭の第一言語としていました。このような環境で、Claudine KirschとSimone Mortiniは、3歳児がどのように複数の言語を使いこなし、大人の言語使用パターンを創造的に再現していくかを1年間にわたって観察しました。
Kirschはルクセンブルク大学の准教授で、多言語教育と早期幼児教育を専門としています。一方、Mortiniは国立青少年サービスで働く研究者で、この論文”Engaging in and creatively reproducing translanguaging practices with peers: A longitudinal study with three-year-olds in Luxembourg”は彼女の博士研究の一部です。2人の研究は「早期幼児教育における多言語教育法の開発(MuLiPEC)」という大規模プロジェクトの中で行われました。このプロジェクトは、保育者や教師に多言語教育の研修を提供し、その影響を調べるものでした。
研究の舞台―2つの異なる保育環境
この研究が興味深いのは、2つの異なるタイプの施設を比較している点です。1つ目は早期教育クラス(précoce)で、公立学校の就学前教育の一環として提供されています。ここでは教師資格を持つMs Claraと保育士のMs Janeが、11人の3歳児を担当していました。子どもたちの多くはポルトガル語やカーボベルデ・クレオール語を家庭で話していました。
2つ目はデイケアセンターで、主に中流家庭の子どもたち21人が通っていました。ここでは保育士のMr KenとMr Tedが子どもたちを見ていました。子どもたちは合わせて11の異なる言語を話していました。
重要なのは、ルクセンブルクの早期教育は正規の教育セクターに属し、国のカリキュラムに従う必要がある一方、デイケアセンターは非正規セクターで、言語使用についてより自由度が高かったという点です。両施設の保育者は研修を受けており、子どもたちがルクセンブルク語以外の家庭言語を使うことを奨励していましたが、その実践方法には大きな違いがありました。
トランスランゲージングとは何か
この研究の核心にあるのが「トランスランゲージング」という概念です。聞き慣れない言葉かもしれませんが、簡単に言えば、話し手が持っているすべての言語資源を戦略的に組み合わせてコミュニケーションすることです。
たとえば、日本で暮らす外国人の子どもが、日本語と母語を混ぜながら友達と遊ぶ様子を想像してみましょう。従来の言語教育では「日本語の時間は日本語だけ」と厳格に分けることが多かったのですが、トランスランゲージングの考え方では、子どもが持っているすべての言語能力を活用することで、より豊かな学びと表現が可能になると考えます。
2人の子どもの物語
研究チームは特に2人の子どもに注目しました。1人目はLanaという女の子で、早期教育クラスに通っていました。研究開始時、彼女は3歳4か月で、家ではカーボベルデ・クレオール語を話し、父親からはフランス語も聞いていたようです。入学当初、Lanaは主にカーボベルデ・クレオール語とポルトガル語で話していましたが、次第にルクセンブルク語も使い始めました。
2人目はGaspardという男の子で、デイケアセンターに通っていました。研究開始時は2歳5か月で、家ではフランス語、デイケアセンターではルクセンブルク語に触れていました。
驚くべき発見―保育者の教え方が子どもの言語使用を形作る
研究者たちが128本のビデオ(合計18時間)を詳細に分析した結果、驚くべきことが分かりました。子どもたちの言語使用や積極性は、保育者の教育方法に大きく影響されていたのです。
早期教育クラスのMs ClaraとMs Janeは、子ども中心のアプローチを取っていました。たとえば、絵本の読み聞かせの場面では、Ms Janeが子どもたちに開かれた質問を投げかけ、子どもたちが自分の言語で自由に答えることを奨励していました。ある日、動物の絵本を読んでいた時、子どもたちは自然に複数の言語を使い始めました。
「これは何?」とMs Janeがルクセンブルク語で尋ねると、Silvianoがポルトガル語で「巨大なニンジン」と答えました。Lanaは「セノーラ(ニンジン)」と繰り返し、Ms Janeはルクセンブルク語で「Wuerzel(ニンジン)」と言いました。Angelaが「これは卵」とポルトガル語で言うと、Silvianoが「イースターエッグ」と付け加え、Ms Janeがルクセンブルク語で確認しました。次のページで魚の絵が出てくると、Fredがポルトガル語で「Peixe」、Asimaがフランス語で「Poisson」と答え、Lanaが大きな声で「Poisson!」と繰り返しました。
この場面から分かるのは、Ms Janeが子どもたちの様々な言語使用を認め、うなずいたり、褒めたりすることで価値を認めていたことです。また、翻訳も効果的に使っていました。子どもたちが知らないであろう表現(「イースターエッグ」など)は翻訳しましたが、すでに複数の言語で出てきた単語(「魚」など)は翻訳しませんでした。
一方、デイケアセンターのMr Tedは、より大人中心のアプローチでした。ある日、Mr Tedが作り話をしながら子どもたちに質問していく場面がありました。「これは何?」「草原です」「大きな牛?小さな牛?」「大きい」「こんなに大きい?」(子どもたちがうなずく)「牛はどんな鳴き声?」「モー」。この一連のやり取りは、ほとんどが閉じた質問(はい/いいえや一語で答えられる質問)で、子どもたちの答えも短く、深い会話にはなりませんでした。
さらに興味深いのは、Mr Tedが時々フランス語に切り替えるものの、その理由が明確でなかったことです。また、子どもが間違えても訂正しないことが多く、たとえばGaspardが数を間違えて数えた時も、そのまま次の子どもに移ってしまいました。
子どもたちの創造的な再現―仲間との遊びで見せる驚きの能力
しかし、この研究の最も興味深い発見は、子どもたちが大人の言語使用パターンや教え方を、仲間との遊びの中で創造的に再現していたことです。これは教育学者Corsaroが提唱した「解釈的再生産」という概念に基づいています。つまり、子どもたちは大人の行動をそのまま真似するのではなく、自分なりに解釈し、変形させて使っているのです。
Lanaの例を見てみましょう。Ms Janeが絵本を読んでいた時、寒い場面で「Brr、寒い」と言いながら、両腕で体を抱きしめる仕草をしました。子どもたちも同じ仕草を真似しました。後日、Lanaと友達のAsimaが自由遊びの時間に絵本を読んでいると、Lanaが同じ仕草をしながら「’s kal(寒い)」とルクセンブルク語で言いました。さらに興味深いことに、その前に氷で絵を描いていた時、Lanaは「Está frio(寒い)」とカーボベルデ・クレオール語で言っていたのです。つまり、Lanaは先生の表現を単に繰り返すだけでなく、自分の言語に翻訳して使っていたのです。
別の例では、Lanaと友達が朝の挨拶の歌を変形させていました。毎朝、クラスでは「おはよう〔名前〕。あなたはここにいる? 私はここにいます。おはよう〔名前〕」という歌を歌っていました。自由遊びの時間に、Angelaが絵本の牛の絵を見ながら、この歌の中に「vaca(牛)」というポルトガル語を入れて歌い始めました。数か月後、Lanaも同じ歌に「赤ちゃん」というカーボベルデ・クレオール語や「ワニ」というフランス語を入れて歌っていました。
デイケアセンターのGaspardの例も興味深いものでした。Mr Tedがオオカミの絵本を読んだ後、GaspardとJeannetteとFrancisが自分たちで絵本を読み始めました。Jeannetteが「先生」役になって、Mr Tedと全く同じように絵本を持ち上げ、絵を指さして「これは何?」と質問しました。Gaspardが答えると、Jeannetteは「いいね、すごい」と褒めました。面白いことに、Gaspardはオオカミを「Mëllef」という造語で呼んでいました(正しくは「Wollef」)。2人は何度も同じパターンを繰り返し、Mr Tedが近くで「オオカミが正しい」と訂正したにもかかわらず、Gaspardは「Mëllef」という言葉を使い続けました。これは単なる間違いではなく、子どもたちが言葉遊びを楽しんでいたようです。
重要なのは、この「ごっこ遊び」が、Mr Tedの教え方のパターンをそのまま反映していたことです。閉じた質問、短い答え、褒め言葉、しかし訂正フィードバックはなし。子どもたちは大人の教え方の特徴を鋭く観察し、それを仲間との遊びで再現していたのです。
日本の教育現場への示唆
この研究は、日本の保育・教育現場にも重要な示唆を与えます。近年、日本でも外国にルーツを持つ子どもたちが増えており、多言語環境の保育園や幼稚園も珍しくありません。しかし、多くの現場では「日本語を早く覚えさせなければ」という焦りから、子どもの母語を抑制してしまうことがあります。
この研究が示すのは、子どもたちに複数の言語を自由に使わせることの重要性です。Ms ClaraとMs Janeのアプローチは、子どもたちの母語を価値あるものとして認め、それを学びのツールとして活用していました。その結果、子どもたちは積極的に参加し、長い文章で話し、お互いの発言に反応し合うようになりました。
一方、Mr TedとMr Kenのアプローチは、主にルクセンブルク語を使い、簡単な質問と短い答えのパターンに終始していました。その結果、子どもたちの発話も短く、深い会話にはなりませんでした。
日本の英語教育においても、同様の問題が見られます。教師が一方的に質問し、生徒が短く答えるパターンが繰り返され、本当の意味でのコミュニケーションが育ちにくいのです。この研究は、開かれた質問を使い、子どもたちの発言を拡張し、お互いの発言に基づいて会話を発展させることの重要性を示しています。
関連研究との対比
類似の研究として、アメリカのErdemirとBrutt-Grifflerの研究(2020)があります。彼らはトルコ人の男の子が、英語を母語とする仲間から語彙を学ぶ様子を観察しました。興味深いことに、その「専門家」である仲間たちは、先生の教え方を再現していました。物に名前を付け、単語の意味を示し、表現を訂正し、イントネーションや非言語的手がかりを使って単語を目立たせていたのです。
KirschとMortiniの研究は、さらに一歩進んで、複数の言語環境における創造的な再現を示しています。子どもたちは単に大人の行動を真似るだけでなく、それを自分の言語に翻訳したり、変形させたりしていました。これは、子どもたちが単なる受動的な学習者ではなく、能動的な言語使用者であり、自分の学びの環境を形作る主体であることを示しています。
また、スウェーデンのBoyd、Huss、Ottesjö(2017)やAxelrod(2017)の研究も、就学前の子どもたちが言葉遊びをし、表現を操作し、変形させることを示していますが、KirschとMortiniの研究は、より年少の2歳から3歳の子どもでもこうした能力があることを示した点で貴重です。
教育者への実践的提言
この研究から得られる実践的な教訓は明確です。第一に、保育者や教師は自分の言語使用と教え方を意識的に振り返る必要があります。子どもたちは驚くほど鋭く大人を観察しており、良い面も悪い面も吸収してしまいます。
第二に、子ども中心のアプローチを取ることが重要です。開かれた質問を使い、子どもたちの発言を拡張し、お互いの発言に基づいて会話を発展させる。Ms Janeのように、子どもたちが自分の経験や考えを共有する空間を作ることが大切です。
第三に、複数の言語を柔軟に使うことを奨励すべきです。ただし、KirschとSeeleが別の論文で指摘しているように、「反応的」に言語を切り替えることが重要です。つまり、子どもたちの理解度やニーズを常に観察し、本当に必要な時にだけ言語を切り替えるのです。無計画に言語を切り替えると、子どもたちを混乱させる可能性があります。
第四に、言語支援戦略を意識的に使うことです。繰り返し、拡張、訂正フィードバック、質問、賞賛など、様々な戦略を状況に応じて使い分けることで、子どもたちの言語発達を効果的に支援できます。
研究の限界と今後の課題
この研究にも限界があります。まず、対象となったのは2人の子どもだけであり、一般化には慎重でなければなりません。また、観察期間は1年間でしたが、より長期的な追跡調査があれば、子どもたちの言語発達の軌跡をより深く理解できるでしょう。
さらに、この研究は主に保育現場での観察に基づいており、家庭での言語使用については限られた情報しかありません。今後の研究では、家庭と保育現場の両方を含めた包括的な調査が望まれます。また、保護者や保育者へのインタビューを通じて、彼らの言語に対する考え方や意図をより深く探ることも重要でしょう。
むすび―子どもたちの言語的エージェンシー
この研究が最も強調するのは、子どもたちの「言語的エージェンシー」、つまり自分の言語使用について主体的に決定し、行動する能力です。3歳という幼い年齢でも、子どもたちはどの言語を使うかを意識的に選択し、大人の言語パターンを観察し、それを創造的に変形させて仲間との遊びに取り入れています。
従来の言語教育では、子どもを空の容器のように見なし、そこに知識を注ぎ込むという発想がありました。しかし、この研究が示すのは、子どもたちが能動的な学習者であり、自分の学びの環境を形作る主体であるということです。
ルクセンブルクという多言語社会の例は、日本の将来を考える上でも示唆に富んでいます。グローバル化が進む中、日本でも多言語環境はますます一般的になるでしょう。その時、子どもたちの持つすべての言語資源を価値あるものとして認め、それを学びのツールとして活用する教育が求められます。
KirschとMortiniの研究は、そのような教育の可能性を具体的に示してくれています。保育者や教師が子ども中心のアプローチを取り、複数の言語を柔軟に使い、効果的な言語支援戦略を用いることで、子どもたちは驚くべき言語能力を発揮します。そして、その学びは大人との対話だけでなく、仲間との遊びの中でも継続されるのです。
この小さな国の小さな保育室での観察は、言語教育の本質について大きな問いを投げかけています。それは、私たちが子どもたちの能力を信じ、彼らに主体性を与える勇気を持てるかどうかという問いです。
Kirsch, C., & Mortini, S. (2023). Engaging in and creatively reproducing translanguaging practices with peers: A longitudinal study with three-year-olds in Luxembourg. International Journal of Bilingual Education and Bilingualism, 26(8), 943–959. https://doi.org/10.1080/13670050.2021.1999387
