言語習得をめぐる根本的な問い直し
子供たちが母語を習得する過程は、人間の認知能力の中でも最も驚くべき現象の一つです。わずか数年の間に、限られた言語的入力から複雑な文法規則を身につけ、無数の新しい文を理解し、産出できるようになります。この驚異的な能力をどのように説明するかは、言語学、心理学、認知科学の分野で長年にわたって議論されてきました。
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのNick Chaterとコーネル大学のMorten H. Christiansenによる本論文”Language Acquisition Meets Language Evolution”は、この根本的な問題に対して新しい視点を提供しています。両著者は認知科学と言語学の分野で国際的に著名な研究者であり、特にChaterは統計的学習や合理的分析の専門家として、Christiansenは言語処理と言語進化の研究で知られています。
彼らの提案は、従来の言語習得理論に対する大胆な挑戦となっています。これまで多くの研究者が、子供の驚くべき言語習得能力を説明するために、脳に生得的に備わった言語専用の機能(Universal Grammar)の存在を仮定してきました。しかし、本論文の著者たちは、この問題を全く異なる角度から捉え直そうとしています。
文化的進化という新たな枠組み
本論文の核心となる主張は、言語進化を文化的変化の過程として理解すべきだということです。つまり、人間の脳が言語に適応したのではなく、言語が人間の脳に適応してきたという考え方です。この視点転換は、言語習得の問題を根本的に書き換える可能性を持っています。
著者たちは、言語構造が学習と使用の反復サイクルを通じて形作られてきたと論じています。世代から世代へと受け継がれる過程で、学習しやすく処理しやすい言語的特徴は保持され増幅される一方、学習困難な特徴は淘汰されていきます。この文化的進化の過程を経ることで、現在の言語は人間の認知的制約に適合した形になっているというのです。
この考え方の重要な点は、言語習得の困難さが大幅に軽減されることです。子供たちは、前の世代の学習者たちによってすでに「最適化」された言語システムを学習するため、習得が比較的容易になるのです。これは、まるで前人たちが歩いた道筋を辿るようなもので、全く新しい道を切り開く必要がないということになります。
二つの学習タイプ:C-inductionとN-induction
論文の中でも特に重要な概念的区別が、C-induction(協調的帰納)とN-induction(自然界的帰納)の対比です。この区別は一見抽象的に思えるかもしれませんが、言語習得の性質を理解する上で極めて重要です。
N-inductionは、自然界の客観的な法則や構造を学習する過程を指します。例えば、物理法則を理解したり、動物の行動パターンを予測したりする場合です。この種の学習では、外部世界が絶対的な基準を提供し、学習者の推測が正しいかどうかは客観的に判定されます。重力の法則を学ぶ際、個人の好みや文化的背景に関係なく、物体は下向きに落ちるという事実があります。
一方、C-inductionは、他者との協調を目的とする学習過程です。この場合、「正しい」答えは客観的に存在するのではなく、共同体のメンバーが共有する慣習によって決まります。言語習得はまさにこのタイプの学習の典型例です。日本語で「ありがとう」と言うのが正しいのは、日本語話者がそう合意しているからであり、物理的な必然性があるわけではありません。
著者たちは、C-inductionがN-inductionよりもはるかに容易であることを強調しています。なぜなら、C-inductionでは、学習者が持つ認知的バイアスが他の学習者と共有されているため、自分の直感的な推測が正しい可能性が高いからです。これは、数列「1, 2, 3…」の続きを予測する例で説明されています。客観的には無数の可能性がありますが、ほとんどの人が「4, 5, 6…」と答えるでしょう。C-inductionの文脈では、この直感的な答えが「正解」となるのです。
生得的言語能力理論への挑戦
本論文は、Noam Chomskyらによって提唱された普遍文法(Universal Grammar)理論に対する体系的な批判を展開しています。普遍文法理論は、人間が言語専用の生得的能力を持っているという考えに基づいており、この能力が子供の急速な言語習得を可能にしているとされてきました。
しかし、著者たちは「言語進化の論理的問題」を提起します。もし言語専用の生得的能力が存在するならば、それはどのようにして進化的に獲得されたのでしょうか。この問題に対する説明として、適応主義的説明と非適応主義的説明の両方を検討していますが、どちらも重大な困難に直面することを論じています。
特に適応主義的説明については、三つの根本的な問題を指摘しています。第一に、人間集団の分散により、各集団が異なる言語環境に適応してしまい、普遍的な言語能力の進化が困難になること。第二に、自然選択は特定の環境に適応するものであるため、抽象的な文法原理ではなく特定言語の特徴が遺伝的に固定される方が自然であること。第三に、言語的慣習の変化が遺伝的変化よりもはるかに速いため、「動く標的」問題が生じることです。
これらの議論は、生得的言語能力の進化的起源に関する深刻な疑問を提起しています。著者たちは、言語専用の複雑な生得的システムがどのようにして進化し得たのかについて、説得力のある説明が存在しないと結論づけています。
言語を形作る多重制約
著者たちは、言語が単一の制約によって形作られるのではなく、複数の制約の相互作用によって現在の形になったと主張しています。これらの制約は四つのカテゴリーに分類されます。
まず、知覚運動的要因があります。音声生産の連続性は言語の時系列的構造を強制し、知覚システムの容量制限は段階的解釈を可能にする符号化を促進します。音声信号の雑音性と変動性は、発話器官と知覚的境界に関連する音韻空間の分割に圧力をかけます。
次に、学習と処理の認知的制限があります。言語処理は複雑な時系列入力からの規則性抽出を含むため、系列学習と言語の間に密接な関連があります。実際、系列学習課題は言語習得と処理の重要な実験パラダイムとなっています。
第三に、思考からの制約があります。概念構造や分類の性質は語彙意味論に強く影響し、可能な思考の無限の範囲は自然言語における合成性への傾向を促進します。時間の心的表象は時制と相の言語システムに影響を与えます。
最後に、語用的制約があります。言語は語用的制約によって大きく形作られており、語用的プロセスは言語構造の多くの側面と言語変化の過程を理解する上で重要です。語用的制約は時間を経て統語に「化石化」し、複雑な統語パターンを生み出すことがあります。
これらの制約は互いに相互作用し、特定の言語パターンは複数の異なるタイプの制約の組み合わせから生じる可能性があります。この多重制約のアプローチは、言語の複雑さを説明する上で従来の単一原理的説明よりも現実的な枠組みを提供しています。
バインディング制約の再解釈
論文では、具体的な例として英語のバインディング制約(束縛制約)を詳しく分析しています。バインディング制約は、代名詞と再帰代名詞(himself, herselfなど)の使い分けに関する規則で、従来は普遍文法の核心的要素とされてきました。
例えば、”That John enjoyed himself amazed him”という文では、最初の代名詞は再帰代名詞でなければならず、二番目は通常の代名詞でなければなりません。このパターンは従来、生得的な文法原理によって説明されてきました。
しかし、著者たちは、これらの制約が処理制約と語用的制約の相互作用から生じる可能性を示しています。O’Gradyの処理制約説によれば、言語処理システムは言語的依存関係を最初の機会に解決しようとする傾向があり、これは統語に特化したものではなく、言語的・知覚的入力の曖昧性を迅速に解決する一般的認知傾向の例かもしれません。
さらに、語用的説明も可能です。再帰代名詞の使用は高度に制限的であるため、適切な場合にはより情報的です。したがって、それらを使用しないことで、話し手は共参照が適切でないことをシグナルします。このように、バインディング制約の少なくとも一部は、言語専用の生得的知識ではなく、一般的な処理制約と語用的原理から生じる可能性があります。
理論の妥当性と限界
本論文の理論的貢献は確かに重要ですが、いくつかの限界も指摘できます。まず、文化的進化による説明は魅力的である一方、具体的なメカニズムの詳細についてはまだ不明な点が多くあります。言語のどの側面がどのような制約によって形作られたのかについて、より詳細な実証研究が必要です。
また、著者たちは普遍文法理論を批判していますが、言語に見られる普遍的パターンの存在自体は否定していません。これらのパターンが文化的進化によってどの程度説明できるのか、また認知的制約だけで十分なのかについては、さらなる検討が必要でしょう。
さらに、C-inductionとN-inductionの区別は理論的には明確ですが、実際の言語習得場面では両者が複雑に絡み合っている可能性があります。言語の意味的側面、特に物理世界への言及に関わる部分では、N-inductionの要素も重要な役割を果たしているかもしれません。
研究方法論への含意
本論文のアプローチは、言語習得研究の方法論にも重要な含意を持っています。従来の研究では、子供の言語能力と成人の言語能力を比較し、その差を生得的制約で説明する傾向がありました。しかし、文化的進化の観点からは、現在の言語システム自体が過去の学習者による形成の産物であるため、学習可能性は言語システムに内在する特性となります。
この視点は、言語習得研究において、個々の子供の学習過程だけでなく、言語システム自体の歴史的変化も考慮する必要があることを示唆しています。また、異なる言語間の比較研究においても、それぞれの言語が異なる文化的・歴史的制約の下で発展してきたことを考慮する必要があります。
他の認知領域への拡張可能性
著者たちは、本論文の議論を言語以外の文化的領域にも拡張できる可能性を示唆しています。音楽、芸術、道徳的規範、社会的慣習など、文化的に伝達される多くの知識が同様のメカニズムによって形成されている可能性があります。
この拡張は、進化心理学の「スイス・アーミー・ナイフ」モデル(心は多くの特殊目的ツールから構成されているという考え)に対する代替案を提供します。各文化的領域に特化した生得的モジュールを仮定する代わりに、ドメイン一般的な認知メカニズムと文化的進化の相互作用によって、様々な文化的知識が形成されるという見方です。
ただし、この拡張にも注意が必要です。文化的領域によって、関与する制約や進化的圧力は異なる可能性があります。言語で有効な説明が、他の文化的領域にそのまま適用できるとは限りません。
実証研究への課題
本論文の理論的枠組みを支持する実証的証拠を集めることは、今後の重要な課題です。文化的進化の予測を検証するためには、言語変化の歴史的データ、異なる言語系統での比較研究、人工言語学習実験などの多角的なアプローチが必要でしょう。
特に、コンピュータシミュレーションを用いた研究は有望な方向性です。異なる認知制約の下で言語がどのように進化するかをモデル化することで、理論の予測を定量的に検証できます。また、実際の言語変化のデータと比較することで、どの制約が最も重要な役割を果たしているかを特定できる可能性があります。
言語教育への含意
この理論は言語教育にも重要な含意を持ちます。もし言語が文化的進化を通じて学習しやすい形になっているならば、自然な言語習得プロセスを最大限活用する教育法が最も効果的かもしれません。これは、文法規則の明示的な教授よりも、豊富な言語入力と意味のあるコミュニケーション体験を重視するアプローチを支持します。
また、第二言語習得においても、学習者の既存の認知制約と新しい言語システムとの相互作用を理解することが重要になります。学習困難な特徴は、その言語の歴史的発展過程で除去されなかった要素である可能性があり、特別な注意を要するかもしれません。
結論:新しい視点が開く可能性
ChaterとChristiansenの論文は、言語習得という古典的問題に対して新鮮な視点を提供しています。言語が脳に適応したという考え方は、従来の生得主義的説明に代わる魅力的な代替案となっています。この視点転換により、言語習得の「論理的問題」は大幅に軽減され、より自然で説得力のある説明が可能になります。
ただし、この理論も完璧ではありません。文化的進化のメカニズムの詳細、異なる制約の相対的重要性、他の認知領域への適用可能性など、解明すべき問題は多く残っています。また、普遍文法理論が説明しようとしていた言語の普遍的特性を、この新しい枠組みでどこまで説明できるかも重要な検証点です。
それでも、本論文が提示した視点は、言語科学の発展にとって重要な貢献となっています。従来の対立的な議論(生得主義対経験主義)を超えて、より統合的で現実的な理解に向かう道筋を示しているからです。言語は人間の生物学的制約と文化的創造性の相互作用の産物であり、その理解には両方の視点が不可欠であることを、この論文は雄弁に物語っています。
今後の研究がこの理論的枠組みをさらに発展させ、より精緻で実証的に支持された言語習得理論の構築につながることを期待されます。そのような発展は、言語の本質についての我々の理解を深めるだけでなく、教育実践や言語障害の理解にも重要な貢献をもたらすでしょう。
Chater, N., & Christiansen, M. H. (2010). Language acquisition meets language evolution. Cognitive Science, 34(7), 1131-1157. https://doi.org/10.1111/j.1551-6709.2009.01049.x