研究の背景と著者について

Sarah Hui-Ching LinとAlex Ho-Cheong Leungは、イギリスのNorthumbria大学に所属する研究者です。LinとLeungが2024年に発表したこの論文”ESL classroom interactions in a translanguaging space”は、英語教育の現場で長年タブー視されてきた問題に正面から取り組んでいます。それは「英語の授業で母語を使ってもいいのか」という、多くの教師が密かに悩んできた問題です。

この論文が取り組むトランスランゲージング(translanguaging)という概念は、1990年代のウェールズの教室観察から生まれました。研究者たちは、ウェールズ語と英語を話す子どもたちが、まるで呼吸をするように自然に二つの言語を行き来する様子を目撃しました。これは単なる「コードスイッチング」ではなく、話者の持つすべてのコミュニケーション資源を動員する、もっと創造的で流動的な営みだったのです。

「一つの教室、複数の言語」という現実

この研究が対象としたのは、イギリスの大学で英語を学ぶ台湾人学生13名(18歳から28歳)の教室です。LinとLeungは3週間にわたって27時間もの授業を録画し、その中から特に興味深い場面を詳細に分析しました。学生たちの英語レベルは中級から中上級で、平均してイギリスなど英語圏に3年程度滞在していました。

注目すべきは、この教室が意図的に「トランスランゲージング空間」として設計されていた点です。教材は認知言語学の考え方に基づいて作られ、中国語と英語の概念の違いや類似点を活用するように工夫されていました。たとえば、句動詞(phrasal verbs)の「on」や「off」といった助詞の空間的な意味を、学生の母語である中国語の概念と比較しながら理解させる試みです。

ここで、多くの読者が疑問に思うかもしれません。「英語の授業なのに中国語を使って本当に効果があるのか」と。実は、これは長年の英語教育における論争の核心をついています。従来の「英語オンリー」の考え方では、教室で母語を使うことは学習の妨げになると考えられてきました。しかし、実際の教室では、教師も学生も必要に応じて母語を使っているという現実がありました。この「建前と本音」のギャップが、多くの教師に罪悪感や迷いをもたらしてきたのです。

フラスコを使った概念理解―Extract 1の詳細な分析

論文の中で最も印象的なのは、教師が実際のフラスコ(水筒)を使って「off」と「away」の違いを説明する場面です。これは単なる語彙の説明ではなく、複数の言語とジェスチャー、そして物理的な物体を組み合わせた、まさにトランスランゲージングの実践例です。

教師はまず英語で「off」と「away」の類似点を説明します。「Most of their meanings are similar. Just not touch. Loss of contact.」しかし、言葉だけでは不十分だと判断したのでしょう。教師は目の前にあったフラスコとその蓋を手に取り、実演を始めました。

「I put the lid on the cup」と言いながら、蓋をフラスコの上に置きます。そして「This is on, right?」と学生に確認を求めます。学生たちは教師の手元を見つめ、無言で理解を示します。次に「So, I take it off」と言いながら蓋を取り外し、デスクの表面を指さして「But off would be here」と説明します。

ここまでは英語だけでした。しかし、「away」の説明になると、教師は自然に中国語に切り替えます。「Off的話就是,我就是分開但是我可能馬上又可以拿得到」(Offというのは、分離しているけれど、すぐにまた手に取れるということです)。そして蓋をフラスコから遠くに離しながら「但是away是分開但是它有距離」(でもawayは、分離していて距離がある)と続けます。

この説明の巧みさは、言語だけでなく、視覚的・空間的・身体的な複数の感覚を同時に刺激している点にあります。学生は英語の言葉を聞き、中国語の説明を聞き、教師の手の動きを見て、空間的な関係を理解します。研究者たちが指摘するように、これは単なる「翻訳」ではありません。それぞれの言語やモダリティが異なる角度から理解を深め、層を重ねるように概念の理解を構築していくのです。

ある教育心理学の研究では、複数の感覚を使って学習すると記憶の定着率が上がることが示されています。LinとLeungの分析は、この原理がトランスランゲージング実践にも当てはまることを示唆しています。

波の動きをめぐる議論―Extract 2にみる知識の共同構築

二つ目の場面は、さらに興味深い展開を見せます。ここでは、波が海岸に「入ってくる(come in)」と「出ていく(go out)」という表現について、学生たちが活発に議論を交わします。

発端は、中国語で波が「退く(tuì)」という表現が、英語の「down」に相当すると教師が説明したことでした。ところが、学生CG01は疑問を持ちます。「でもそれって『come out』じゃないんですか?」

実は、中国語の「退」という言葉には二つの意味があります。一つは垂直方向の「下がる」という意味、もう一つは水平方向の「後退する」という意味です。この多義性が、学生たちの混乱の原因でした。

興味深いのは、教師と学生CG01が議論している間に、別の学生CG05が教室の反対側で別の議論を展開していることです。CG05は仲間に向かって「退は往後走(tuìは後ろに動くという意味だ)」と主張し、手を自分の方に引き寄せるジェスチャーをします。つまり、CG05は「退」の水平方向の意味を強調しているのです。

このような複数の会話が同時進行する様子を、研究者たちは「教室の混乱(messiness)」と表現しています。しかし、この「混乱」こそが、実は深い学習が起きている証拠なのです。学生たちは単に教師の説明を受動的に受け取るのではなく、自分の理解を確認し、仲間と議論し、必要に応じて教師に異議を唱えています。

最終的に教師は、問題の核心が「視点」にあることに気づきます。英語で波が「come in」と表現されるのは、海岸線を容器(container)の境界と見なし、波がその中に入ってくると捉えるからです。一方、中国語の「漲」と「退」は、波の中心の上下動に焦点を当てています。この概念の違いを理解するために、教師と学生は英語と中国語を行き来しながら、身振り手振りも交えて議論を重ねていきます。

伝統的な教室の権力構造への挑戦

この場面で注目すべきもう一つの点は、学生たちが非常に積極的に発言していることです。CG05は教師の説明に対して明確に異議を唱え、自分の理解を主張します。従来の「アジアの学生は受動的で寡黙だ」というステレオタイプとは正反対の姿です。

研究者たちは、この変化を生み出した要因として、教室の物理的なレイアウトにも注目しています。学生たちは馬蹄形(U字型)に座っており、教師は前に立つのではなく、学生たちの輪の中に入って議論に参加しています。この配置自体が、より平等な関係性を象徴しているのです。

さらに重要なのは、教師が「トランスランゲージングの姿勢(translanguaging stance)」を明確に示していることです。つまり、学生たちがどんな言語やコミュニケーション手段を使ってもよい、むしろそれらをすべて活用することが奨励されるという雰囲気を作り出しているのです。この安全な空間があるからこそ、学生たちは恐れずに質問し、議論し、時には教師の説明に異議を唱えることができるのです。

台湾の教育文化では、伝統的に教師への敬意と服従が重視されてきました。しかし、このトランスランゲージング空間では、そうした文化的な制約が和らぎ、学生たちは本当の意味での「学習者」として振る舞うことができています。

研究手法の強みと課題

LinとLeungの研究手法には、いくつかの優れた点があります。まず、27時間という長時間の授業を録画し、その中から典型的な場面を選んで詳細に分析している点です。彼らはJefferson (2004)による会話分析の転写方式を採用し、発話の間や重なり、声の調子まで細かく記録しています。さらに、ジェスチャーや視線、物の操作なども記述に含めることで、多モーダルな相互作用の全体像を捉えようとしています。

実際、論文には詳細な転写記号の説明があり、たとえば「(.)」は0.5秒未満の短い間、「::」は音の引き延ばし、「[ ]」は発話の重なりを示すなど、きめ細かい記述がなされています。中国語の部分はピンイン(ローマ字表記)と英訳が併記され、非中国語話者の読者にも理解できるよう配慮されています。

また、分析にあたってWalsh (2011)のSETT(Self-Evaluation of Teacher Talk)フレームワークを援用している点も注目されます。これは教室談話を「技能とシステムのモード」「教材志向のモード」「教室コンテクストのモード」などに分類する枠組みで、選ばれた二つの場面が異なる教育目標と相互作用の特徴を持つことを示すのに役立っています。

しかし、いくつかの限界も指摘できます。まず、参加者が13名と比較的少数であり、しかも全員が台湾からの留学生という均質なグループです。もっと多様な背景を持つ学習者が含まれていれば、トランスランゲージング実践の普遍性や文化的な違いについて、より豊かな知見が得られたかもしれません。

また、この授業が単位にならない自由参加の講座だったという点も重要です。研究者たち自身も認めているように、正式な授業で成績評価がある場合、学生や教師の行動は異なるかもしれません。特に、多くの国では「英語のみ」という言語政策が公式に存在するため、現実の教室でこのような自由なトランスランゲージング実践が可能かどうかは別の問題です。

さらに、学習効果の測定がないことも課題です。トランスランゲージング実践が「足場かけ」として機能し、学習を促進したことは質的に示されていますが、実際に学生の英語力が向上したのか、特に句動詞の習得にどの程度効果があったのかは検証されていません。

理論的貢献―トランスランゲージング研究の発展

この研究の理論的な貢献は、主に三つの点にまとめられます。

第一に、トランスランゲージングが単なる「翻訳」ではないことを、具体的な教室場面の詳細な分析を通じて示した点です。Extract 1で見たように、教師は英語で説明し、中国語で補足し、物を使って実演し、ジェスチャーで強調するという複合的なアプローチをとっています。それぞれの要素が異なる角度から理解を深め、全体として多層的な学習経験を生み出しているのです。

第二に、「足場かけ(scaffolding)」という教育心理学の重要な概念とトランスランゲージングを結びつけた点です。もともとVygotskyの理論に由来する「足場かけ」は、学習者が自力ではまだできないことを、適切な支援によってできるようにする過程を指します。LinとLeungは、トランスランゲージング実践そのものが効果的な足場かけの手段になることを示しました。

第三に、トランスランゲージング空間が権力関係の変容をもたらすことを実証した点です。Extract 2で見たように、学生たちは教師に質問するだけでなく、教師の説明に異議を唱え、自分の理解を主張し、仲間同士で議論を展開しています。これは、言語の自由が思考の自由につながり、ひいては教室内の民主化につながることを示唆しています。

実践への示唆―英語教育現場への提言

この研究は、英語教育の現場に重要な示唆を与えます。最も基本的なメッセージは、「学習者の母語を教室から排除する必要はない」ということです。むしろ、学習者が持つすべてのコミュニケーション資源(母語、身振り、図表、実物など)を活用することで、より深い理解と活発な参加が可能になるのです。

ただし、これは「何でもあり」ということではありません。LinとLeungが強調するのは、トランスランゲージングには「姿勢(stance)」が重要だということです。つまり、教師が明確に「この教室では複数の言語を使うことが価値あることだ」というメッセージを発信し、安全な学習環境を作ることが前提となります。

また、教材設計の段階から、言語間の概念の違いや類似点を意識的に取り入れることも有効です。この研究では、中国語と英語の空間概念の違い(たとえば、波の「退」と「come in/go out」)が、まさに学習の焦点となりました。こうした対照言語学的な視点を教材に組み込むことで、学習者は自分の母語と目標言語の関係をより深く理解できるようになります。

日本の英語教育への含意

日本の英語教育の文脈では、この研究は特に重要な意味を持ちます。日本では長年、「英語の授業は英語で」という方針が推進されてきました。2013年の学習指導要領改訂以降、高校の英語の授業は「英語で行うことを基本とする」とされ、多くの教師がこの方針に戸惑いを感じてきました。

LinとLeungの研究は、この「英語のみ」政策に再考を促します。彼らが示すのは、日本語と英語を適切に組み合わせることで、むしろ学習が促進される可能性です。たとえば、英語の前置詞「at」「in」「on」の使い分けは、日本人学習者にとって難しいトピックの一つです。これを英語だけで説明しようとすると、かえって理解が曖昧になることがあります。しかし、日本語で「~で」「~に」といった助詞との対応を示しながら、両言語の概念の違いを明示的に説明することで、より深い理解が可能になるかもしれません。

また、日本の教室文化では、学生が教師に異議を唱えたり、積極的に議論に参加したりすることが、必ずしも奨励されてきませんでした。しかし、Extract 2で見たような、学生主導の議論や知識の共同構築は、21世紀型の学力として求められる「主体的・対話的で深い学び」そのものです。トランスランゲージング空間を作ることは、言語教育の目標だけでなく、より広い教育目標の達成にもつながる可能性があります。

ただし、日本の教育現場でトランスランゲージング実践を導入する際には、いくつかの課題も考慮する必要があります。まず、入試制度の問題です。大学入試で求められる英語力が従来型の文法・読解中心である限り、教室での革新的な実践は試験対策との板挟みになる可能性があります。

また、教師の英語力の問題もあります。日本の英語教師の中には、自分の英語力に不安を持ち、「英語で授業」という方針にプレッシャーを感じている人も少なくありません。トランスランゲージングの考え方は、こうした教師に「日本語を使ってもよい」という許可を与えると同時に、「どう使うか」という新たな専門性を要求することにもなります。

今後の研究課題

LinとLeungの研究は、いくつかの重要な問いを残しています。まず、トランスランゲージング実践の長期的な効果です。この研究は3週間という比較的短期間の観察に基づいていますが、1学期、1年間といった長期的なスパンで見たとき、学習効果はどうなるのでしょうか。

また、異なる言語ペアでの研究も必要です。この研究は中国語と英語という、文法構造がかなり異なる言語の組み合わせでしたが、日本語と英語、韓国語と英語、あるいはヨーロッパ言語間など、異なる言語ペアではどのような現象が見られるのでしょうか。

さらに、個人差の問題も重要です。すべての学習者がトランスランゲージング実践から同じように恩恵を受けるわけではないかもしれません。たとえば、性格的に内向的な学習者、あるいは母語でも議論や発言が得意でない学習者にとって、このような開かれた学習環境はどう機能するのでしょうか。

評価の問題も未解決です。トランスランゲージングを奨励する教室で、どのように学習を評価すればよいのでしょうか。従来のテストは通常、目標言語のみの使用を前提としています。トランスランゲージング能力自体を評価の対象とすべきなのか、それとも最終的には目標言語のみでの運用能力を測るべきなのか、これは理論的にも実践的にも重要な問いです。

政策と実践のギャップを埋める

研究者たちが論文の最後で強調しているのは、研究と政策、そして実践の間の橋渡しの必要性です。トランスランゲージング研究は近年急速に発展していますが、その知見が教育政策や評価制度の設計に十分に反映されているとは言えません。

たとえば、ヨーロッパでは「ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)」の2020年版で、複言語主義(plurilingualism)の概念が取り入れられました。これは、学習者が複数の言語を持ち、それらを状況に応じて使い分ける能力を評価しようという試みです。しかし、具体的な評価方法や教材開発については、まだ発展途上の段階です。

LinとLeungは、教師教育の重要性も指摘しています。トランスランゲージングの理論を知識として学ぶだけでなく、実際の教室でどう実践するか、どのように学習環境をデザインするか、どんな教材が効果的かといった実践的な知識とスキルを、現職教師にも教員養成課程の学生にも提供する必要があります。

実際、Galante et al. (2022)による教師向けのトランスランゲージング実践ガイドなど、実践的なリソースも出始めています。こうした動きが加速し、理論と実践の架け橋が強化されていくことが期待されます。

結びに―新しい言語教育観に向けて

LinとLeungのこの研究は、言語教育に対する私たちの根本的な考え方を問い直します。従来、言語学習は「目標言語への到達」として捉えられてきました。つまり、母語から目標言語へと移行し、最終的には目標言語だけを使えるようになることが理想とされてきたのです。

しかし、トランスランゲージングの視点は、この一方向的な見方を変えます。複数の言語を持つことは、それぞれを完璧に習得することではなく、状況に応じて使い分け、組み合わせ、新しい意味を創造する能力を持つことだと捉えるのです。

Extract 1やExtract 2で見た学生たちの姿は、まさにこの新しい言語使用者のモデルを示しています。彼らは英語だけ、中国語だけで考えているのではありません。両方の言語、そしてジェスチャーや物理的な物体、図表なども含めた多様なリソースを動員して、意味を作り、理解を深め、仲間と議論しているのです。

グローバル化が進む現代社会では、こうした柔軟で創造的な言語使用能力こそが求められているのではないでしょうか。観光客として海外を訪れるとき、国際会議で発表するとき、オンラインで世界中の人々と協働するとき、私たちは完璧な英語を話すことよりも、手持ちのすべてのコミュニケーション手段を駆使して意思疎通を図ることの方が重要です。

LinとLeungの研究は、27時間の教室観察という地道な作業を通じて、こうした新しい言語教育観の可能性を具体的に示してくれました。完璧な研究というものは存在しませんが、この研究は確かに、英語教育の現場に新しい風を吹き込む力を持っています。教室で日本語を使うことに罪悪感を感じている日本の英語教師にとって、あるいは英語の授業についていけずに困っている学生にとって、この研究は一つの希望を示しているのかもしれません。


Lin, S. H.-C., & Leung, A. H.-C. (2024). ESL classroom interactions in a translanguaging space. Applied Linguistics Review, 15(6), 2397–2425. https://doi.org/10.1515/applirev-2022-0202

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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