研究の背景と著者について

言語習得研究は長年、主に音声言語の発達に焦点を当ててきました。しかし近年、人間の言語が本質的に多様な手段を組み合わせたマルチモダルな現象であるという認識が高まっています。この流れの中で、Dilay Z. Karadöller、Beyza Sümer、Aslı Özyürekの三名による本論文”First-language acquisition in a multimodal language framework: Insights from speech, gesture, and sign”は、第一言語習得における音声、ジェスチャー、手話の相互関係を包括的に検討した重要な研究です。

著者らは言語学と心理学の分野で活躍する研究者たちです。筆頭著者のKaradöllerはマックス・プランク心理言語学研究所(オランダ)と中東工科大学(トルコ)に所属し、Sümerはアムステルダム大学、そしてÖzyürekはマックス・プランク心理言語学研究所とドンダース脳行動認知研究所を拠点としています。特にÖzyürekは多様式言語研究の第一人者として知られており、彼らのチームは国際的な言語習得研究をリードしています。

従来の言語習得研究の限界と新たな視点

この論文が取り組む最も重要な問題は、従来の言語習得研究が音声言語のみに焦点を当ててきたことの限界です。著者らは、人間の言語が本質的にマルチモダルな性質を持つことを強調しています。つまり、私たちが日常的に行うコミュニケーションでは、音声だけでなく、手の動き、表情、身振りなども重要な役割を果たしているということです。

特に注目すべきは、聴覚に障害のある子どもたちが手話を通じて言語を習得する過程と、聞こえる子どもたちが音声言語とジェスチャーを組み合わせながら言語を習得する過程の間に、多くの共通点があるという指摘です。これまでこれらは別々の現象として扱われがちでしたが、著者らは統一的な枠組みで理解する必要性を主張しています。

指差しの普遍的役割と発達的変化

論文の前半では、指差し行動が言語習得に果たす役割について詳細に検討されています。指差しは文化を問わず、生後12か月頃に現れる普遍的な行動です。著者らの分析によると、指差しは単なる前言語的行動ではなく、後の言語発達を予測する重要な指標となります。

興味深いのは、聞こえる子どもと聞こえない子どもで指差しの発達パターンが異なることです。聞こえる子どもの場合、指差しは最初の単語の出現を予告し、その後も語彙の発達や二語文の形成を促進する役割を果たします。一方、手話を習得する聞こえない子どもの場合、指差しはより複雑な発達を示します。彼らは最初は自由に指差しを使いますが、12-15か月頃に一時的に人に対する指差しを避けるようになり、その後18か月頃に代名詞的機能を持つ指差しとして再出現します。

この現象は、手話においては指差しが単なるコミュニケーション手段ではなく、文法的機能を持つことを示しています。つまり、聞こえない子どもたちは指差しの異なる機能(物を示すこと vs 代名詞として使うこと)を区別して習得する必要があるのです。

アイコン性(視覚的類似性)の習得促進効果

論文の中核をなす概念の一つがアイコン性です。これは、言語表現とその意味の間にある視覚的な類似性のことを指します。例えば、「飲む」という動作を表すジェスチャーは、実際に飲み物を口に運ぶ動作と類似しています。手話においても、多くの手話語彙がその意味と視覚的に類似した形を持っています。

著者らの分析では、アイコン性は言語習得を促進する重要な要因であることが示されています。手話習得研究では、よりアイコニックな(視覚的類似性の高い)手話語彙が、そうでないものよりも早く習得されることが確認されています。ただし、この効果は子どもの認知的成熟度と関係があり、16-18か月以降により顕著になることが報告されています。

興味深いのは、アイコン性の効果が言語の種類によって異なることです。手話では道具の扱い方を示すアイコン性(ハンドリング系)が成人では少なくなる一方、子どもは物体の知覚的特徴を示すアイコン性よりもハンドリング系を好む傾向があります。これは、子どもたちが身体的経験に基づいて言語を習得していることを示唆しています。

ジェスチャーと音声言語習得の相互作用

聞こえる子どもの言語習得において、ジェスチャーは音声言語と密接に連携しながら発達します。著者らは、アイコニックジェスチャー(意味と視覚的に類似したジェスチャー)が17-36か月頃に現れ、動詞の習得と同時進行することを示しています。

特に注目すべきは、ジェスチャーが音声では表現しきれない情報を補完する役割を果たすことです。例えば、空間関係を表現する際に、子どもたちは「横」という曖昧な言葉を使いながら、ジェスチャーで正確な位置関係を示します。これは、概念的理解が言語表現能力を上回る場合に、ジェスチャーが重要な補完的役割を果たすことを示しています。

また、因果関係の表現においても同様の現象が見られます。幼い子どもたちは複雑な因果関係を言葉だけでは十分に表現できませんが、ジェスチャーを通じて道具の使い方や動作の方向などの重要な情報を伝達することができます。

手話習得の特殊性と共通性

手話習得研究の部分では、視覚言語特有の特徴が習得過程にどのような影響を与えるかが詳しく検討されています。手話は音声言語と多くの共通した発達パターンを示す一方で、視覚的モダリティ特有の特徴も持っています。

同時性(複数の身体部位を同時に使って情報を表現する能力)は手話の重要な特徴の一つです。研究によると、子どもたちは場所の表現においては比較的早期に同時性を習得しますが、動作の表現においてはより時間がかかります。特に、移動動作における経路(path)と様態(manner)を同時に表現することは12歳頃まで困難であることが示されています。

この発見は、アイコン性があっても必ずしも習得が促進されるわけではないことを示しています。手話においても、子どもたちは複雑な情報を段階的に習得し、最初は要素を分離して表現し、徐々に統合していくプロセスを経ます。

言語類型学的多様性の重要性

著者らは、異なる言語における習得パターンの違いにも注目しています。例えば、移動動作の表現において、英語は動詞(run)と前置詞(down)で様態と経路を表現しますが、トルコ語や日本語では複数の動詞を使って表現します。これらの違いは、ジェスチャーのパターンにも反映され、言語特異的な発達軌跡を示します。

興味深いことに、音声言語では3歳頃から言語特異的パターンが現れるのに対し、ジェスチャーでは9歳頃まで言語特異性が現れません。これは、ジェスチャーが音声言語よりも時間をかけて言語特異的な形に形成されることを示しています。

研究方法論と実証的根拠の評価

この研究の強みの一つは、多様な研究結果を統合的に検討していることです。著者らは縦断研究、横断研究、実験研究など様々なアプローチから得られた証拠を総合的に分析しています。特に、異なる手話言語(アメリカ手話、トルコ手話、フランス手話など)や音声言語(英語、トルコ語、フィンランド語など)からの証拠を比較することで、普遍的パターンと言語特異的パターンを区別しています。

ただし、いくつかの方法論的制約も見られます。第一に、多くの研究が小規模なサンプルサイズに基づいており、個人差や文化差の検討が不十分な場合があります。第二に、産出中心の研究が多く、言語理解や処理過程についての検討が相対的に少ないです。第三に、聞こえない子どもの研究では、手話環境にアクセスできる子どもたちに限定されており、より多様な言語環境の子どもたちの検討が必要です。

理論的貢献と既存理論への挑戦

この論文の最も重要な理論的貢献は、言語習得研究においてマルチモダル視点の必要性を実証的に示したことです。従来の言語習得理論の多くは音声言語のみを基盤としていましたが、著者らは視覚的モダリティを含む統合的理論の必要性を主張しています。

特に、身体化認知(embodied cognition)の視点から言語習得を理解する重要性が強調されています。子どもたちは抽象的な言語概念を学ぶ際に、身体的経験や感覚運動的経験を基盤とし、ジェスチャーや手話がこれらの経験と言語概念を橋渡しする役割を果たすという考えです。

実践的意義と応用可能性

この研究の実践的意義は多方面にわたります。教育現場においては、ジェスチャーを積極的に活用することで語学学習を促進できる可能性があります。また、言語発達に遅れのある子どもたちの支援においても、視覚的手段を活用したアプローチの有効性が示唆されています。

聞こえない子どもたちの教育においては、手話習得の自然な発達過程を理解することで、より適切な言語指導方法を開発できる可能性があります。特に、指差しの発達パターンや語彙習得におけるアイコン性の役割を理解することは、早期言語介入プログラムの改善に貢献できます。

残された課題と限界

しかし、この研究にはいくつかの限界も存在します。第一に、社会経済的背景や文化的要因の影響についてより詳細な検討が必要です。著者らも指摘しているように、指差しの頻度や言語発達には社会経済的地位が影響することが示されており、これらの要因を統制した研究が求められます。

第二に、個人差の問題があります。ジェスチャー使用には大きな個人差があることが知られており、すべての子どもに同様のパターンが当てはまるわけではありません。どのような要因が個人差を生み出すのかについて、より系統的な研究が必要です。

第三に、発達的変化の詳細なメカニズムについてまだ不明な点が多いです。なぜ特定の時期に特定の変化が起こるのか、認知的成熟、神経発達、社会的相互作用がどのように相互作用するのかについて、より精緻な理論的説明が求められます。

今後の研究方向

著者らは今後の研究方向として、いくつかの重要な提案を行っています。まず、音声言語とジェスチャーの組み合わせと手話習得の直接比較研究の必要性です。これまでの研究では、これらが別々に検討されることが多かったため、統一的な比較研究が求められています。

また、より多様な言語における研究の重要性も指摘されています。現在の研究は主に欧米の言語に集中しており、アジア、アフリカ、南米などの言語における検討が不足しています。言語類型学的多様性を考慮することで、より普遍的な原理とより特殊な現象を区別できる可能性があります。

さらに、言語理解や処理過程についての研究の充実も必要です。現在の研究は主に言語産出に焦点を当てていますが、理解過程や認知的処理においてマルチモダル情報がどのように統合されるかについても検討が必要です。

研究の社会的意義と波及効果

この研究は学術的意義を超えて、より広範な社会的影響を持つ可能性があります。聞こえない人々の言語権や教育権の擁護において、手話が完全な言語であることを科学的に実証する重要な証拠を提供しています。また、言語的多様性の重要性を示すことで、多様な言語コミュニティの尊重につながる可能性があります。

さらに、人工知能や自然言語処理の分野においても重要な示唆を与えています。マルチモダル言語理解システムの開発において、人間の言語習得過程から得られる知見は重要な参考となる可能性があります。

総合的評価と結論

本論文は、言語習得研究における重要なパラダイムシフトを示す包括的で説得力のある研究です。音声、ジェスチャー、手話を統合的に捉える視点は、言語習得の複雑性をより適切に理解するための重要な枠組みを提供しています。

方法論的には、多様な研究結果を統合し、異なる言語や文化からの証拠を比較するアプローチが効果的に用いられています。理論的には、身体化認知の視点から言語習得を理解する新たな可能性を開いています。

ただし、個人差、文化差、社会経済的要因の影響についてはさらなる検討が必要です。また、理解過程や処理メカニズムについてもより詳細な研究が求められます。

それでも、この研究は言語習得研究の新たな方向性を示し、理論的にも実践的にも重要な貢献をしています。マルチモダル言語習得研究という新しい分野の発展において、本論文は重要な基礎文献となることでしょう。人間の言語習得の豊かさと複雑さを理解するために、この種の統合的アプローチがさらに発展することが期待されます。


Karadöller, D. Z., Sümer, B., & Özyürek, A. (2024). First-language acquisition in a multimodal language framework: Insights from speech, gesture, and sign. First Language, 44(1), 1–38. https://doi.org/10.1177/01427237241290678

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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