はじめに:なぜ言語習得研究に多様性が必要なのか
世界には7000を超える言語が存在し、それぞれが独自の音韻体系、文法構造、語彙体系を持っています。しかし、子どもたちはこうした多様な言語環境の中でも、生まれ育った言語を自然に習得していきます。この驚くべき能力を理解することは、心理学や言語学の長年の目標でした。
しかし現実には、言語習得に関する研究の大部分が英語を学ぶ子どもたちを対象としており、世界の言語的多様性を十分に反映していません。この状況に警鐘を鳴らし、より包括的な研究アプローチを提案したのが、コーネル大学のモルテン・クリスチャンセン教授らが2022年に発表した論文”Toward a comparative approach to language acquisition”です。
本論文は、現在の言語習得研究が抱える根本的な問題を明確に指摘し、3段階の比較研究アプローチを通じて、より普遍的な言語習得理論の構築を目指すものです。この研究が提起する問題は、単に学術的な関心にとどまらず、教育政策や言語教育実践にも重要な示唆を与えています。
筆者紹介と研究背景
本論文の筆頭著者であるモルテン・クリスチャンセン教授は、コーネル大学とオーフス大学、ハスキンス研究所に所属する著名な認知科学者です。彼は言語習得と処理に関する計算論的アプローチの専門家として知られ、特に統計的学習や使用基盤の言語理論において多くの貢献をしています。
共著者のパブロ・コントレラス・カレンス氏はコーネル大学の研究者であり、ファビオ・トレッカ氏はオーフス大学に所属しています。トレッカ氏は特に北欧言語の習得に関する研究で知られており、本論文でも重要な事例として取り上げられているデンマーク語習得の研究に深く関わっています。
この研究が発表された背景には、近年の心理学における再現性危機と、研究対象の多様性の問題があります。2010年にヘンリッチらが提起したWEIRD(西洋の、教育を受けた、工業化された、裕福で、民主的な)人口への偏重問題は、心理学全般に大きな影響を与えました。言語習得研究も例外ではなく、むしろその影響は特に深刻であることが明らかになっています。
英語偏重の実態:データが示す深刻な偏り
クリスチャンセンらは、言語習得研究における英語偏重の実態を3つの異なるデータソースから定量的に示しています。この分析手法は説得力があり、問題の深刻さを数値で明確に表現しています。
まず、言語習得研究で広く使用されているCHILDESデータベースの分析では、全5500万語のうち43.7%が英語で占められていることが判明しました。他のゲルマン語族とロマンス語族の言語がそれぞれ15.3%と13.2%に過ぎないことを考えると、英語の圧倒的な優位性は明らかです。残りの言語は合計しても27.7%にしかならず、世界の言語的多様性がいかに研究に反映されていないかがわかります。
次に、大規模な国際共同研究であるManyBabies研究の参加者分析では、2850人の乳児のうち60.7%が英語学習者でした。この研究は67の研究室が参加する大規模なものでしたが、それでもなお英語学習者が6割を占めるという結果は、研究コミュニティ全体の偏りを如実に示しています。
最も印象的なのは、主要な言語習得関連学術誌における掲載論文の分析です。キッドとガルシアによる2021年の調査では、4つの主要ジャーナルに掲載された2830本の実証研究のうち、54.3%が英語を対象としていました。これは半世紀近くにわたる蓄積された知識の半分以上が、世界人口の一部が話す単一の言語に基づいているということを意味します。
提案された3段階比較アプローチの検討
粗い比較:理論の妥当性を問う
第一段階の「粗い比較」は、文化的に大きく異なる言語間での比較を通じて、広範な理論的主張を検証することを目的としています。論文では、WEIRDな言語と非WEIRDな言語間での子ども向け発話(child-directed speech)の量と言語発達の関係を例に取り上げています。
興味深いことに、従来の研究では、保護者からの直接的な発話量が多いほど子どもの言語発達が促進されるとされてきました。しかし、パプアニューギニアのロッセル島で話されているイェーリー・ドニェ語を学ぶ子どもたちは、大人からの直接的な発話が少ないにもかかわらず、北米や欧州、日本の子どもたちと同様の時期に言語的里程標を達成していることが明らかになりました。
この発見は、言語習得における環境要因の理解を根本から見直す必要性を示しています。単純に「発話量が多いほど良い」という仮説は、特定の文化的文脈に限定された現象である可能性が高く、より普遍的な理論の構築が求められます。
細かい比較:言語特性の影響を探る
第二段階の「細かい比較」では、系統的に近い言語間での比較を通じて、特定の言語特性が習得に与える影響を詳細に検討します。論文で取り上げられているスカンジナビア3カ国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)の比較研究は、この手法の有効性を示す代表例です。
これらの国々は文化的、社会経済的に極めて類似しており、3つの言語も歴史的、類型論的に密接な関係にあります。書き言葉については相互理解が可能なほど似ています。しかし驚くべきことに、デンマーク語を学ぶ子どもたちは、ノルウェー語やスウェーデン語を学ぶ子どもたちと比較して、0歳から8歳の期間において語彙や文法の習得が遅れることが確認されています。
この差異の原因として、デンマーク語の音韻的特性が指摘されています。デンマーク語は他の北欧言語と比較して音韻的に不明瞭で、音素の区別が困難な傾向があります。実際、デンマーク語を母語とする子どもたちでさえ、この言語の処理に困難を示すことが実験的に証明されています。
この研究は、言語の具体的な特性が習得過程に与える影響を明確に示しており、言語間の表面的な類似性に惑わされない詳細な分析の重要性を教えています。また、この影響は成人期まで持続し、母語話者の言語処理システムの組織化にも独特な影響を与える可能性が示唆されています。
言語内比較:社会的文脈の多様性
第三段階の「言語内比較」は、同一言語内での社会的・コミュニケーション的環境の違いが言語習得に与える影響を検討します。この観点は従来の比較研究でしばしば見落とされてきましたが、言語が本質的に社会的な現象であることを考えると極めて重要です。
論文では、アメリカにおける「3000万語格差」問題を詳細に検討しています。ハートとリズリーの1995年の研究では、4歳までに低所得家庭の子どもは約1300万語を聞くのに対し、高所得家庭の子どもは約4500万語を聞くとされました。この格差は語彙サイズの差異と関連し、その後の学業成績にも影響を与えるとされています。
しかし、より最近の研究では、この格差の実態はより複雑であることが明らかになっています。ギルカーソンらの2017年の研究では、実際の格差は400万語程度であり、3000万語という数字は上位2%と下位2%の極端な比較から生まれたものでした。
さらに重要な発見は、直接的な子ども向け発話だけでなく、子どもが聞く総合的な言語入力を考慮すると、格差が消失するという事実です。スペリーらの研究では、貧困地域の黒人コミュニティの子どもたちは、立ち聞きする会話を含めた総合的な言語入力量では、高所得層の子どもたちを上回っていることが示されました。
批判的検討:アプローチの有効性と限界
クリスチャンセンらの提案する3段階比較アプローチは理論的に優れており、現在の研究の偏りを是正する有効な手段となり得ます。しかし、いくつかの重要な課題と限界も指摘できます。
まず、実践的な課題として、非WEIRD言語での研究実施の困難さがあります。多くの言語には標準的な表記体系がなく、話者数が少ない言語も多く存在します。研究インフラが整っていない地域での長期的な発達研究は、技術的にも倫理的にも多くの困難を伴います。
また、比較研究において文化的バイアスを完全に排除することは困難です。研究手法自体がWEIRDな学術文化から生まれたものであり、異なる文化的価値観を持つコミュニティにそのまま適用することの妥当性については慎重な検討が必要です。
さらに、3段階のアプローチは互いに補完的である一方、それぞれが異なる理論的前提に基づいています。粗い比較は文化的普遍性を探求するのに対し、細かい比較は言語特性の影響を重視し、言語内比較は社会的文脈を強調します。これらの異なる観点を統合する包括的な理論枠組みの構築は今後の重要な課題です。
社会的・教育的含意
本論文の提起する問題は、純粋な学術的関心を超えて、教育政策や言語教育実践に重要な示唆を与えています。
特に「3000万語格差」の再検討は、教育政策の方向性に大きな影響を与える可能性があります。従来の介入プログラムは、中流階級の白人家庭の子育て方式を理想モデルとして、すべての家庭にその実践を奨励してきました。しかし、立ち聞きや観察を通じた学習など、異なる学習スタイルの有効性が示されることで、より多様な教育アプローチの価値が認識されつつあります。
また、多言語社会における言語政策にも重要な視点を提供します。デンマーク語の事例が示すように、表面的に類似した言語であっても、習得の困難さは大きく異なる可能性があります。これは、少数言語の維持や第二言語教育において、言語固有の特性を考慮した個別的なアプローチの必要性を示唆しています。
研究手法の評価と今後の展望
本論文の研究手法は概ね適切であり、特にデータの定量的分析は説得力があります。CHILDESデータベース、ManyBabies研究、学術誌掲載論文という3つの独立したデータソースから一貫した結果を得ていることは、英語偏重という問題の実在性を強く支持しています。
しかし、いくつかの方法論的な課題も指摘できます。まず、WEIRD/非WEIRD という二分法的な分類には限界があります。フランス語やスペイン語など、WEIRD国家で話される言語が非WEIRD国家でも話されている場合の分類は曖昧です。また、言語系統や地理的分布を考慮したより精緻な分類システムの開発が求められます。
さらに、提案された比較アプローチの有効性を実証するための大規模な縦断研究が必要です。理論的な枠組みの提案にとどまらず、実際の研究実施を通じてその有用性を検証することが今後の重要な課題となります。
学際的な意義と波及効果
本論文の意義は言語習得研究にとどまりません。文化人類学、発達心理学、教育学など、幅広い分野に影響を与える可能性があります。
特に、研究における多様性の重要性を定量的に示したことは、他の研究分野でも参考になる手法です。WEIRD偏重の問題は心理学全般に共通する課題であり、本論文のアプローチは他分野での類似研究のモデルとなり得ます。
また、グローバル化が進む現代において、文化的多様性を尊重しながらも普遍的な知識を追求するという科学的態度の模範を示しています。単純な西洋中心主義への批判を超えて、建設的な代替案を提示している点は高く評価できます。
技術的進歩との関連
近年のデジタル技術の発展は、本論文が提起する課題の解決に新たな可能性をもたらしています。自動音声認識技術や機械学習の進歩により、従来は研究が困難だった言語での大規模なデータ収集が可能になりつつあります。
また、オンライン研究プラットフォームの普及により、地理的制約を超えた国際共同研究が容易になっています。COVID-19パンデミック期間中に発達したリモート研究手法は、非WEIRD地域での研究実施の新たな可能性を示しています。
ただし、技術的解決策にも限界があります。デジタル格差の問題や、技術的ツールの文化的適合性など、新たな課題も生まれています。技術の活用と文化的配慮のバランスを取ることが重要です。
倫理的考慮事項
言語習得研究における多様性の追求は、重要な倫理的問題を提起します。特に、研究者と研究対象コミュニティとの間の権力関係や、研究成果の還元方法について慎重な検討が必要です。
従来の植民地主義的な研究アプローチを避け、コミュニティベースの参加型研究手法の発展が求められています。研究の設計から実施、結果の解釈まで、当該コミュニティのメンバーが主体的に参加できる仕組みの構築が重要です。
また、研究結果の解釈や応用において、文化的相対主義と科学的客観性のバランスを取ることも重要な課題です。文化的多様性を尊重しながらも、偽科学や有害な実践を正当化することなく、建設的な知識の蓄積を目指す必要があります。
結論:多様性がもたらす知識の豊かさ
クリスチャンセンらの論文は、言語習得研究における重要な転換点を示しています。英語偏重という現状の問題を明確に示し、具体的な解決策を提案した点で大きな貢献をしています。
提案された3段階比較アプローチは理論的に一貫しており、実際の研究事例を通じてその有効性が示されています。特に、デンマーク語習得の事例は、表面的に類似した言語間でも重要な差異が存在することを明確に示しており、細かい比較アプローチの価値を実証しています。
しかし、このアプローチの実装には多くの実践的課題があることも事実です。研究リソースの制約、文化的バイアスの問題、倫理的配慮など、解決すべき課題は山積しています。
それでも、言語的多様性を活かした研究アプローチの発展は、人間の言語能力についてより深く、より普遍的な理解をもたらす可能性を秘めています。世界の7000を超える言語は、人類のコミュニケーション能力に関する壮大な自然実験の結果です。これらの実験から得られる知見を十分に活用することで、言語習得の普遍的メカニズムとその多様な現れ方についての理解が深まることでしょう。
本論文が提起した問題意識と提案したアプローチは、今後の言語習得研究の発展に重要な方向性を示しています。研究者コミュニティがこの提案を真摯に受け止め、実践していくことで、より包括的で普遍的な言語習得理論の構築が期待されます。
Christiansen, M. H., Contreras Kallens, P., & Trecca, F. (2022). Toward a comparative approach to language acquisition. Current Directions in Psychological Science, 31(2), 131–138. https://doi.org/10.1177/09637214211049229