はじめに:研究の背景と重要性
現代社会において、英語をはじめとする外国語能力の証明としての語学テストは、大学入試、就職、移住申請など人生の重要な局面で決定的な役割を果たしています。特に国際化が進む中で、TOEFLやIELTSといった標準化された語学テストの重要性はますます高まっており、これらのテストに向けた準備活動は教育現場において大きな関心事となっています。
今回取り上げる論文”A scoping review of research on second language test preparation”は、カナダのウェスタンオンタリオ大学のルスラン・スボロフ教授を筆頭とする4名の研究者によって執筆された、第二言語テスト準備に関する包括的な調査研究です。スボロフ教授は言語テスト・評価分野の専門家として知られており、共著者の何珊珊氏、アン=マリー・セネカル氏、ローラ・スタンスフィールド氏は皆、教育学分野で博士課程を修了中または修了した研究者です。
この研究が重要な意味を持つのは、テスト準備という現象が教育現場において「諸刃の剣」とも呼ばれる複雑な性質を持っているからです。適切なテスト準備は学習者の言語能力向上に貢献する一方で、不適切な準備方法はテストのスコアを人為的に押し上げるだけの「テクニック偏重」に陥る危険性があります。
研究手法と調査範囲
本研究では「スコーピングレビュー」という手法が採用されました。これは、特定の研究領域において既存の研究の範囲や性質を体系的に整理・分析する方法で、医学分野でよく用いられるPRISMA(系統的レビューとメタ分析のための報告指針)に基づいて実施されています。
研究チームは、教育情報センター(ERIC)と言語学・言語行動要約(LLBA)という2つの主要なデータベースを使用し、「test preparation(テスト準備)」「coaching(コーチング)」「washback(逆流効果)」「language test(語学テスト)」などのキーワードを組み合わせて文献を検索しました。最終的に、1993年から2022年までの期間に発表された66の研究が分析対象として選ばれています。
この調査が対象とした研究は、学術論文が47本(71.2%)、研究報告書が13本(19.7%)、博士論文が5本(7.6%)、書籍の章が1本(1.5%)と多様な形態の文献を含んでいます。特筆すべきは、IELTSの研究報告書が7本、Educational Testing Service(ETS)の研究報告書シリーズが5本含まれていることで、これは大手テスト開発機関がテスト準備研究に積極的に資金を提供していることを示しています。
研究テーマの三層構造
調査の結果、テスト準備研究のテーマは三つの大きなカテゴリーに分類されることが明らかになりました。
**認識(Perceptions)**のカテゴリーでは、学習者、教師、管理者といった関係者がテスト準備についてどのような考えや感情を抱いているかが調査されています。例えば、学習者がテスト準備コースの効果についてどう感じているか、教師がテスト準備の指導方法についてどのような信念を持っているかといった側面です。
**実践(Practices)**のカテゴリーは、実際のテスト準備活動の内容や方法に焦点を当てています。学習者がどのような学習方法を採用しているか、教師がどのような指導技術を用いているか、保護者がどの程度関与しているかなど、テスト準備の具体的な行動や活動が研究されています。
**影響(Impacts)**のカテゴリーは最も研究数が多く、テスト準備が様々な要因に与える影響、または様々な要因がテスト準備に与える影響を扱っています。テスト準備がテストスコアや言語能力にどのような効果をもたらすか、逆にテストの存在が教育内容や指導方法にどのような変化をもたらすかといった双方向の影響関係が調査されています。
興味深いことに、全66のテーマのうち40テーマ(約60%)が単一の研究でのみ取り上げられており、これは多くのテーマが十分に深く研究されていないことを示しています。
参加者特性に見る研究の偏向
調査対象となった研究の参加者分析からは、いくつかの重要な偏向が明らかになりました。
まず参加者の種類について、全体の88%が学習者であり、残りが教師(25研究)、管理者(3研究)、卒業生(2研究)、保護者(1研究)、雇用主(1研究)となっています。学習者数は研究によって大きく異なり、最少で2名、最多で14,593名と幅広い範囲にわたっています。
言語的背景では、中国語話者が28研究で最も多く、韓国語話者と日本語話者がそれぞれ7研究で続いています。地理的には中国本土での研究が19件と最も多く、オーストラリアとアメリカがそれぞれ6件で続いています。
最も重要な発見の一つは、調査対象となった66の研究すべてが英語を対象言語としていることです。これは英語が国際的な言語テスト業界において支配的な地位を占めていることを反映していますが、同時に他の言語のテスト準備に関する研究の不足を示しています。
教育環境については、大学(32研究、48%)と語学学校(24研究、36%)での研究が大部分を占めており、高等学校での研究は9件にとどまっています。これは研究対象が比較的高い社会経済的地位を持つ参加者に偏っていることを示唆しています。
テストの種類と地域性
研究で取り上げられたテストは、国際的テスト(44研究)、国内テスト(20研究)、機関内テスト(4研究)、地域テスト(1研究)の4つのカテゴリーに分類されました。
国際的テストでは、IELTS(21研究)とTOEFL iBT(13研究)が圧倒的多数を占めており、これらの高stakes テストへの準備が研究の中心となっていることがわかります。国内テストでは、中国の大学英語テスト(CET-4)が6研究で最も多く取り上げられています。
注目すべきは、CET-4の受験者数が2006年の時点で1,300万人に達していたのに対し、IELTSの最高記録は2018年の350万人であったことです。この数字の差は、国際的に知名度の高いテストが必ずしも受験者数の多さと比例しないことを示しており、研究の焦点が実際のテスト利用状況と必ずしも一致していないことを示唆しています。
研究方法論の特徴と課題
研究方法論の分析からは、質的研究(40%)が最も多く、混合研究法(33%)、量的研究(27%)が続いていることが明らかになりました。近年、混合研究法を用いた研究が増加傾向にあり、22の混合研究法研究のうち17研究(約77%)が過去10年間に発表されています。
データ収集方法では、アンケート調査が61研究(92%)で圧倒的に多く、実験(21研究)、観察(21研究)、文書収集(13研究)が続いています。データ収集手段としては、面接(45研究)と質問票(41研究)が最も一般的でした。
質的データ分析では、テーマ分析が44研究で最も多く用いられており、内容分析が23研究で続いています。量的分析では、記述統計が32研究、群間比較分析が22研究で用いられていますが、因子分析(12研究)や構造方程式モデリング(6研究)といった高度な統計手法を用いた研究は限られています。
研究の意義と貢献
この包括的調査は、テスト準備研究分野の現状を体系的に整理した点で大きな意義を持ちます。30年間にわたる研究の蓄積を分析することで、この分野の発展過程と現在の課題を明確に把握することができました。
特に、研究テーマの多様性と同時に、個々のテーマの研究不足という矛盾した状況を明らかにした点は重要です。多くのテーマが一度しか研究されていないという事実は、この分野における研究の断片化を示しており、より体系的で継続的な研究の必要性を示しています。
また、研究方法論の分析を通じて、この分野における実験研究の不足と、高度な統計手法の限定的な使用という課題も明らかになりました。これは研究の質的向上の余地があることを示しています。
研究の限界と批判的考察
研究者自身が認めているように、この調査にはいくつかの重要な限界があります。
まず、「テスト準備」という概念の多様性が挙げられます。研究によって「コーチング」「テストに向けた指導」「テスト受験戦略訓練」など異なる用語が使われており、概念の統一性に欠ける面があります。研究者らは包括的な検索戦略を用いてこの問題に対処したとしていますが、関連研究の見落としの可能性は完全には排除できません。
次に、データコーディングにおける主観性の問題があります。研究者らは研究論文の著者が使用した用語と、実際に調査された現象の間に乖離がある場合があることを認めており、コーディングの際の判断基準に一定の主観性が含まれることは避けられません。
さらに重要な限界として、この調査では個々の研究の方法論的品質を評価していないことが挙げられます。スコーピングレビューでは一般的に品質評価は必須とされていませんが、研究の信頼性や妥当性を評価することで、より有用な知見が得られた可能性があります。
教育現場への示唆
この調査結果は、教育現場に重要な示唆を提供しています。
まず、テスト準備の複雑性と多面性を理解することの重要性が挙げられます。単純にスコア向上を目指すだけでなく、学習者の総合的な言語能力向上との バランスを取ることが必要です。特に、建設的なテスト準備(言語能力の向上につながるもの)と非建設的なテスト準備(テクニックに頼るだけのもの)を区別し、前者を重視する指導方針が求められます。
また、研究の地域的・言語的偏向は、テスト準備に関する知見の一般化可能性に疑問を投げかけています。中国、韓国、日本など東アジア地域の英語学習者を中心とした研究結果が、他の地域や他の言語学習者にそのまま適用できるかは慎重に検討する必要があります。
研究方法論への提言
研究方法論の観点から、この調査は今後の研究の方向性について重要な提言を行っています。
まず、実験研究の増加の必要性が強調されています。現在の研究の多くは観察的研究や認識調査に偏っており、因果関係を明確に示すことのできる実験研究が不足しています。特に、異なるテスト準備方法の効果を比較検討するような研究が求められています。
また、より高度な統計手法の活用も重要な課題です。現在の研究の多くは記述統計や簡単な比較分析にとどまっており、複雑な変数間の関係を分析するための構造方程式モデリングや多層分析といった手法の活用が期待されます。
質的研究についても、テーマ分析の品質向上が課題として挙げられています。多くの研究でテーマ分析の手順や信頼性確保の方法が十分に報告されておらず、研究の透明性と再現可能性の向上が必要です。
今後の研究課題と展望
この調査は、テスト準備研究の今後の方向性について複数の重要な課題を提示しています。
まず、研究テーマの統合と深化が必要です。現在、多くのテーマが断片的に研究されているため、同一テーマの反復研究や関連テーマの統合的研究によって、より体系的な知見の蓄積が求められます。
参加者の多様性の拡大も重要な課題です。現在の研究は学習者と教師に偏っており、テスト管理者、政策立案者、雇用主、保護者といった他の関係者の視点を取り入れた研究が必要です。これにより、テスト準備の社会的影響をより包括的に理解することができるでしょう。
言語的多様性の確保も急務です。英語以外の言語のテスト準備に関する研究の蓄積により、より普遍的な知見の獲得が期待されます。特に、中国語、フランス語、スペイン語、アラビア語など、国際的に重要な役割を果たしている言語のテスト準備研究が求められます。
COVID-19の影響と新たな課題
調査執筆時期との関係で、論文ではCOVID-19パンデミックが語学テスト業界に与えた影響についても言及されています。パンデミックにより従来の試験会場での受験が困難になった結果、Duolingo English TestのようなオンラインでのAI支援テストが急速に普及しました。
このような新しい形態のテストに対する準備方法や効果については、まだ研究が蓄積されておらず、今後の重要な研究領域となることが予想されます。特に、AI技術を活用したテストに対する準備方法は従来のテストとは大きく異なる可能性があり、新しい研究アプローチが必要となるでしょう。
結論:バランスの取れた発展に向けて
この包括的調査は、テスト準備研究分野の現状を詳細に分析し、多くの重要な知見を提供しています。研究の量的増加は確認できるものの、質的向上と体系的発展には課題があることが明らかになりました。
テスト準備は、学習者の人生に大きな影響を与える重要な教育活動です。適切なテスト準備は言語能力の向上と目標達成の両方を支援することができますが、不適切な準備は学習者に負担を与え、教育の質を損なう可能性があります。
この研究が示すように、テスト準備研究分野の健全な発展のためには、研究テーマの統合、方法論の向上、参加者の多様化、言語的範囲の拡大など、多方面からの取り組みが必要です。教育現場、政策立案、研究コミュニティが連携することで、より効果的で公正なテスト準備環境の構築が可能になるでしょう。
最終的に、この調査は単なる研究動向の整理にとどまらず、テスト準備という現象の複雑性と重要性を再認識させ、より質の高い研究と実践の必要性を示した意義深い貢献と評価できます。
He, S., Sénécal, A.-M., Stansfield, L., & Suvorov, R. (2025). A scoping review of research on second language test preparation. Language Testing, 42(1), 11-47. https://doi.org/10.1177/02655322241249754