研究の背景と筆者たち
この論文”Foreign language knowledge can influence native language performance in exclusively native contexts”は、Nijmegen大学(オランダ)のJanet G. van HellとTon Dijkstraによって2002年に発表されました。van Hellは特殊教育学部に所属し、Dijkstraは認知科学研究所(NICI)に籍を置く研究者です。二人はオランダという、ヨーロッパの中でも特に多言語環境が整った国で研究を行っています。オランダでは英語教育が非常に盛んで、多くの国民が英語を流暢に話し、さらにフランス語やドイツ語も学校で学びます。このような環境だからこそ、この研究は生まれたのでしょう。
研究の動機は極めてシンプルな疑問から始まっています。私たちが母語で考え、話しているとき、頭の中で学んだ外国語は本当に眠っているのでしょうか。それとも、何らかの形で活性化しているのでしょうか。これは、バイリンガルやマルチリンガルの脳内で言語がどのように組織されているかという、言語心理学の根本的な問いに関わっています。
言語選択的アクセスか、非選択的アクセスか
この研究を理解するために、まず基本的な概念を説明しましょう。バイリンガルの脳内辞書(心的辞書)がどう働いているかについて、研究者たちは二つの可能性を考えてきました。
一つ目は「言語選択的アクセス」という考え方です。これは、例えば今オランダ語で話しているときは、脳はオランダ語の辞書だけを開いて、英語やフランス語の辞書は閉じたままにしているという見方です。まるで図書館で必要な本棚だけに向かい、他の本棚には目もくれないようなものです。
二つ目は「言語非選択的アクセス」という考え方です。こちらは、オランダ語で話していても、脳は全ての言語の辞書を同時に開いていて、入ってくる情報に反応してどの言語の単語も活性化されるという見方です。これは図書館の全ての本棚が常に見えていて、探している本と似た題名の本が他の本棚でも目に入ってしまうような状態です。
van HellとDijkstraは、この二つ目の可能性を検証しようとしました。しかも、最も厳しい条件下で試そうとしたのです。それは、母語であるオランダ語だけの環境で、参加者が自分の外国語知識が試されているとは全く気づいていない状況です。
同根語という鍵
研究の鍵となるのは「cognates(同根語)」という特別な単語です。これは異なる言語間で意味が同じで、綴りや発音も似ている単語のことです。例えば、オランダ語の「water」と英語の「water」、オランダ語の「bakker」と英語の「baker」などです。
同根語が重要なのは、もし脳が本当に複数の言語を同時に処理しているなら、これらの単語を見たときに両方の言語で意味や音が活性化され、処理が速くなるはずだからです。まるで二人の友人が同時に「そうだよ!」と賛同してくれるときのように、確信が早く得られるということです。
逆に、同根語でない単語(例えば、オランダ語の「tuin」と英語の「garden」)の場合は、そのような重なり合う活性化が起こらないため、処理に時間がかかるはずです。
三つの実験の巧妙な設計
研究者たちは三つの実験を行いました。参加者は全員、オランダ語を母語とし、英語を第二言語、フランス語を第三言語として学んだ三言語話者です。ここで「三言語話者」を使ったのには理由があります。英語とフランス語という習熟度の異なる二つの外国語を持つことで、外国語の習熟度が母語処理に与える影響を調べられるからです。
実験1では単語連想課題を使いました。これは、画面に単語が出たら、すぐに頭に浮かんだ言葉を声に出すという課題です。19名の参加者に、英語と同根語のオランダ語、フランス語と同根語のオランダ語、そしてどちらとも同根語でないオランダ語を見せました。
ここで重要なのは、参加者は自分の外国語知識が試されているとは全く知らされていなかったことです。研究者たちは学期初めに学生全員が記入する書類から、オランダ語、英語、フランス語を学んだ学生を選び出し、「記憶実験」への参加を呼びかけました。多言語に関する実験だとは一切言わなかったのです。これは実験の純粋性を保つための周到な配慮でした。
実験2では、同じ刺激語を使って語彙判断課題を行いました。これは、画面に出た文字列が本当の単語かどうかを判断する課題です。18名の新しい参加者が実験1と同じ選抜方法で選ばれました。
実験3では、さらに興味深い操作が加えられました。今度はフランス語学科の学生21名を参加者としました。彼らは実験1と2の参加者よりもフランス語の習熟度が高く、英語とフランス語がほぼ同程度のレベルだったのです。
驚くべき結果―母語の中で活性化する外国語
実験1の結果は明確でした。英語と同根語のオランダ語単語への連想反応時間(平均1,641ミリ秒)は、同根語でない単語(平均1,845ミリ秒)よりも有意に速かったのです。200ミリ秒以上の差は、実験心理学の世界では大きな差です。しかし、フランス語と同根語の単語(平均1,809ミリ秒)は、同根語でない単語と差がありませんでした。
実験2の語彙判断課題でも、ほぼ同じパターンが見られました。英語と同根語の単語(平均499ミリ秒)は同根語でない単語(平均529ミリ秒)より速く、フランス語と同根語の単語(平均519ミリ秒)は差がありませんでした。
ここで研究者たちは賢い分析を行いました。実験2の参加者の中で、フランス語の習熟度が最も高い4名と最も低い4名を比較したのです。すると、習熟度の高い4名ではフランス語同根語の処理が速い傾向が見られたのです(485ミリ秒対511ミリ秒)。一方、習熟度の低い4名では差がほとんどありませんでした(551ミリ秒対556ミリ秒)。
この発見に基づいて行われた実験3では、予想通りの結果が得られました。フランス語学科の学生たちは、英語同根語だけでなく、フランス語同根語でも処理が速かったのです(英語同根語489ミリ秒、フランス語同根語520ミリ秒、同根語でない単語541ミリ秒)。
習熟度テストが明かすこと
各実験の後、参加者たちはオランダ語、英語、フランス語それぞれの語彙判断課題を行い、各言語の習熟度が測定されました。これらのテストは実験の妥当性を確認する上で決定的に重要でした。
実験1と2の参加者は、予想通りオランダ語で最も速く(実験1では平均507ミリ秒、実験2では471ミリ秒)、英語がそれに続き(601ミリ秒と550ミリ秒)、フランス語が最も遅い(685ミリ秒と611ミリ秒)という明確な階層を示しました。
実験3の参加者は異なるパターンを示しました。オランダ語が最も速い(501ミリ秒)のは同じですが、英語(567ミリ秒)とフランス語(560ミリ秒)の間に統計的な差がなかったのです。この違いこそが、実験3でフランス語同根語効果が現れた理由を説明しています。
この研究が持つ理論的意義
この研究の最も重要な貢献は、言語処理が言語非選択的であることを、これまでで最も厳しい条件下で示したことです。参加者たちは完全に母語だけの環境にいて、自分の外国語知識が関係しているとは夢にも思っていませんでした。それでも、外国語の知識が母語の処理に影響を与えたのです。
これは、言語処理システムが根本的に非選択的であることを示しています。私たちが一つの言語で話したり読んだりしているとき、脳は他の知っている言語も自動的に活性化させているのです。母語であっても、第一言語であっても、特別な無敵の地位を持っているわけではありません。
さらに注目すべきは、使用した同根語の多くが綴りも発音も完全には一致していなかったことです(例えば「bakker」と「baker」、「meubel」と「meuble」)。つまり、完全に同一の単語でなくても、類似性があれば言語を超えた活性化が起こるのです。これはより現実的な言語使用の状況を反映しています。
習熟度という調整要因
しかし、この研究はもう一つ重要な発見をしています。それは、外国語の知識が母語処理に影響を与えるには、ある程度の習熟度が必要だということです。実験1と2では、参加者のフランス語習熟度が相対的に低かったため、フランス語同根語の効果は見られませんでした。実験3で習熟度の高い参加者を使うと、効果が現れたのです。
これは、言語処理システムが完全に制御不可能というわけではなく、ある種の閾値が存在することを示唆しています。弱い言語の活性化レベルが十分に高くならなければ、母語処理への影響は観察できないのです。まるで、遠くの音楽がある程度の音量にならないと聞こえないのと似ています。
方法論の優れた点
この研究の方法論には、いくつか特筆すべき点があります。
まず、参加者が実験の真の目的を知らなかったことです。これは単に倫理的な配慮というだけでなく、Grosejeanが提唱した「言語モード」の影響を排除するために重要でした。バイリンガルは、両方の言語が関係する場面では「バイリンガルモード」に入り、一つの言語だけの場面では「モノリンガルモード」に入るという理論があります。もし参加者が「これはバイリンガル実験だ」と知っていたら、自然とバイリンガルモードに入ってしまい、結果が変わってしまう可能性がありました。
次に、三言語話者を使ったことの巧妙さです。研究者たちは、刺激語を慎重に統制しても、知らない交絡変数が残っている可能性を心配していました。通常なら単言語話者の統制群を設けるところですが、オランダでは実質的に全ての人が少なくとも基本的な英語を知っているため、真の単言語話者を見つけることが不可能でした。そこで、三言語話者を使い、習熟度を操作することで、効果が刺激語の特性ではなく、参加者の言語知識に由来することを示したのです。
また、単語連想課題と語彙判断課題という二つの異なる課題を使ったことも重要です。単語連想は意味処理が中心で、語彙判断は知覚的処理が中心と考えられています。両方で同じパターンの結果が得られたことは、この効果が特定の課題に限定されないことを示しています。
批判的に見るべき点
ただし、この研究にも限界や疑問点があります。
一つ目は、実験3の参加者募集の方法です。実験1と2では、参加者は一般の心理学科の学生で、外国語に特別な関心があるわけではありませんでした。しかし実験3では、フランス語学科の学生を使いました。著者らは実験の性質を隠すよう配慮したと述べていますが、フランス語を専攻している学生は、そもそも言語に対する意識や処理方法が一般の学生とは異なる可能性があります。これは結果の一般化可能性に疑問を投げかけます。
二つ目は、同根語の定義と選択です。著者らは同根語として、綴りや音が「似ている」ものを選びましたが、どの程度似ていれば同根語と見なすかの基準が明確ではありません。例えば「meubel」と「meuble」は非常に似ていますが、「bakker」と「baker」はそれほどでもありません。類似性の程度と効果の大きさの関係を系統的に調べるべきでした。
三つ目は、統制変数の問題です。著者らは語の長さ、頻度、正書法的近隣数を統制したと述べていますが、意味の具体性、習得年齢、主観的頻度など、他の重要な変数については言及していません。特に、同根語は学習時に気づきやすいため、主観的な親密度が高い可能性があります。
四つ目は、データの除外基準です。反応時間から平均より2.5標準偏差以上のものを除外していますが、この基準は比較的緩いものです。外れ値が結果に与える影響について、より詳細な分析があればよかったでしょう。
五つ目は、実験3での事後質問です。著者らは実験後に参加者が実験の性質に気づいていなかったことを確認したと述べていますが、その具体的な内容や結果は詳しく報告されていません。特に、フランス語学科の学生が本当に気づいていなかったのか、疑問が残ります。
理論モデルへの示唆
著者らは、自分たちの結果がBIAモデル(Bilingual Interactive Activation model)やICモデル(Inhibitory Control model)といった言語非選択的アクセスモデルを支持すると主張しています。しかし同時に、これらのモデルが本当に自分たちの結果を説明できるか疑問も呈しています。
特にBIAモデルでは、側方抑制という仕組みがあるため、綴りが完全に一致しない同根語では、一致する同根語ほど大きな促進効果は予測されません。しかし実際には、綴りが完全に一致しない同根語でも大きな効果が見られました。これは、既存のモデルが修正を必要としていることを示唆しています。
著者らは、分散表現モデル(distributed models)の方が、形が同一のものと非同一のものの間の連続的な変化をうまく扱えるかもしれないと提案しています。これは今後の研究の方向性を示す重要な指摘です。
日常的含意と教育への応用
この研究は、純粋に理論的な興味だけでなく、実践的な含意も持っています。
まず、外国語学習が母語に悪影響を与えるという懸念は根拠がないことが示されました。むしろ、外国語知識は母語の処理を速めることさえあります。これは、多言語教育を推進する上で心強い証拠です。
また、外国語の習熟度がある程度のレベルに達しないと、母語との相互作用が起こらないという発見は、外国語教育の目標設定に関わります。単に基礎を学んだだけでは不十分で、ある程度の流暢さを達成することが、真の多言語的な思考につながるのかもしれません。
さらに、同根語が処理されやすいという発見は、語彙学習の戦略にも示唆を与えます。学習者は、既知の言語と似ている単語から学ぶことで、より効率的に語彙を増やせるかもしれません。ただし、いわゆる「偽の友」(見かけは似ているが意味が異なる単語)には注意が必要です。
文化的・社会的文脈
この研究がオランダで行われたことは偶然ではありません。オランダは小さな国で、国際的なコミュニケーションのために外国語学習が重視されてきました。特に英語は、多くのオランダ人にとって事実上の第二言語となっています。
このような多言語環境は、研究にとって理想的な実験場を提供すると同時に、結果の一般化可能性についても考えさせます。言語的に孤立した環境で育った、真の単言語話者を対象にした場合、同じ結果が得られるでしょうか。おそらく、外国語学習の開始年齢や学習環境の違いが、結果に影響を与える可能性があります。
今後の研究への提案
この研究は多くの新しい疑問を開いています。
まず、同根語以外の単語ではどうなのでしょうか。意味は同じだが形が全く異なる単語(例えば「tuin」と「garden」)でも、意味レベルでの相互活性化は起こるのでしょうか。
次に、文脈の影響はどうでしょうか。単独の単語ではなく、文や段落の中で読んでいるときも、同じ効果が見られるのでしょうか。
また、産出(話すこと、書くこと)ではどうでしょうか。この研究は主に理解の課題を使っていますが、実際に言葉を使うときの状況は異なるかもしれません。
さらに、年齢や認知能力の影響も興味深いテーマです。子どもや高齢者、あるいは認知能力に個人差がある人たちでは、言語間の相互作用はどのように現れるのでしょうか。
最後に、言語の組み合わせの影響も重要です。この研究ではオランダ語、英語、フランス語という、全て印欧語族の言語が使われました。文字体系や言語構造が大きく異なる言語の組み合わせ(例えば日本語と英語)では、結果が異なるかもしれません。
結びにかえて
van HellとDijkstraのこの研究は、人間の言語処理システムの本質について、重要な一石を投じました。私たちの脳は、一つの言語で機能しているように見えても、実際には知っている全ての言語が舞台裏で活性化しているのです。
これは、考えてみれば不思議なことではないかもしれません。脳は極めて効率的な情報処理装置で、利用可能な全ての知識を動員して、世界を理解しようとします。言語知識も例外ではなく、どの言語で得た知識であれ、現在の課題に役立つなら使われるのです。
この研究の美しさは、非常にシンプルな問いから出発し、巧妙な実験計画によって、理論的に重要な答えを導き出したことにあります。さらに、習熟度という調整要因を発見したことで、結果に現実的なニュアンスを加えました。言語処理は非選択的だが、無制限ではない。この微妙なバランスが、マルチリンガルの脳の働きの実像なのでしょう。
今日、グローバル化が進み、多くの人が複数の言語を使う世界に生きています。この研究は、そのような多言語使用者の頭の中で何が起きているかを、少しだけ明らかにしてくれました。そして、新しい言語を学ぶことは、単に新しい道具を手に入れることではなく、既存の言語の使い方まで変えてしまう、より深い変化であることを示しています。これは、言語が私たちの認知システムにいかに深く統合されているかを物語っています。
Van Hell, J. G., & Dijkstra, T. (2002). Foreign language knowledge can influence native language performance in exclusively native contexts. Psychonomic Bulletin & Review, 9(4), 780–789.