研究の背景と意義
英語を第二言語として学ぶ際に、文法をどのように教えるべきかという問題は、長年にわたって言語教育界で激しく議論されてきました。伝統的な文法重視の指導法から、コミュニケーション重視の指導法まで、様々なアプローチが提唱され、実践されています。しかし、実際に教壇に立つ教師たちがどのような信念を持って文法指導に臨んでいるのかについては、まだ十分に解明されていない部分が多く残されています。
本研究”Student teacher beliefs on grammar instruction”の著者であるヨハン・グラウス氏(HAN応用科学大学)とピーター・アルノ・コッペン氏(ラドバウド大学)は、この重要な問題に取り組むため、オランダの教師養成課程に在籍する学生教師832名を対象とした大規模な調査研究を実施しました。2015年にLanguage Teaching Research誌に発表されたこの研究は、文法指導に関する学生教師の信念を体系的に調査し、教師教育の効果や実践的な示唆について考察した画期的な研究です。
研究が扱う核心的な問題
文法指導をめぐる根本的な対立
言語習得研究において、明示的に学習した知識が暗示的な言語運用能力に転化されるかという「インターフェース論争」は中核的な問題です。この論争には三つの立場があります。
強インターフェース説は、明示的な文法知識が継続的な練習を通じて自動化された知識に変換されると主張します。これは技能習得理論に基づく考え方で、まず宣言的知識を獲得し、それを手続き化し、最終的に自動化するという段階的なプロセスを想定しています。
弱インターフェース説は、明示的知識と暗示的知識の間に部分的な関係を認めますが、明示的知識は主に暗示的学習が困難な場合の補助的役割を果たすと考えます。この立場では、両システムの関係はより限定的で条件付きのものとして捉えられています。
非インターフェース説は、クラッシェンの理論に代表されるように、学習された知識と習得された知識を完全に別個のシステムとして扱います。この見解では、意識的に学習された文法規則は、注意深い言語使用における「モニター」機能にとどまり、自然な言語運用能力に転化することはないとされています。
四つの構成概念ペア
研究者たちは、この複雑な理論的議論を実践的な教授法の観点から整理し、四つの構成概念ペアを設定しました。
第一の対立軸は、意味重視指導と形式重視指導です。意味重視指導は言語の本質的目的であるコミュニケーションを重視し、文法規則の個別学習を否定する立場です。一方、形式重視指導は「学習者に言語形式に注意を向けさせることを意図した計画的または偶発的な指導活動」として定義され、従来の文法指導から意味重視環境での形式注意喚起まで幅広い活動を含みます。
第二の対立軸は、Focus on Form(FonF)とFocus on Forms(FonFs)の区別です。FonFは「意味やコミュニケーションに重点を置いた授業において、言語要素に偶発的に注意を向けること」を意味し、学習者のニーズに応じた反応的なアプローチです。対してFonFsは、言語学習を個別の言語構造を組み立てるプロセスとして捉え、体系的に文法項目を扱う伝統的なアプローチです。
第三の対立軸は、暗示的指導と明示的指導です。明示的指導は「学習過程において何らかの規則について考えること」を含み、メタ言語的用語の使用と統制された練習を特徴とします。暗示的指導は「意図性も気づきもない学習」に基づき、より上級の話者との交流を通じた第一言語習得モデルを想定しています。
第四の対立軸は、帰納的指導と演繹的指導です。演繹的指導では文法規則を最初に提示してから練習を行うのに対し、帰納的指導では学習者自身が例から規則性を発見することを重視します。
研究方法の詳細
調査対象と規模
この研究は、オランダの全ての英語教師養成課程を有する応用科学大学9校を対象とした包括的な調査です。参加者は832名の学生教師で、そのうち709名(85.2%)が学部生、123名(14.8%)が大学院生でした。性別構成は男性258名(31%)、女性574名(69%)となっています。
学部生は4年制の教育学士課程に在籍し、中等教育での英語指導資格(Grade II)の取得を目指しています。この課程では教科知識、教授法、教育実習が中核となります。大学院生は3年制の就業継続型教育修士課程に在籍し、すでにGrade II資格を持ち、上級中等教育での指導資格(Grade I)の取得を目指しています。重要な点は、大学院生の多くがすでに相当な教育経験を有していることです。
調査票の開発と検証
研究者たちは、四つの構成概念ペアを測定するために綿密に設計された調査票を開発しました。第一部では各構成概念ペアを一つの尺度として、合計24の指標項目で測定しました。項目開発においては、平均14.5年の経験を持つ4名の専門家パネルによる2回の厳密な検討を経て、最終的な項目が選定されました。
第二部では、学習者レベル(VMBO、HAVO、VWO)と文法項目の難易度が信念に与える影響を調査しました。オランダの中等教育制度における三つの教育段階は、それぞれ職業準備教育、一般中等教育、大学準備教育に対応しており、要求される英語能力レベルが段階的に上昇します。
第三部では、文法指導に関する信念の起源について、中等学校時代の教師から大学の指導教員、教育実習まで幅広い要因から最大3つまで選択する形式で調査しました。
主要な研究結果
学年進行に伴う信念の変化
最も注目すべき発見は、学年進行に伴う学生教師の信念の体系的な変化でした。1年次学生は明確に形式重視、明示的、Focus on Formsの指導法を支持していました。しかし、学年が上がるにつれて、より意味重視で暗示的、Focus on Formのアプローチを好む傾向が顕著に現れました。興味深いことに、帰納的指導への支持は学年進行とともにさらに強まりました。
この変化パターンは、オランダの教師養成課程で教授されている内容と合致しており、学生自身も学部課程を信念形成の主要な源泉として挙げていることから、教師教育の影響を示唆しています。従来の研究では教師教育が学生の信念に与える影響は限定的とされることが多かったため、この発見は重要な意味を持ちます。
大学院生における信念の特徴
しかし、この学年進行による変化傾向は大学院生において中断されました。3年次・4年次学部生と比較して、大学院生はより形式重視、明示的、演繹的指導を支持する傾向を示しました。大学院生は教育経験を信念形成の最重要要因として挙げており(学部課程の影響は55%から17%に減少)、実践経験が信念に強い影響を与えていることが示唆されます。
この結果は、実際の教育経験が学生教師の信念をより実践的で時間効率的なアプローチに向かわせる可能性を示しています。また、経験のある教師ほど信念と実践の一致度が高いという先行研究とも整合しており、大学院生を学部生の延長ではなく、独自の特徴を持つ集団として理解する必要性を示しています。
学習者レベルの影響
調査結果は、学習者レベルが学生教師の指導法選択に決定的な影響を与えることを明らかにしました。全ての学年群において、最上位レベル(VWO)の学習者には形式重視指導、Focus on Forms、帰納的指導が最適とされ、最下位レベル(VMBO)の学習者には意味重視指導と演繹的指導が適切とされました。
この結果は、学生教師が高レベル学習者により体系的で規則中心の指導が必要と考えている一方で、低レベル学習者には意味重視指導を簡略化された指導法として位置づけている可能性を示唆します。言語教育研究において意味重視指導の有効性が示されているにもかかわらず、実践者レベルでは依然として伝統的な形式重視アプローチが上級指導の「標準」と見なされている実態が浮き彫りになりました。
文法項目難易度の影響
文法項目の難易度についても明確な傾向が確認されました。全ての学年群において、困難な文法項目には明示的・演繹的指導が適切とされ、易しい項目には暗示的・帰納的指導が好まれました。
この直観的判断は、実際の研究結果とは矛盾しています。スパダとトミタ(2010)のメタ分析では、単純な文法項目と複雑な項目の両方において、明示的指導が暗示的指導より効果的であることが示されています。演繹的・帰納的指導の効果については研究結果が混在しており、文法難易度との相互作用は確立されていません。
理論的考察と実践的意義
構成概念間の高い相関
確認的因子分析の結果、意味重視対形式重視、Focus on Form対Focus on Forms、暗示的対明示的指導の三つの構成概念ペア間に非常に高い相関が確認されました。これは、理論的には独立した概念として扱われることの多いこれらの要素が、実践者の認識においては高度に統合された連続体として機能していることを示しています。
この発見は、言語教育理論と実践者認識の間の重要なギャップを浮き彫りにします。理論的精緻化と実践的統合の間の緊張関係は、教師教育における重要な課題を提起しています。
信念の起源分析
学部生の信念形成要因として、学部課程、教育実習、生徒の期待、中等学校時代の教師が主要な役割を果たしていました。一方、大学院生では教育経験が圧倒的に重要な要因となり、続いて生徒の期待、同僚、学部・大学院課程の順となりました。
この結果は、教師の信念形成における経験的要因の重要性を確認するとともに、異なる発達段階における影響要因の変化を示しています。特に、生徒の期待が両群において重要な要因として挙げられていることは、教育実践における相互作用的性質を反映しています。
建設的批評と今後の課題
研究デザインの制約
この研究は横断的設計を採用しているため、観察された学年間の差異が実際の時系列的変化を反映しているかについては慎重な解釈が必要です。縦断的研究の実施により、教師教育の真の効果をより確実に検証することができるでしょう。
また、質問紙調査という方法論的選択は、大規模データ収集という利点を提供する一方で、信念の複雑性や文脈依存性を十分に捉えきれない可能性があります。信念は部分的に無意識レベルで保持されることがあり、自己報告による測定には限界があります。
文化的・制度的文脈の特殊性
この研究はオランダの教育制度という特定の文脈で実施されており、結果の一般化可能性については慎重な検討が必要です。オランダの複線型中等教育制度(VMBO、HAVO、VWO)は他国とは異なる特徴を持ち、学習者レベルに関する発見の解釈には文化的要因を考慮する必要があります。
また、オランダの教師教育における理論的重点の置き方が、観察された信念変化パターンに特有の影響を与えている可能性も考慮すべきです。異なる教育文化における比較研究により、より普遍的な知見を得ることができるでしょう。
理論と実践の乖離
研究結果は、第二言語習得研究の知見と実践者の直観的判断の間に重要な乖離があることを示しています。特に、文法項目難易度に関する学生教師の信念は、実証的証拠と矛盾しています。この乖離は、研究知見の教育現場への伝達における課題を示唆しています。
効果的な教師教育のためには、単なる理論的知識の伝達ではなく、実践的経験と研究知見を統合する方法論の開発が必要です。また、実践者の直観的判断の背景にある論理を理解し、それに基づいた教育的介入を設計することが重要でしょう。
信念と実践の関係
この研究は信念を測定していますが、実際の教室実践との関係については直接的な証拠を提供していません。先行研究では信念と実践の不一致が頻繁に報告されており、特に経験の浅い教師においてその傾向が強いことが知られています。
信念研究の真の価値は、それが実際の教育実践の改善にどの程度貢献できるかにあります。今後の研究では、信念形成プロセスと実践変化の関係をより詳細に検討し、効果的な教師教育戦略の開発に資する知見を提供することが期待されます。
評価と測定の課題
四つの構成概念ペア間の高い相関は、理論的精緻化と実用的測定の間の緊張関係を示しています。実践者の認識をより正確に反映する測定枠組みの開発が必要かもしれません。
また、信念の動的性質を捉えるための方法論的革新も求められます。信念は静的な認知構造ではなく、文脈や経験に応じて変化する動的なシステムです。この複雑性を適切に捉える研究手法の開発は、教師認知研究の重要な課題です。
教師教育への示唆
この研究の発見は、教師教育の設計と実施に重要な示唆を提供します。まず、学生の既存信念を明確化し、それらの起源を検討する反省的活動の重要性が示されます。特に、中等学校時代の学習経験が信念形成に与える長期的影響を考慮した教育的介入が必要です。
また、学習者レベルや文法項目難易度に関する学生の信念を明示的に検討し、研究知見との照合を通じて批判的思考を促進することが重要です。単なる代替的概念の提示ではなく、既存信念の合理性を検証し、証拠に基づく判断能力を育成することが求められます。
大学院生の信念が教育経験に強く影響されることを踏まえると、経験と理論の統合を促進する教育方法の開発が急務です。実践共同体における省察的対話や、研究知見と実践経験の体系的比較などが有効なアプローチとなるでしょう。
この研究は、言語教師の信念研究における重要な貢献をなしており、今後の研究と実践の発展に向けた堅実な基盤を提供しています。複雑な教育現象を扱う際の方法論的課題は残されているものの、大規模調査による実証的証拠の蓄積は、より効果的な教師教育の実現に向けた重要な一歩と位置づけることができます。
Graus, J., & Coppen, P.-A. (2016). Student teacher beliefs on grammar instruction. Language Teaching Research, 20(5), 571–599. https://doi.org/10.1177/1362168815603237