はじめに
グローバル化が進む現代社会において、英語は世界共通語としての地位を確立し、母語話者よりも非母語話者の方が圧倒的に多い言語となっています。このような状況下で、英語教育や英語能力測定のあり方について根本的な見直しが求められているのではないでしょうか。今回取り上げるクリストファー・J・ホール氏による論文”Moving beyond accuracy: from tests of English to tests of ‘Englishing'”は、まさにこの問題に正面から取り組んだ意欲的な研究です。
この論文は、従来の英語テストが前提としている「標準英語」という概念に疑問を投げかけ、英語の多様性を認めた新しいテスト観を提案しています。ホール氏は、現在の英語テストが測定している「正確性」が実際の言語使用の現実と乖離していることを指摘し、「英語のテスト」から「英語を使うことのテスト」への転換を主張しています。
筆者と研究背景の紹介
クリストファー・J・ホール氏は、イギリスのヨーク・セント・ジョン大学で応用言語学の准教授および上級講師を務める研究者です。1987年に南カリフォルニア大学で言語学の博士号を取得し、1990年から2007年まではメキシコのアメリカス大学で英語教育と応用言語学を教えていました。著書に『言語学入門:言語の呪縛を解く』(2005年)、『応用言語学の地図』(2011年)、『言語使用入門』第2版(2014年)などがあり、2013年には英国文化院の資金援助を受けたオンライン教材「変化する英語:教師のためのインタラクティブコース」を公開しています。
ホール氏の研究は、言語の多様性と変化に焦点を当てた社会言語学的アプローチを特徴としており、特に「言語の呪縛」という概念を通じて、私たちが言語について抱いている固定観念を問い直すことに力を注いでいます。この論文も、そうした一連の研究の延長線上に位置づけることができます。
論文の主要な主張の整理
ホール氏の論文の核心は、現在の英語テストが前提としている「一枚岩的」な英語観の問題点を指摘し、「多石的」な英語観への転換を提案することにあります。
従来の英語テストは、「標準英語」という単一の規範が存在し、すべての学習者がその規範に近づくことを目標とするという考え方に基づいています。この考え方では、正確性は単一の基準によって測定され、その基準から逸脱したものは「間違い」として扱われます。しかし、ホール氏はこのような見方に対して、認知的観点と社会的観点の両方から異議を唱えています。
認知的観点からは、大部分の成人学習者にとって「ネイティブレベル」の標準英語の習得は実際には不可能であり、学習者は必然的に独自の言語資源を発達させるものだと主張しています。社会的観点からは、実際の母語話者の言語使用は標準英語の規範から逸脱することが多く、また現在の英語使用の多くは非母語話者同士のコミュニケーションであることを指摘しています。
これらの問題を解決するため、ホール氏は「英語のテスト」から「英語を使うことのテスト」への転換を提案しています。つまり、学習者が標準英語にどの程度準拠しているかを測定するのではなく、特定の状況で英語を使って何ができるかを評価すべきだということです。
認知的観点からの検討
ホール氏が提起する認知的な問題は、言語学習の本質に関わる重要な指摘です。従来の語学教育では、学習者が外部に存在する「目標言語」を頭の中に複製することが学習の本質だと考えられてきました。しかし、実際の言語習得プロセスはもっと複雑で動的なものです。
特に説得力があるのは、ベルファストの子どもたちの言語使用例です。この地域の子どもたちは、標準英語では「Shall I…?」が正しいとされる文脈で「Will I…?」という形を自然に使用しています。例えば「Will I show you what I can do?」(私がやってみせましょうか?)といった具合です。標準英語の規範に従えば、これは「間違い」ということになりますが、その地域の母語話者コミュニティでは完全に自然で適切な表現です。
この例は、言語習得が単純な模倣ではなく、学習者が置かれた言語環境での実際の使用を通じて独自のシステムを構築するプロセスであることを示しています。学習者は教師や教科書から提示される「標準的」な形だけでなく、同級生や地域社会、インターネット上のコミュニケーションなど、さまざまな源泉から言語を吸収します。その結果として形成される言語能力は、必然的に教室で教えられる標準英語とは異なるものになります。
現在の脳科学研究も、この主張を支持しています。自然に習得された言語知識(手続き記憶)と、教室で学んだ言語知識(宣言記憶)は、脳の異なる部位に貯蔵され、異なる方法で処理されることが分かっています。多くの学習者にとって、教室で学んだ標準英語の形は意識的な注意を必要とする知識にとどまり、自動的で流暢な言語使用には結びつかないのです。
社会的観点からの検討
ホール氏の社会的観点からの批判も重要な問題提起です。現在の英語テストの多くは、母語話者の能力を最高基準とし、すべての学習者がその基準に近づくことを目標とする設計になっています。しかし、この前提にはいくつかの問題があります。
まず、「母語話者の英語」と「標準英語」は必ずしも一致しないということです。前述のベルファストの例のように、多くの母語話者は日常的に標準英語の規範から逸脱した形を使用しています。また、地域による言語変化も無視できません。アメリカ南部、スコットランド、オーストラリア、インドなど、英語が公用語として使われている地域では、それぞれ独特の言語的特徴があります。これらをすべて「間違い」として扱うのは妥当でしょうか。
さらに重要なのは、現在の英語コミュニケーションの大部分が非母語話者同士で行われているという事実です。国際ビジネス、学術会議、インターネット上の交流など、多くの場面で英語は異なる母語を持つ人々の共通言語として機能しています。このような文脈では、完璧な文法よりも、相手に意図が伝わり、円滑なコミュニケーションが成立することの方が重要です。
国際共通語としての英語(English as a Lingua Franca, ELF)研究が示すところによると、非母語話者同士のコミュニケーションでは、標準英語の規範から逸脱した形であっても、参加者全員が理解できる限り問題は生じません。むしろ、母語話者特有の慣用表現や文化的な言い回しの方が、理解の妨げになることも多いのです。
提案されている解決策の評価
ホール氏は具体的な代替案として、「英語を使うこと」(Englishing)のテストへの転換を提案しています。この考え方の実例として紹介されているのが、Test of Interactive English(TIE)です。
TIEでは、受験者が自分で選択したプロジェクト(ニュース記事の追跡調査、興味のあるトピックの研究など)について話したり書いたりすることが求められます。また、他の受験者との自発的な問題解決課題も含まれています。このテストの特徴は、受験者が「何ができるか」を評価する点にあります。
このアプローチには確かに魅力があります。学習者の実際のニーズや興味に基づいた評価は、より現実的で有意義な能力測定につながる可能性があります。また、コミュニケーション能力を重視することで、実用的な英語能力の発達を促進することも期待できます。
しかし、ホール氏も認めているように、TIEでも完全に従来の評価基準から脱却できているわけではありません。文法の「正確で適切な使用」が評価項目に含まれており、実際の採点例でも「variety of options to choose」という表現が「from」の欠如により減点対象とされています。意味が完全に通じるにも関わらず、標準英語の規範に合わないという理由での減点です。
批判的考察
ホール氏の論文は重要で示唆に富む問題提起を行っていますが、いくつかの課題も指摘できます。
第一に、実用性の問題があります。現在の教育制度や社会システムは、ある程度標準化された言語能力の測定を前提として構築されています。大学入試、就職試験、移民審査など、多くの場面で英語能力の客観的評価が求められており、完全に主観的で状況依存的な評価に移行することは困難でしょう。
第二に、公平性の問題があります。学習者のバックグラウンドや興味に基づいた評価は、確かにより個人的で意味のあるものになりますが、同時に比較可能性を損なう恐れがあります。進学や就職において、異なる基準で評価された能力をどのように比較すればよいでしょうか。
第三に、標準英語の価値を完全に否定することの妥当性も疑問です。標準英語は確かに人工的で権威主義的な側面がありますが、同時に異なる地域や社会階層の人々が相互理解を図るための重要な共通基盤でもあります。特に学術的文章や公式文書などの文脈では、標準的な形式への習熟が不可欠です。
第四に、教師や教育機関への影響も考慮する必要があります。「正確性」を重視しない評価への転換は、従来の教育方法や教材の大幅な見直しを必要とします。多くの教師にとって、これは大きな挑戦となるでしょう。
しかしながら、これらの課題があるからといって、ホール氏の主張を完全に否定すべきではありません。むしろ、これらの問題は段階的な改革を通じて解決していくべきものかもしれません。
代替的な視点と補完的アプローチ
ホール氏の提案を完全に採用することは困難でも、その精神を部分的に取り入れることは可能です。例えば、以下のような補完的アプローチが考えられます。
まず、評価の多元化です。単一の標準に基づく評価だけでなく、様々な英語変種や使用文脈を考慮した複数の評価軸を設けることができます。学術英語、ビジネス英語、日常会話英語、国際コミュニケーション英語など、目的に応じた異なる評価基準を併用することで、学習者の多様なニーズに対応できます。
次に、文脈の重視です。言語能力を抽象的な文法知識として測定するのではなく、特定の文脈での実際の言語使用として評価することで、より現実的で有用な測定が可能になります。
さらに、受容的態度の育成も重要です。異なる英語変種に対する寛容性や、非母語話者同士のコミュニケーションにおける効果的な方略の習得を評価項目に含めることで、グローバル時代に求められる言語能力を測定できます。
言語政策への示唆
ホール氏の論文は、英語テストの問題にとどまらず、より広い言語政策の問題にも重要な示唆を提供しています。
英語が国際共通語として機能する現在、各国の英語教育政策も見直しが必要かもしれません。従来のような「ネイティブレベル」を目標とした教育から、実際のコミュニケーション場面で求められる能力の育成へと重点を移すことが考えられます。
また、多言語主義の観点からも、この論文の主張は重要です。英語の多様性を認めることは、同時に他の言語の価値を認めることにもつながります。単一の「正しい」英語を強制することは、言語的多様性を損なう危険性があります。
技術的発展との関連
近年の技術発展も、ホール氏の主張に新たな意味を与えています。人工知能による機械翻訳の精度向上は、完璧な英語能力の必要性を相対的に低下させる可能性があります。また、音声認識技術の発達により、様々なアクセントや方言の英語も平等に扱われるようになりつつあります。
さらに、オンライン教育プラットフォームの普及により、世界中の多様な英語話者と接触する機会が増えています。このような環境では、標準英語だけでなく、様々な変種の英語を理解し、適応する能力がより重要になります。
教育現場への実践的提案
ホール氏の論文から、教育現場に対していくつかの実践的な提案を導き出すことができます。
まず、評価の多様化です。従来の文法テストや語彙テストに加えて、実際のコミュニケーション場面を想定したタスクベースの評価を取り入れることが考えられます。例えば、プレゼンテーション、ディスカッション、問題解決活動などを通じて、学習者の実践的な言語使用能力を評価するのです。
次に、誤用に対する寛容的な態度の育成です。「間違い」を単純に否定するのではなく、コミュニケーションの成功度に応じて評価することで、学習者の自信と動機を高めることができます。
さらに、多様な英語への露出機会の増大も重要です。教材や音声資料において、様々な地域や社会層の英語を取り入れることで、学習者の言語的寛容性を育成できます。
まとめ
クリストファー・J・ホール氏の論文”Moving beyond accuracy: from tests of English to tests of ‘Englishing'”は、英語教育とテストのあり方について根本的な問い直しを促す重要な研究です。標準英語への準拠を重視する従来のアプローチに対して、言語の多様性と実用性を重視する新しい視点を提示しています。
ホール氏の主張の核心は、言語が静的で単一な実体ではなく、動的で多様な社会的実践であるという認識にあります。この観点から見れば、英語テストが測定すべきは「正しい英語」の知識ではなく、多様な文脈で英語を効果的に使用する能力ということになります。
認知科学と社会言語学の研究成果に基づいたこの主張は、多くの点で説得力があります。特に、母語話者の実際の言語使用と標準英語の規範との乖離、非母語話者同士のコミュニケーションにおける英語の役割、言語習得の動的で個人的な性質などについての指摘は、現在の英語教育の問題点を浮き彫りにしています。
しかし同時に、この論文の提案を完全に実現することには多くの困難が伴うことも事実です。現在の教育制度や社会システムとの整合性、評価の公平性や比較可能性の確保、教育現場での実践可能性など、解決すべき課題は少なくありません。
それでもなお、この論文が提起する問題意識は極めて重要です。グローバル化が進む現代社会において、言語教育のあり方を再検討することは不可欠の課題です。ホール氏の提案を完全に採用することは困難でも、その精神を部分的に取り入れることで、より現実的で有効な英語教育を実現することは可能でしょう。
最終的に、この論文の最大の価値は、私たちが当然視している「正確性」や「標準性」について批判的に考察する機会を提供している点にあります。言語とは何か、学習とは何か、評価とは何かという根本的な問いに対して、新しい視点からの回答を模索する出発点として、この研究は大きな意義を持っています。
今後の英語教育研究においては、ホール氏の提起した問題を踏まえつつ、理論と実践の両面からさらなる検討を進めていくことが求められるでしょう。言語の多様性を認めながらも、教育の公平性と有効性を確保する方法を見出すことが、次の課題となります。
Hall, C. J. (2014). Moving beyond accuracy: From tests of English to tests of ‘Englishing’. ELT Journal, 68(4), 376-385. https://doi.org/10.1093/elt/ccu016