はじめに:言語学習の複雑さを理解する

第二言語を学ぶということは、私たちが想像する以上に複雑な過程です。英語を学ぶ日本人学習者を例に考えてみましょう。同じ教室で同じ教師から同じ内容を学んでいても、学習者によって習得の速度や質は大きく異なります。ある学習者は文法規則をすぐに理解できる一方で、別の学習者は会話により長けているかもしれません。このような違いはなぜ生まれるのでしょうか。

Language Teaching Research誌2017年第21巻第5号に掲載されたHossein Nassaji氏の編集論文”Language instruction and language acquisition: A complex interplay”は、まさにこの疑問に答えようとする重要な論考です。わずか3ページという短い論文ながら、第二言語習得における指導の複雑さと、それを理解するための理論的枠組みを提供しています。

筆者の背景と研究の位置づけ

Hossein Nassaji氏は、カナダのビクトリア大学に所属する著名な応用言語学者です。第二言語習得研究、特に言語指導の効果に関する研究分野において長年にわたって貢献してきました。Language Teaching Research誌の編集者という立場から、この論文では同号に掲載された5つの研究論文を紹介しながら、言語指導研究の現状と課題について論じています。

この論文が発表された2017年は、第二言語習得研究において重要な転換期でした。従来の単純な「指導の有無」を問う研究から、より細分化された「どのような指導がどのような学習者にとって効果的なのか」を探る研究へと関心が移行していた時期です。Nassaji氏の論文は、このような学問的潮流を反映した内容となっています。

言語指導の多面性:明示的指導と暗示的指導

本論文の核心は、言語指導が単一の現象ではなく、多面的で複雑な営みであるという認識です。Nassaji氏は指導を複数の軸で分類しています。

まず、明示的指導と暗示的指導の区別について考えてみましょう。明示的指導とは、文法規則を直接的に説明する指導方法です。例えば、英語の現在完了形について「have/has + 過去分詞で表現し、過去の経験や継続する状態を表す」と明確に説明する方法です。一方、暗示的指導では、学習者が自然に規則に気づくような環境を作ります。現在完了形を含む多くの例文を提示し、学習者が自然にそのパターンを発見することを促すのです。

この区別は単純に見えますが、実際の教室では両者が混在していることが多いのです。優秀な教師は、学習者の理解度や学習スタイルに応じて、明示的説明と暗示的な気づきを巧妙に組み合わせています。Nassaji氏の指摘は、こうした教師の直感的な判断が実は深い理論的基盤を持っていることを示唆しています。

次に、形式的指導と非形式的指導の区別も重要です。形式的指導は教室で行われる構造化された学習を指しますが、非形式的指導は職場や家庭など、日常生活の中で起こる学習を意味します。日本の英語学習者を例に取ると、学校での授業は形式的指導にあたりますが、海外ドラマを見たり、外国人の友人と会話したりすることは非形式的指導の範疇に入ります。

学習者要因の複雑な相互作用

Nassaji氏が特に強調しているのは、指導の効果が学習者の個人差によって大きく左右されるという点です。年齢、動機、態度、適性、既存の言語能力など、さまざまな要因が複雑に絡み合って学習結果を決定します。

年齢要因を考えてみると、一般的に若い学習者ほど言語習得能力が高いとされていますが、これは単純な話ではありません。確かに発音や文法の自動化においては若い学習者に利があるかもしれませんが、大人の学習者は既存の知識や経験を活用して効率的に学習できる場合もあります。また、大人の学習者の方が明示的な指導に対してより良い反応を示すことも知られています。

動機の要因はさらに複雑です。統合的動機(その言語を使う文化に馴染みたいという動機)と道具的動機(就職や昇進のために言語を学ぶという動機)の区別は古典的ですが、現代の学習者の動機はより多様化しています。オンラインコミュニティでの交流、エンターテインメントの享受、自己実現など、従来の枠組みでは捉えきれない動機が存在します。

紹介研究の批判的検討

Nassaji氏は同号掲載の5つの研究を紹介していますが、それぞれについて建設的な批判も展開しています。この批判的姿勢は学術的な厳密性を保つ上で重要です。

Tragant らの研究では、サマーキャンプでの非形式的学習と語学学校での形式的学習を比較しています。興味深い発見は、両方の環境が同程度の学習効果を示したことです。しかし、Nassaji氏の指摘によれば、この研究の価値は単純な優劣の比較ではなく、異なる学習環境がそれぞれ独自の利点を持つことを示した点にあります。

Prosic-Santovac の症例研究は、4歳の学習者が18か月間にわたってアニメーション番組を通じて英語を学習する過程を追跡しました。この研究の強みは長期的な観察にありますが、Nassaji氏は一人の学習者からの一般化には慎重であるべきだと警告しています。特に、この学習者が恵まれた家庭環境にいたという事実を考慮すると、同じ効果が異なる社会経済的背景の学習者にも期待できるかは疑問です。

超分節的特徴への注目

音韻研究に関する二つの研究について、Nassaji氏は「超分節的特徴」への注目を高く評価しています。これは専門用語ですが、簡単に説明すると、個別の音素(aやbといった音)ではなく、ストレス、リズム、イントネーションといった、より大きな音の単位に関わる特徴のことです。

日本人英語学習者にとって、これは特に重要な指摘です。日本語と英語では音韻体系が大きく異なり、特にストレスやリズムの違いが日本人話者の英語を「日本人らしい」英語にしています。従来の発音指導では個別の音の矯正に重点が置かれがちでしたが、これらの研究は音韻の全体的なパターンの重要性を示しています。

Saito & Saito の研究は、超分節的特徴に焦点を当てた指導が理解しやすさの向上に効果があることを示しました。ただし、Nassaji氏が指摘するように、この研究では朗読課題のみが使用されており、自発的な会話における効果は不明です。これは重要な限界点です。なぜなら、実際のコミュニケーションでは、学習者は事前に準備された文章を読むのではなく、その場で考えながら話す必要があるからです。

身体動作と言語学習の関係

Gluhareva & Prieto の研究は、身体動作(ジェスチャー)が英語のリズム習得に与える効果を調べました。この研究は比較的新しい研究分野である「身体化された認知」の視点から言語学習を捉えています。

私たちは普段、言語学習を主に頭の中で行う知的活動と考えがちです。しかし、実際には身体全体が学習過程に関わっています。例えば、英語のリズムを手でビートを取りながら練習することで、より効果的に身につけることができるという考え方です。

この研究の興味深い発見は、身体動作の効果が課題の難易度によって異なることです。簡単な項目よりも難しい項目において、身体動作の効果がより顕著に現れました。これは、学習者が困難に直面したときに、身体動作が追加的な支援を提供することを示唆しています。

教師教育の重要性

最後に紹介されているDavin らの研究は、教師教育の効果を扱っています。動的評価(Dynamic Assessment)という比較的新しい評価手法の研修を受けた教師たちが、実際にどの程度その手法を授業に取り入れるかを調べました。

この研究が重要なのは、優れた指導法が存在しても、それが教師によって適切に実施されなければ効果がないという当然の事実を実証的に示した点です。研修の効果は教師によって異なり、全ての教師が同じように新しい手法を取り入れるわけではありませんでした。

これは日本の英語教育現場にも大きな示唆を与えます。文部科学省が推進するコミュニケーション重視の指導法も、教師がそれを十分に理解し、実践できなければ期待される効果は得られません。教師教育の継続的な重要性が浮き彫りになります。

理論的貢献と学術的意義

Nassaji氏の論文の理論的貢献は、第二言語習得における指導研究の複雑さを体系的に整理した点にあります。従来の研究では、指導の有無や特定の指導法の効果を単純に比較することが多かったのですが、この論文は指導を多次元的に捉える枠組みを提供しています。

特に重要なのは、指導の効果が文脈や学習者要因と複雑に相互作用するという視点です。これは実務家にとっては当然の認識かもしれませんが、研究においてはしばしば見落とされがちな側面でした。Nassaji氏の整理により、今後の研究がより現実的で包括的な視点を持つための理論的基盤が提供されました。

また、この論文は異なる研究デザイン(実験研究、症例研究、観察研究など)の価値をそれぞれ認めながらも、各手法の限界を率直に指摘しています。これは研究方法論に対する成熟した態度を示しており、若手研究者にとって重要な示唆となります。

実践的意義と教育現場への示唆

この論文の実践的価値は、教育現場の複雑さを理論的に裏付けた点にあります。多くの教師が経験的に知っていることを学術的言語で明確化し、それに基づいて今後の実践や研究の方向性を示しています。

例えば、明示的指導と暗示的指導の使い分けについて、教師は直感的にバランスを取っていますが、この論文はその判断に理論的根拠を与えます。また、学習者の個人差を考慮した指導の必要性についても、単なる経験談ではなく研究に基づく提言として位置づけられています。

日本の英語教育政策に対しても重要な示唆があります。一律的な指導法の導入よりも、多様な指導法を教師が状況に応じて選択できる環境の整備が重要であることが示唆されます。また、教師教育においても、特定の手法の技術的習得だけでなく、学習者要因や文脈要因を総合的に判断する能力の育成が必要であることが分かります。

限界と今後の課題

短い編集論文という性質上、Nassaji氏の論文にもいくつかの限界があります。最も大きな限界は、提示された理論的枠組みが概念的レベルにとどまっていることです。具体的にどのような条件下でどの指導法が効果的なのかについては、今後の実証研究が必要です。

また、紹介されている研究の多くが小規模であり、一般化可能性には疑問が残ります。特に症例研究については、Nassaji氏自身も指摘しているように、個別的な発見を一般的な原則として扱うことの危険性があります。

さらに、この論文で扱われている研究は主に欧米の研究であり、アジアの学習者を対象とした研究は含まれていません。日本人学習者のような、印欧語族以外の母語を持つ学習者にとって、同じ原則が適用できるかは別途検証が必要です。

技術的な側面についても言及が不足しています。2017年時点でも既にオンライン学習やコンピューター支援言語学習が普及していましたが、これらのテクノロジーが指導にどのような変化をもたらすかについては十分に議論されていません。

研究方法論上の考察

Nassaji氏が紹介している研究群は、研究方法論の多様性を示している点でも価値があります。実験研究、準実験研究、症例研究、観察研究など、異なるアプローチが採用されており、それぞれが固有の強みと限界を持つことが示されています。

この多様性は重要な意味を持ちます。第二言語習得のような複雑な現象を理解するためには、単一の研究手法だけでは不十分だからです。量的研究は統計的な一般化を可能にしますが、学習過程の詳細な記述には限界があります。一方、質的研究は豊富な記述を提供しますが、一般化可能性には制約があります。

Nassaji氏の批判的検討は、各研究手法の適切な活用方法についても示唆を与えています。小規模な症例研究であっても、適切な文脈での解釈と限界の認識があれば、理論構築に貢献できることが示されています。

国際的視点と文化的考慮

この論文で扱われている研究は、主に欧米の研究文脈で行われています。しかし、言語学習は文化的文脈と密接に関連しているため、これらの知見を他の文化圏にそのまま適用することには注意が必要です。

例えば、明示的指導と暗示的指導の効果は、学習者の文化的背景によって異なる可能性があります。権威を重視する文化では明示的な指導が好まれる傾向があり、個人の発見を重視する文化では暗示的な指導が効果的かもしれません。

また、集団主義的文化と個人主義的文化では、動機の構造も異なります。日本のような集団主義的文化では、個人的な達成よりも集団への貢献や社会的期待への応答が強い動機となる場合があります。

言語政策への含意

Nassaji氏の論文は、言語政策レベルでの意思決定にも重要な示唆を与えています。指導の効果が複雑な要因の相互作用によって決まるという認識は、画一的な教育政策の限界を示しています。

例えば、「英語教育は小学校から始めるべきか中学校からで十分か」という政策的議論において、この論文の視点は重要です。単純に「早く始めるほど良い」という結論ではなく、学習者の発達段階、利用可能な指導リソース、文脈要因などを総合的に考慮する必要があることが示唆されます。

また、教師の専門性開発に対する投資の重要性も浮き彫りになります。優れた指導法が開発されても、それを適切に実施できる教師がいなければ効果は期待できません。継続的な教師教育と支援体制の構築が不可欠です。

結論:複雑性を受け入れる勇気

Nassaji氏の論文は、第二言語習得における指導研究の現状を冷静に分析し、今後の方向性を示した重要な貢献です。最も価値のある点は、簡単な答えを求めがちな教育現場に対して、複雑性を受け入れることの重要性を説いたことです。

言語学習に「万能薬」は存在しません。効果的な指導は、学習者、文脈、目標、利用可能なリソースなど、多くの要因を考慮した上で設計される必要があります。この認識は、一見すると実務家にとって不便に思えるかもしれませんが、実際には現実的で持続可能な教育実践の基盤となります。

この論文のもう一つの重要な貢献は、理論と実践の橋渡しを行った点です。抽象的な理論的議論に終始することなく、具体的な研究事例を通じて実践への示唆を示しています。同時に、実践的な関心を学術的な厳密性で支えることの重要性も示しています。

今後の研究と実践においては、Nassaji氏が提示した複雑性の認識を出発点として、より精緻で現実的なアプローチの開発が期待されます。それは決して簡単な道のりではありませんが、言語学習者により良い教育機会を提供するために必要な歩みです。この論文は、その長い道のりの重要な一歩として、今後も参照され続けるでしょう。


Nassaji, H. (2017). Language instruction and language acquisition: A complex interplay [Editorial]. Language Teaching Research, 21(5), 543–545. https://doi.org/10.1177/1362168817727203

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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