はじめに:二言語習得研究の新たな視点
ウズベキスタン国立世界言語大学のマハンベト・ジュスポフ教授による本論文”Speech interference as the result of a two-pronged negative influence”は、二言語話者が第二言語を習得する際に生じる音韻干渉について、従来の理論的枠組みに挑戦する重要な研究です。音韻干渉とは、母語の音韻体系が第二言語の発音に悪影響を及ぼす現象のことで、例えば日本人が英語のLとRの区別に困難を感じるような現象がこれに当たります。
ジュスポフ教授は、中央アジアの言語状況、特にテュルク系言語とロシア語の接触状況を長年研究してきた専門家として知られています。彼の研究は、カザフ語、ウズベク語などのテュルク系言語話者がロシア語を学習する際の困難に焦点を当てており、この分野で315の出版物、8つの専門書、8つの教科書を発表している権威ある研究者です。特に、テュルク系言語の音韻調和(シンガルモニズム)の研究では第一人者として評価されています。
従来理論への挑戦:一方向説から双方向説へ
既存理論の限界
従来の言語学では、音韻干渉は主に母語から第二言語への一方向的な影響として理解されてきました。つまり、学習者が持つ母語の音韻システムの特徴が、第二言語の習得を妨害するという考え方です。この理論では、母語にない音韻的特徴を持つ第二言語の習得が困難になると説明されています。
しかし、ジュスポフ教授はこの一方向的理解に疑問を呈します。彼によれば、これは「表面的な」理解であり、第二言語自体が持つ特徴が学習過程に与える否定的影響を見落としているということです。この指摘は、言語習得研究における根本的な視点の転換を求めるものです。
双方向理論の提案
本論文の核心的な主張は、音韻干渉が母語と第二言語の両方の特徴による同時的な双方向的影響の結果であるというものです。具体的には、次の二つの要因が同時に作用すると説明します。
第一に、母語にはあるが第二言語にはない特徴が、第二言語習得を困難にします。第二に、第二言語にはあるが母語にはない特徴も、同様に習得を困難にします。この二つの要因が「双方向的に」同時に作用することで、学習者の発音エラーが生じるという理論です。
実証研究の検討:カザフ語話者のロシア語習得
研究方法と対象
ジュスポフ教授は、この理論を検証するために、カザフ語話者がロシア語の語頭子音クラスター(複数の子音が連続する音韻構造)を習得する過程を調査しました。カザフ語は語頭に子音クラスターを持たないテュルク系言語である一方、ロシア語は「стол」(テーブル)、「страна」(国)などの語頭子音クラスターが特徴的な言語です。
研究では、カザフ語を母語とする大学1年生82名を対象に、ロシア語の語頭子音クラスターを含む単語の発音テストを実施しました。また、1978年から1980年にかけて実施した大規模調査(345名のテュルク系言語話者が対象)の結果も参照しています。
実証結果の分析
調査結果は興味深いものでした。被験者の多くが、「стол」を「[ы]стол」、「врач」(医師)を「в[ы]рач」のように、子音クラスターの間に母音を挿入して発音していました。これは「プラス分節化」と呼ばれる現象です。
重要なのは、被験者自身の発言です。なぜ正しく発音できないかという質問に対して、「ロシア語にはこのような音の組み合わせがあるから、正しく発音できない」という回答が多く見られました。これは、第二言語の特徴自体が学習の障害となっていることを示唆しています。
理論的解釈
ジュスポフ教授は、この現象を次のように解釈します。カザフ語話者がロシア語の語頭子音クラスターを習得できない理由は、カザフ語にこの特徴がない(母語の特徴)ことと、ロシア語にこの特徴がある(第二言語の特徴)ことの両方が同時に作用するからだというのです。
理論的貢献の評価
革新性と意義
この双方向理論の提案は、言語習得研究において重要な理論的貢献をなしています。従来の一方向的理解では説明困難だった現象に対して、新しい説明枠組みを提供しているからです。特に、学習者自身が「第二言語の特徴が習得を困難にしている」と認識している点は、この理論の妥当性を支持する重要な証拠です。
また、この理論は教育実践への応用可能性も示しています。論文では、段階的な教育方法として、まず個別の音素の習得から始めて、徐々に子音クラスターの習得へと進む教授法を提案しています。これは、双方向理論に基づいた具体的な教育手法として評価できます。
理論的な課題
しかし、この理論にはいくつかの課題も指摘できます。まず、「双方向的影響」という概念の操作的定義が不十分です。母語と第二言語の特徴がどのような機序で「同時に」作用するのか、その心理言語学的プロセスが明確に説明されていません。
また、この理論が他の言語対にも適用可能かという一般化の問題もあります。テュルク系言語とロシア語という特定の言語対での研究結果が、どの程度普遍的な現象を表しているかは検証が必要です。
方法論的検討
実証研究の強み
本研究の方法論的強みは、複数の時期にわたる大規模な調査データを基盤としていることです。1978年から1980年の調査と現代の調査結果が一致していることは、現象の安定性を示しています。また、量的データと質的データ(学習者の内省報告)を組み合わせた混合研究法的アプローチも評価できます。
発音テストの結果だけでなく、学習者自身の認識を聞き取っている点は特に重要です。これにより、単なる発音エラーの記述を超えて、学習者の主観的体験を理論構築に組み込むことができています。
方法論的限界
一方で、いくつかの方法論的限界も指摘できます。まず、統制群の不在です。カザフ語以外の母語を持つ学習者や、異なる言語対での比較研究がないため、提案する理論の特異性や普遍性を判断することが困難です。
また、学習者の習熟度や学習歴による影響が十分に統制されていません。論文では「ロシア語をほとんど話せない、または弱い」学習者を対象としたと述べていますが、より詳細な習熟度測定や背景変数の統制が必要でした。
さらに、音韻干渉以外の要因(社会言語学的要因、動機、学習環境など)の影響について十分な考慮がなされていません。言語習得は複合的な現象であり、音韻レベルの分析だけでは全体像を把握することは困難です。
社会言語学的含意
中央アジアの言語状況
本研究は、中央アジアの複雑な言語状況を背景としています。ソビエト時代からの言語政策により、この地域ではロシア語が広く使用されてきましたが、1990年代以降の独立により、各国の言語政策が変化しています。
ジュスポフ教授は、論文の中で言語シフト(言語転換)の問題にも言及しています。一方向的な二言語運用が進行すると、最終的には母語の喪失につながる可能性があるという指摘は、言語維持の観点から重要です。実際、ロシア北部では10以上の言語が消滅の危機に瀕しているという現状も紹介されています。
教育政策への示唆
この研究は、多言語教育政策にとっても重要な示唆を持ちます。従来の一方向的理解に基づく教育方法では、学習効果に限界があることを示唆しているからです。双方向理論に基づく教育手法の開発は、より効果的な言語教育の実現につながる可能性があります。
理論的発展の可能性
他分野との関連
音韻干渉の双方向理論は、言語習得研究だけでなく、認知科学や心理言語学との接点も持ちます。二つの言語システムが学習者の認知に与える同時的影響という概念は、バイリンガルの言語処理機序の理解を深める可能性があります。
また、この理論は機械学習による自然言語処理の分野にも応用可能性があります。人間の言語習得過程をより正確にモデル化することで、より効果的な言語学習支援システムの開発につながるかもしれません。
今後の研究課題
今後の研究では、いくつかの課題に取り組む必要があります。まず、双方向理論の心理言語学的機序の解明です。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)やEEG(脳波)などの神経科学的手法を用いて、母語と第二言語の同時的処理過程を調査することが重要です。
次に、より多様な言語対での検証が必要です。テュルク系言語とロシア語以外の言語対でも同様の現象が観察されるかを確認することで、理論の一般化可能性を検証できます。
さらに、個人差の要因についても詳細な調査が必要です。同じ言語背景を持つ学習者でも、音韻干渉の程度には大きな個人差があります。この差を説明する要因(認知能力、音韻意識、学習スタイルなど)の特定は、理論の精緻化につながります。
実践的応用の展望
教育手法への応用
双方向理論に基づく教育手法の開発は、実践的に重要な意味を持ちます。論文で提案されている段階的教授法は、その一例です。この手法では、問題となる音韻構造を含む語彙を最初から提示するのではなく、学習者が段階的に複雑な音韻構造に慣れていけるような教材配列を行います。
具体的には、まず個別の音素の習得、次に音素と母音の組み合わせ、その後語中での子音クラスター、最後に語頭での子音クラスターという順序で進めます。この方法により、学習者の心理的抵抗を軽減しながら、効果的な習得を促進できる可能性があります。
教材開発への示唆
この理論は、第二言語教育の教材開発にも重要な示唆を与えます。従来の教材では、母語からの負の転移(ネガティブトランスファー)のみに注目することが多かったのですが、双方向理論では第二言語自体の特徴による困難も考慮する必要があります。
これにより、より学習者中心的な教材設計が可能になります。特定の母語背景を持つ学習者が直面する困難を予測し、それに対応した教材や練習問題を開発することで、学習効果の向上が期待できます。
理論的批判と反論
概念的明確性の問題
本理論に対する主要な批判の一つは、「双方向的影響」という概念の明確性の欠如です。母語の特徴による影響と第二言語の特徴による影響が、どのように区別され、どのように相互作用するのかが十分に説明されていません。
この批判に対しては、より詳細な理論的モデルの構築が必要です。認知科学や心理言語学の知見を取り入れて、双方向的影響の具体的な機序を説明する理論枠組みの開発が求められます。
実証的証拠の限界
また、提示されている実証的証拠の限界も指摘できます。学習者の内省報告は主観的であり、必ずしも実際の認知過程を正確に反映しているとは限りません。より客観的な実証手法による検証が必要です。
この点については、実験的手法の導入が有効でしょう。例えば、反応時間測定や眼球運動追跡などの手法を用いて、学習者の音韻処理過程をより詳細に分析することができます。
結論:新しい視点の意義と今後の展開
マハンベト・ジュスポフ教授による音韻干渉の双方向理論は、言語習得研究に新しい視点をもたらす重要な貢献です。従来の一方向的理解では説明困難だった現象に対して、より包括的な説明枠組みを提供しています。
特に、学習者自身の主観的体験を理論構築に組み込んだ点は高く評価できます。これにより、言語習得の現象をより人間中心的な視点から理解することが可能になりました。また、中央アジアという特定の地域の言語状況を詳細に分析することで、地域研究と言語学の接点を示した点も意義深いものです。
しかし、この理論にはまだ発展の余地があります。概念的な精緻化、実証手法の改善、他の言語対での検証など、多くの課題が残されています。これらの課題に取り組むことで、より堅固で一般化可能な理論の構築が期待されます。
教育実践の観点からも、この理論は重要な可能性を秘めています。双方向理論に基づく教授法や教材の開発により、より効果的な第二言語教育の実現が期待できます。特に、言語的マイノリティの教育支援や多言語社会における言語維持政策において、この理論の応用価値は高いと考えられます。
最後に、この研究は言語学が社会的課題の解決に貢献できることを示しています。グローバル化が進む現代において、効果的な第二言語習得は個人の社会参加や職業的成功にとって重要な要素です。ジュスポフ教授の研究は、このような社会的ニーズに応える理論的基盤を提供するものとして、今後の発展が期待される分野です。
Dzhusupov, M. (2021). Speech interference as the result of a two-pronged negative influence. RUDN Journal of Language Studies, Semiotics and Semantics, 12(1), 23–40. https://doi.org/10.22363/2313-2299-2021-12-1-23-40