はじめに:言語学習に対する素朴な理論の重要性
私たちは日常生活において、言語学習について様々な考えを持っています。「日本人は英語が苦手だ」「子どもは言語を習得する能力が高い」「同時に複数の言語を学ぶと混乱する」といった信念は、科学的根拠があるものもあれば、そうでないものもあります。こうした素朴な理論が、実際の教育政策や個人の学習選択にどのような影響を与えているのでしょうか。
ミシガン大学のXin Sun氏らによる2023年の研究”How essentialist reasoning about language acquisition relates to educational myths and policy endorsements”は、この重要な問題に心理学的本質主義という理論的枠組みから迫った画期的な研究です。本研究の筆頭著者であるSun氏は発達心理学と教育心理学の専門家で、現在はブリティッシュコロンビア大学でも研究を行っています。共著者のSusan A. Gelman氏は、心理学的本質主義研究の第一人者として知られており、人々がカテゴリーについてどのように考えるかという根本的な認知プロセスを長年研究してきました。
心理学的本質主義とは、人々がカテゴリーのメンバーには直接観察できない根本的な性質が共有されているという信念を持つ傾向のことです。例えば、「男性は生まれつき数学が得意だ」「芸術家は天性の才能を持っている」といった考え方がこれに当たります。この研究では、この概念を言語習得の領域に適用し、人々が言語学習能力をどの程度生得的で変更不可能なものと捉えているかを調査しています。
研究の概要と独創的な方法論
本研究は2つの実証研究から構成されており、合計で約1000名の参加者を対象としています。研究1では大学生386名と一般成人340名、研究2では一般成人289名が参加しました。このように多様な年齢層を対象とすることで、研究結果の一般化可能性を高めています。
研究者たちは言語習得に関する本質主義的思考を3つのサブタイプに分類して測定しました。第一に「特定言語本質主義」は、個人が生物学的家族の言語を他の言語よりも習得しやすいという信念です。第二に「第一言語本質主義」は、第一言語習得能力には個人差があり、それが生得的で生物学的に決定されているという信念です。第三に「多言語本質主義」は、複数言語の習得能力に個人差があり、それが生得的で生物学的に決定されているという信念です。
測定方法として、研究者たちは「switched-at-birth パラダイム」という巧妙な手法を採用しました。これは、出生時に取り違えられた赤ちゃんの物語を使って、参加者の本質主義的思考を測定する方法です。具体的には、韓国系の両親から生まれたが、出生時にアメリカ系の家族に養子に出された子どもが、高校で韓国語を学ぶ際に、他の生徒よりも習得が容易になるかどうかを尋ねました。この手法により、遺伝的要因と環境的要因を切り離して考えることができます。
さらに、研究者たちは多言語教育に関する「神話」についても調査しました。これらの神話には「第二言語を導入する前に第一言語を十分に習得する必要がある」「複数言語への同時曝露は子どもを混乱させる」「バイリンガル教室での学習期間が長すぎる」などが含まれています。これらは科学的根拠に乏しい、あるいは完全に否定されている信念ですが、教育現場では依然として影響力を持っています。
主要な発見:本質主義的思考の階層構造
研究の最も重要な発見の一つは、人々が言語習得の異なる側面に対して、段階的に異なる程度の本質主義的思考を示すことです。参加者は多言語習得能力に最も強い本質主義的信念を持ち、続いて第一言語習得能力、最後に特定言語習得能力の順でした。
この結果は興味深い示唆を含んでいます。特定言語習得について、多くの人々は比較的合理的な判断を下しており、韓国系の血を引く子どもが韓国語を習得しやすいとは考えていませんでした。これは、言語が主に環境によって決定されることを人々が理解していることを示しています。
しかし、多言語習得能力については異なります。参加者の多くが、複数言語を学ぶ能力には生得的な個人差があり、脳の構造や遺伝子によって決定されていると考えていました。実際、85%以上の参加者が「人々は自然に異なるレベルの多言語学習能力を持っている」という項目に同意しました。
この階層構造は重要な意味を持ちます。人々は一般的な認知能力(多言語習得)については本質主義的に考えがちですが、具体的な言語習得については環境的要因を重視する傾向があります。これは、抽象的なレベルでは生得論的な説明を好むが、具体的なレベルでは経験の重要性を認識するという、人間の認知の特徴を反映している可能性があります。
教育神話との関連:科学と常識のギャップ
研究のもう一つの重要な発見は、本質主義的思考と教育神話の強い関連です。言語習得を生得的で変更不可能なものと考える人ほど、多言語教育に関する誤った信念を持つ傾向がありました。
例えば、「バイリンガルの脳では、二つの言語が心的資源を奪い合う」という神話を信じる人が一定数存在しました。現代の認知科学研究では、バイリンガリズムが認知的利益をもたらすことが広く支持されているにも関わらず、このような誤解が残っています。
特に注目すべきは、「特定言語本質主義」が他の形態の本質主義よりも強く神話信念と関連していたことです。つまり、特定の言語習得を生物学的に決定されたものと考える人ほど、多言語教育全般について誤った信念を持つ傾向がありました。これは、一つの領域での本質主義的思考が他の関連領域にも波及することを示しています。
この発見は教育現場における科学的知識の普及の重要性を浮き彫りにします。教育者や政策立案者が持つ素朴理論が、科学的根拠に基づかない教育実践につながる可能性があるからです。
政策支持への影響:信念が行動を決定する
研究2では、本質主義的思考が多言語教育政策への支持にどのような影響を与えるかが調査されました。結果は明確でした。言語習得を本質主義的に捉える人ほど、多言語教育を促進する政策に反対する傾向がありました。
具体的には、「学校での多言語教育への財政投資」「バイリンガル授業の実施」「多言語カリキュラムの採用」などの政策に対する支持が低くなりました。この関連は、年齢、性別、教育水準、政治的志向、非英語学習経験を統制した後でも維持されました。
興味深いことに、政策支持においては「switched-at-birth項目」が最も強い予測因子でした。つまり、生物学的親の言語を習得しやすいと考える人ほど、多言語教育政策に反対する傾向が強かったのです。これは、具体的で直感的な本質主義的信念が、抽象的な政策判断により強い影響を与えることを示唆しています。
この発見は教育政策の形成過程において重要な示唆を提供します。政策の科学的根拠を示すだけでなく、人々が持つ根深い信念にも配慮した説明やコミュニケーション戦略が必要かもしれません。
研究の長所と学術的貢献
本研究は複数の点で優れた学術的貢献を果たしています。第一に、心理学的本質主義という確立された理論的枠組みを言語習得という新しい領域に適用したことです。これまで本質主義研究は主に性別、人種、知能などの領域で行われてきましたが、言語習得への適用は比較的新しい試みです。
第二に、多面的な測定アプローチを採用したことです。switched-at-birthパラダイムと質問紙調査を組み合わせることで、測定の妥当性を高めています。また、言語習得を3つのサブタイプに分類して測定したことで、より細分化された理解が可能になりました。
第三に、実用的な帰結(神話信念と政策支持)との関連を検討したことです。多くの認知研究が理論的関心に留まる中、この研究は現実世界への影響を直接的に測定しています。これは応用心理学的研究として高く評価されるべき点です。
第四に、事前登録された研究2を含むことで、研究の透明性と再現性を高めています。事前登録は研究者バイアスを最小化し、科学的厳密性を保証する重要な手続きです。
第五に、複数の参加者集団(大学生と一般成人)を用いることで、結果の一般化可能性を確認しています。特に、一般成人サンプルには政治的保守派と進歩派の両方を含めることで、政治的偏見の影響を統制しています。
研究の限界と今後の課題
一方で、本研究にはいくつかの限界も指摘できます。最も重要な限界は、研究がアメリカに限定されていることです。アメリカは英語モノリンガルが多数を占める社会であり、多言語使用がより一般的な社会では異なる結果が得られる可能性があります。
例えば、ヨーロッパの多くの国やカナダ、インドなどの多言語社会では、多言語能力がより日常的で価値あるものと認識されています。このような社会では、多言語習得に対する本質主義的思考や関連する神話信念が異なるパターンを示すかもしれません。
第二の限界は、因果関係の方向性が明確でないことです。本研究は相関関係を示していますが、本質主義的思考が神話信念や政策支持を引き起こすのか、それとも逆なのか、あるいは第三の要因が両方に影響しているのかは明確ではありません。縦断的研究や実験的介入研究が必要です。
第三に、switched-at-birthパラダイムで使用された言語(韓国語)が特定の文化的・人種的な含意を持つことです。韓国は比較的同質的な民族国家として認識されており、これが結果に影響した可能性があります。より多様な言語を用いた研究が必要でしょう。
第四に、測定された「神話」の中には、完全に否定されているものと、科学的コンセンサスが確立していないものが混在していることです。多言語教育の効果については依然として議論がある側面もあり、より慎重な解釈が必要かもしれません。
教育実践への示唆
本研究の発見は教育実践に重要な示唆を提供します。第一に、教育者の研修において、言語習得に関する科学的知識の普及が重要であることが示されました。特に、多言語習得の認知的利益や、同時言語学習の安全性について正確な情報を提供する必要があります。
第二に、保護者や地域社会への情報提供においても、単に科学的事実を提示するだけでなく、根深い信念に配慮したコミュニケーション戦略が必要です。人々が持つ本質主義的思考を直接否定するのではなく、具体例や体験談を通じて理解を促進することが効果的かもしれません。
第三に、多言語教育プログラムの設計において、参加者や地域社会の信念を事前に把握することが重要です。本研究で開発された尺度は、そのような調査に活用できる可能性があります。
第四に、教師教育プログラムにおいて、自身の言語学習に対する信念を省察する機会を提供することが有益でしょう。教師の信念は教育実践に直接影響するため、科学的根拠に基づいた信念の形成が重要です。
理論的発展への貢献
本研究は心理学的本質主義理論の発展にも貢献しています。従来の研究では、本質主義は主に社会カテゴリー(性別、人種など)や心理的特性(知能、性格など)に焦点を当ててきました。言語習得という技能領域への拡張は、本質主義的思考の普遍性と特異性について新たな知見を提供します。
特に、本研究が示した階層構造(多言語>第一言語>特定言語)は、本質主義的思考が一様ではなく、対象の抽象度や一般性によって変化することを示唆しています。これは、本質主義理論をより精緻化する上で重要な発見です。
また、本質主義的思考と実際の態度・行動との関連を実証したことも、理論的に重要です。従来の研究では本質主義的思考の測定に焦点が当てられがちでしたが、その実用的帰結を示すことで、理論の社会的意義が明確になりました。
方法論的革新
本研究は方法論的にも革新的な要素を含んでいます。特に、言語習得の複数の側面を体系的に測定する尺度の開発は、今後の研究で広く活用される可能性があります。
switched-at-birthパラダイムの言語習得への適用も創意工夫に富んでいます。この手法により、遺伝的要因と環境的要因を概念的に分離して測定することが可能になりました。
また、教育神話と政策支持という2つの異なる帰結変数を用いることで、本質主義的思考の影響の広がりを包括的に検討できました。これは、認知と行動の関連を多面的に捉える優れたアプローチです。
社会的意義と政策提言
本研究の社会的意義は非常に大きいといえます。多言語教育は現代社会においてますます重要になっており、グローバル化や移民の増加により、多言語能力の価値は高まっています。しかし、科学的根拠に基づかない信念が適切な教育政策の実施を阻害している可能性があります。
政策立案者にとって、本研究は重要な教訓を提供します。政策の科学的根拠を示すだけでなく、市民が持つ根深い信念を理解し、それに配慮したコミュニケーション戦略を展開することが必要です。
また、教育予算の配分や教育プログラムの設計において、地域社会の信念を考慮することで、より効果的で持続可能な教育政策が実現できるかもしれません。
今後の研究方向
本研究を基盤として、いくつかの重要な研究方向が考えられます。第一に、文化間比較研究です。多言語社会と単一言語社会での本質主義的思考の違いを調査することで、文化的要因の影響を明確にできるでしょう。
第二に、発達的研究です。本質主義的思考がどのように形成され、年齢と共にどう変化するかを調査することで、教育介入の最適なタイミングを特定できるかもしれません。
第三に、介入研究です。科学的知識の提供や具体的体験が本質主義的思考や関連する信念に与える影響を実験的に検討することで、効果的な教育方法を開発できるでしょう。
第四に、神経科学的アプローチです。本質主義的思考の神経基盤を調査することで、その認知メカニズムをより深く理解できるかもしれません。
結論:認知科学が教育に果たす役割
Sun氏らの研究は、認知科学が現実の教育問題にどのように貢献できるかを示す優れた例です。人々の素朴理論を科学的に解明し、その実用的帰結を明らかにすることで、より良い教育政策と実践の基盤を提供しています。
本研究が明らかにしたのは、言語習得に対する人々の信念が単なる個人的意見ではなく、教育政策や実践に実際の影響を与える重要な要因であるということです。科学的根拠に基づいた多言語教育の推進には、人々の認知的傾向を理解し、それに配慮したアプローチが必要です。
同時に、本研究は心理学的本質主義という理論的枠組みの有用性を実証しています。この概念を通じて、一見無関係に見える認知的傾向と社会的態度の関連を理解することができました。
今後、このような認知科学と教育研究の融合がさらに進展することで、より効果的で科学的根拠に基づいた教育政策と実践が実現されることが期待されます。それは、すべての子どもたちが言語的多様性の恩恵を受けられる社会の実現につながるでしょう。
Sun, X., Nancekivell, S. E., Shah, P., & Gelman, S. A. (2023). How essentialist reasoning about language acquisition relates to educational myths and policy endorsements. Cognitive Research: Principles and Implications, 8, Article 27. https://doi.org/10.1186/s41235-023-00481-2