研究の舞台と著者の背景
香港大学教育学部のKevin W. H. Taiによるこの研究”Documenting students’ conceptual understanding of second language vocabulary knowledge: A translanguaging analysis of classroom interactions in a primary English as a second language classroom for linguistically and culturally diverse students”は、香港の小学校という、まさに言語と文化が交差する現場で行われました。Taiは包括的教育とトランスランゲージング(複数の言語を行き来する実践)の専門家として知られ、特に多様な背景を持つ子どもたちの学びに関心を寄せています。この論文が発表された2023年は、コロナ禍の影響がまだ色濃く残る時期であり、教室でのマスク着用が当たり前だった頃です。そうした制約の中で、教師と子どもたちがどのように工夫して言葉の意味を伝え合ったのか、その様子が生き生きと描かれています。
研究の舞台となったのは、香港の村落地域にある小学校です。この学校は他の都市部の学校とは大きく異なり、生徒の半数が南アジア系などの少数民族、残り半数が香港の中国系という構成でした。教室には、ネパール、パキスタン、インド、アフリカ出身の子どもたちと、地元香港の子どもたちが一緒に学んでいます。7歳から8歳の小学2年生、26名のクラスです。このような多様性に富んだ環境は、言語教育を考える上で非常に興味深い場といえます。
「正しい英語だけ」という建前と、実際の教室の現実
この研究が浮き彫りにする最初の重要なテーマは、学校の言語政策と教室の実態とのギャップです。香港の多くの学校と同様、この学校も「英語の授業では英語のみを使う」という方針を掲げていました。英語科の主任教員は、教師たちに英語だけで授業を行うよう求めていたのです。
しかし、実際の教室ではどうでしょうか。参加した教師は中国系インドネシア人で、インドネシア語を母語とし、英語、北京語、広東語も話します。一方、生徒たちの言語背景はさらに多様です。南アジア系の子どもたちの多くは、家庭で自分たちのコミュニティの言語を話し、街では広東語を耳にし、学校では英語で学んでいます。地元香港の子どもたちにとっても、英語は母語ではなく、学習すべき外国語です。
このような状況で「英語のみ」という原則を厳格に守ることは、果たして子どもたちの学びにとって最善なのでしょうか。この問いが、研究全体を貫く糸となっています。
言葉だけでは伝えきれないもの―身体と声が語る理解
Taiの研究は、約3か月にわたって教室の様子をビデオで記録し、さらに教師へのインタビューを組み合わせることで、子どもたちがどのように英語の語彙の意味を理解し、それを表現しているのかを丁寧に追いかけました。
最初の事例では、「Chinese」と「Japanese」という言葉の意味を学ぶ場面が取り上げられています。絵本を読み終えた後、教師が子どもたちに「Chineseってどういう意味?」と尋ねます。すると、何人かの生徒が「中文!」と広東語で答えました。これは「中国語」という意味です。教師は、この広東語での応答を一旦受け入れた上で、「それは言語の名前だね」と英語で補足し、さらに「でも、この人は中国から来た人、という意味もあるよ」と、もう一つの意味(国籍を表す)を教えました。
この場面は、一見単純に見えますが、実は複雑な判断が働いています。学校の方針は「英語のみ」ですが、教師は生徒が広東語を使って答えることを許しました。なぜでしょうか。後のインタビューで教師は、「この言葉の意味は、まさに国や言語に関係するものだから、生徒が自分の知っている言語で答えるのは理にかなっている」と説明しています。ただし、教師は生徒の広東語での答えを英語に翻訳し直すことで、英語学習の目的も損なわないよう配慮しました。
教師の葛藤も浮かび上がります。彼女は「生徒が理解しているなら、その理解を表現する手段を制限すべきではない」と考える一方で、「学校の方針に反しているのではないか」「本物の英語の授業と言えないのではないか」という不安も抱いています。この正直な吐露は、現場の教師たちが日々直面する悩みを代弁しているようです。
身体が語る「跳ぶ」と「飛び跳ねる」の違い
二つ目の事例は、さらに印象的です。教師は動作を表す動詞に「-ing」をつけると進行形になることを教えていました。画面には「hopping(片足でぴょんぴょん跳ねる)」と「jumping(両足で跳ぶ)」という言葉が、それぞれアニメーションと共に表示されています。
教師が「hoppingとjumpingの違いは何?」と尋ねると、ある生徒は言葉で説明する代わりに、自分の席で軽くぴょんと跳ねてみせました。「hop is… like…(ホップはね…こんな感じ…)」と言いながら、実際にその動作をしたのです。教師がもう一度全員に見せるよう促すと、二人の生徒が同時に跳ねて「hopping」を実演しました。
次に「じゃあjumpingは?」と聞かれると、同じ生徒たちが今度は両足で力強く跳び上がりました。言葉での説明は最小限で、身体が主役です。子どもたちは、画面に表示されたアニメーションを真似るのではなく、自分なりのやり方で動作を再現しました。これこそが、Taiが「トランスランゲージング」と呼ぶ実践の一つの形です。つまり、言葉だけでなく、身振り、動き、視覚的な情報など、利用できるあらゆる資源を使って意味を作り出し、伝えているのです。
興味深いのは、教師も子どもたちの動きを取り入れて、授業の最後に自分でも跳ねてみせたことです。「hoppingは体がもっと低いのよ」と言いながら、膝を曲げて跳ねる様子を実演しました。これは、子どもたちの理解を全体で共有し、確認するための行為です。
後のインタビューで教師は、「動作を表す言葉を学んでいるときに、実際にその動作をすることは完璧に理にかなっている」と語っています。彼女はまた、「じっと座って理解を示さないよりも、動いて表現する方がずっといい」と、子どもたちの活発な参加を肯定的に捉えていました。さらに、「この子たちは身体を使って学ぶタイプの学習者(キネステティック学習者)だと思う」と観察しています。一人ひとりの学習スタイルの違いを認識し、それに応じた指導を心がけているのです。
マスク越しに伝える感情―声のトーンが担う役割
三つ目の事例は、コロナ禍という時代背景が色濃く表れています。教師は感情を表す形容詞を教えようとしていました。「angry(怒っている)」「scared(怖がっている)」「excited(興奮している)」といった言葉です。通常なら、顔の表情を見せながら教えるところですが、マスクをしているため顔が見えません。
そこで教師は、声のトーンを最大限に活用しました。「I’m ANGRY!」と言うときは、低い声で、音を伸ばし、最後は下降調で力強く発音します。すると子どもたちも同じように、「AN:GR::Y!」と叫びました。まるで本当に怒っているかのような声です。
「I’m scared(怖いよ)」と教えるときは、教師は声を高く上げ、震えるような音質で、語尾を伸ばしました。子どもたちも金切り声で「scar::::::ed!」と真似します。本当に怖がっているかのような、あるいは怖さを演じているような声です。
「I’m excited(わくわくする)」では、教師は両手を頭の上に上げ、明るい高い声で「ex+ci:te:d!」と音節を強調しました。子どもたちも同じように声を張り上げ、中には興奮を表現するために叫び声のように発音する子もいました。
この一連のやり取りは、まるで演劇のリハーサルのようです。子どもたちは単に単語を繰り返しているのではなく、その言葉が表す感情を声に乗せて表現することで、意味を理解し、体現しているのです。
教師はインタビューで、「マスクのせいで顔の表情が見せられないのは困ったけれど、声だけでも十分に感情を伝えられることがわかった」と振り返っています。そして、「ビデオを見ると、子どもたちは声を通して感情を模倣し、理解していることがよくわかる」と述べています。理想を言えばマスクを外して表情も見せたかったが、パンデミックの状況では仕方ない、という現実的な判断も語られています。
子どもの理解を「見える化」する仕組み
Taiがこの研究で最も強調しているのは、トランスランゲージング―つまり、母語、身振り、声のトーンなど、あらゆる手段を使った意味のやり取り―が、子どもたちの頭の中にある理解を外に出して見えるようにする、という点です。
従来の語学教育の研究では、学習の成果を測るために、授業の前後でテストをして点数を比べる、という方法がよく使われます。これは「学習の結果」を測るには有効ですが、「学習の過程」、つまり子どもがどのように理解を深めていくのか、どこでつまずいているのか、といった動的な側面は見えにくいのです。
Taiのアプローチは違います。教室での何気ないやり取りの一つひとつを丁寧に記録し、分析することで、「今まさに理解しつつある」瞬間を捉えようとしています。生徒が広東語で「中文」と答えたとき、身体を使って跳ねてみせたとき、声を張り上げて感情を表現したとき、それぞれが理解の表れなのです。そして教師にとっては、それが「この子はここまで理解している」という診断情報になります。
例えば、「Chinese」の意味を広東語で答えた生徒たちは、その言葉が「言語の名前」を指すことは理解していましたが、「国籍」を表す用法についてはまだ理解が及んでいませんでした。これは、テストの正誤では見えにくい、途中段階の理解です。教師はこの情報をもとに、次に何を教えるべきか判断できます。
また、hoppingとjumpingの違いを身体で表現した生徒たちは、単に言葉を暗記しているのではなく、その動作の本質的な違いを理解していることを示しました。これもまた、筆記テストでは測りにくい、深い理解の証です。
二つの研究手法の組み合わせが明らかにしたもの
この研究の方法論的な特徴は、マルチモーダル会話分析と、教師へのインタビューを組み合わせた点にあります。
マルチモーダル会話分析というのは、会話を録画したビデオを何度も繰り返し見て、誰がいつ何を言ったか、どんな身振りをしたか、どんな表情だったか、間はどのくらいあったか、といった細部を一つひとつ書き起こし、分析する方法です。非常に時間のかかる作業ですが、人間のコミュニケーションの豊かさを捉えるには欠かせません。言葉だけでなく、視線、うなずき、手の動き、声のトーン、沈黙なども含めて、意味がどのように作られているかを理解できるのです。
一方、教師へのインタビューでは、録画した授業のビデオを一緒に見ながら、「このときあなたは何を考えていましたか?」「なぜこうしたのですか?」と尋ねる手法(ビデオ刺激想起インタビュー)が使われました。これによって、教室での行動の背後にある教師の意図、信念、葛藤が明らかになります。
例えば、生徒が広東語で答えたときに教師がそれを許したのは、単なる偶然ではなく、「この内容なら母語を使うのも理にかなっている」という判断があったからだとわかります。また、学校の方針との間で板挟みになっている苦悩も率直に語られました。これらの内情は、ビデオを見ているだけではわかりません。
二つの手法を組み合わせることで、Taiは教室という場の複雑さを多面的に描き出すことに成功しています。子どもたちが何をしているか(会話分析)、教師がなぜそうさせているか(インタビュー)、その両方が見えるのです。
言語政策と現場の教育実践のズレ
この研究が照らし出すもう一つの重要な問題は、学校や教育行政が掲げる言語政策と、実際の教室で起きていることとのズレです。
香港では、英語は重要な公用語であり、多くの学校が英語での教育に力を入れています。特に、英語を媒介として他の科目を教える学校(英語媒介教育校)では、「授業中は英語だけを使う」という方針が一般的です。これは、子どもたちに十分な英語のインプットを与え、英語力を高めるためという理由づけがあります。
しかし、この方針は、言語的に多様な子どもたちにとって、時に障壁となります。南アジア系の子どもたちは、家庭でウルドゥー語やネパール語を話し、地域社会では広東語を聞き、学校では英語で学ぶという、三つの言語環境を行き来しています。地元香港の子どもたちにとっても、英語は母語ではありません。そうした中で「英語だけ」を強制することは、子どもたちが持っている言語資源を否定することにもなりかねません。
研究に参加した教師は、この矛盾に敏感でした。彼女自身が多言語話者であり、トランスランゲージングという考え方に関心を持っていたからこそ、この研究に参加したのです。しかし同時に、学校の方針を無視することもできません。インタビューでは、「生徒が理解しているなら、どんな言語で表現してもいいと思う」と言いながらも、「でも学校の規則もあるし、これが本当の英語の授業と言えるのか不安にもなる」と揺れる気持ちを語っています。
この葛藤は、多くの教育現場で見られるものでしょう。政策は往々にして理想的で一律的ですが、現場は個別的で複雑です。教師たちは日々、その間で判断を迫られています。
多様な学習スタイルへの配慮
この研究が示すもう一つの重要な点は、子どもたちの学習スタイルの多様性です。
教師は、身体を使って学ぶことを好む子どもたち(キネステティック学習者)の存在を認識していました。hoppingとjumpingを実際に跳んでみせた子どもたちは、まさにこのタイプです。彼らにとっては、言葉の定義を聞くよりも、実際に動いてみる方が理解しやすいのです。
また、声のトーンや音量を変えて感情を表現することを楽しんだ子どもたちもいました。これは聴覚的な学習者の特徴かもしれません。
重要なのは、教師がこうした違いを認識し、柔軟に対応していたことです。通常なら「授業中は静かに座っていなさい」と言われそうな場面でも、この教師は「動作を学んでいるのだから、動いていいのよ」と許可しました。マスクで表情が見せられないという制約も、声を工夫するという別の方法で補いました。
これは、インクルーシブ教育(包括的教育)の理念にも通じます。一つのやり方を全員に強制するのではなく、多様な方法を認め、それぞれの子どもが自分に合った方法で学べるようにする。そうした柔軟性が、この教室には確かにありました。
日本の教育現場への示唆
この研究は香港の事例ですが、日本の教育現場にも多くの示唆を与えてくれます。
まず、日本でも外国にルーツを持つ子どもたちが増えています。文部科学省の調査によれば、日本語指導が必要な児童生徒は年々増加しており、その背景にある言語も多様化しています。そうした子どもたちが、日本語だけで授業を受けることの困難さは想像に難くありません。
この研究が示すのは、子どもたちが持っている母語や文化的背景を、欠点としてではなく、資源として捉える視点の重要性です。例えば、ある概念を理解するのに、一旦母語で考えることが助けになるなら、それを許可してもいいのではないでしょうか。大切なのは、最終的にその子が概念を理解し、必要に応じて日本語でも表現できるようになることです。
また、身体を使った学習の有効性も、日本の教室で応用できる点です。特に低学年では、動詞を学ぶときに実際にその動作をしてみる、感情を表す言葉を学ぶときに声や表情で表現してみる、といった活動は既に行われているかもしれません。この研究は、そうした活動が単なる「お遊び」ではなく、子どもたちの理解を深め、それを教師が確認する重要な手段であることを、学問的に裏付けているのです。
さらに、教師の専門的判断の重要性も浮かび上がります。研究に参加した教師は、学校の方針と子どもたちのニーズの間でバランスを取りながら、その場その場で最善と思われる判断をしていました。こうした実践的な知恵は、マニュアルには書けないものです。教師の裁量を尊重し、支援する体制が必要でしょう。
研究の限界と今後の課題
もちろん、この研究にも限界があります。
第一に、これは一つの教室、一人の教師、26人の生徒という、限られた事例の研究です。別の学校、別の教師、別の学年では、また違った様子が見られるかもしれません。したがって、この結果を一般化するには注意が必要です。
第二に、子どもたちの理解の全てが、教室での行動に表れるわけではありません。ある子は家に帰ってから理解することもあるでしょうし、内面では理解していても、それを外に表現するのが苦手な子もいるでしょう。この研究で捉えられているのは、「表現された理解」の一部にすぎません。
第三に、長期的な学習の成果については、この研究では追跡していません。トランスランゲージングを認める教室で学んだ子どもたちが、数年後にどのような英語力を持つようになるのか、それは今後の研究課題です。
Tai自身も、これらの限界を認識しています。彼は、この研究が「学習の過程」の一端を明らかにするものであり、「学習の結果」を評価する従来の研究を置き換えるものではないと述べています。両方のアプローチが必要なのです。
トランスランゲージングという考え方の意味
最後に、この研究の背景にある「トランスランゲージング」という考え方について、もう少し説明しておきましょう。
従来の言語教育では、言語を明確に区別することが重視されてきました。英語を学ぶときは英語だけ、日本語を学ぶときは日本語だけ、という具合です。これは、それぞれの言語を純粋に習得することが目標とされてきたからです。
しかし、トランスランゲージングの考え方では、人間の頭の中には言語が別々に存在しているのではなく、一つの統合されたコミュニケーションシステムがあると考えます。バイリンガルやマルチリンガルの人々は、状況に応じて、この統合されたシステムから必要な資源を引き出して使っているのです。その資源には、異なる言語の語彙や文法だけでなく、身振り、表情、声のトーン、視覚的なイメージなども含まれます。
この視点から見ると、子どもたちが広東語と英語を混ぜて使ったり、言葉と身振りを組み合わせたりするのは、混乱しているからではなく、利用できる全ての資源を動員して意味を作り出そうとしている、創造的な行為なのです。
教育の場でこの考え方を取り入れることは、子どもたちの持っている多様な資源を認め、活用することを意味します。それは決して、目標言語の学習をおろそかにすることではありません。むしろ、理解を深め、最終的にはより豊かな言語能力を育てるための、一つの道筋なのです。
結びに
Kevin W. H. Taiのこの研究は、香港の小さな教室での、ごく日常的な授業風景を丁寧に記録したものです。しかしその中には、言語とは何か、学ぶとはどういうことか、多様性をどう捉えるか、という大きな問いが詰まっています。
子どもたちが広東語で答え、身体で跳ね、声を張り上げる様子は、一見すると整然とした授業とは言えないかもしれません。しかし、そこには確かな学びがありました。そして、その学びを可能にしたのは、教師の柔軟さと、子どもたちを信じる姿勢でした。
グローバル化が進む現代、多様な背景を持つ子どもたちが同じ教室で学ぶことは、もはや特殊な状況ではありません。その中で、「正しい」教育とは何か、私たちは問い直す必要があるのかもしれません。この研究は、その問いに向き合うための、貴重な手がかりを与えてくれています。
Tai, K. W. H. (2024). Documenting students’ conceptual understanding of second language vocabulary knowledge: A translanguaging analysis of classroom interactions in a primary English as a second language classroom for linguistically and culturally diverse students. Applied Linguistics Review, 15(6), 2775–2822. https://doi.org/10.1515/applirev-2023-0181
