はじめに:ある研究者の苦悩から見えてくるもの
論文”Recent developments concerning the use of English for teaching and research purposes”の中で紹介されているエピソードが印象的です。エジプトの海洋生物学者が博士論文を執筆した際、アラビア語特有の文章構成で書いた原稿を、何度も書き直すよう求められたというのです。彼女の研究内容に問題があったわけではありません。ただ、アメリカの科学界で一般的とされる修辞的な慣習に合わないという理由だけで、何度も却下されたのです。この話は、現代の学術界における英語の圧倒的な支配力と、それが引き起こす複雑な問題を象徴的に示しています。
イタリアのベルガモ大学に所属するMaurizio Gottiによるこの論文は、2020年に発表されたものですが、扱っているテーマは今日においても極めて重要性を増しています。Gottiは応用言語学の分野で長年研究を続けており、特に専門分野における言語使用とコミュニケーションについて深い知見を持つ研究者です。この論文では、大学における教育と研究の両面で英語がどのように使われているか、そしてそれがどのような影響を及ぼしているかを、批判的な視点から検討しています。
研究の世界で起きている言語の一極集中
論文の前半部分は、研究分野における英語の支配的な地位について論じています。これは私たちが日常生活で感じる以上に深刻な問題です。たとえば、スウェーデンやウクライナ、ラテンアメリカ、イタリア、アジア、スペインなど、世界中の研究者たちが、自分たちの最高の研究成果を英語で発表しようとする傾向が強まっているとGottiは指摘します。その理由は単純明快です。より多くの読者に届けるためです。
しかし、この動きには大きな代償が伴います。自国語で書かれた学術論文は「地方的な学術生産物」として格下げされ、主流の学術界への貢献は限定的だとみなされるようになってしまうのです。これは学術の多様性という観点から見ると、非常に憂慮すべき状況だといえるでしょう。
Gottiが論文で強調しているのは、この英語中心主義が単なる言語の問題にとどまらないという点です。それは権力の集中、学術的な排外主義、文化的帝国主義にまで発展する可能性を秘めています。実際、英語を母語としない研究者たちは「別の言語で読み、研究し、執筆しなければならないという三重の不利」を背負っているとVan Dijkは指摘しています。
学術雑誌の門番たち
特に問題なのは、学術雑誌の編集者たちが持つ権力の集中です。これらの編集者の多くは、英語圏のごく少数の国々に集中しています。彼らは学術的な規範を定め、世界中で行われている研究の学術的価値を認定する権限を握っているのです。そして、その権力はあまりにも強大で、研究成果を主要な国際誌に発表する必要がある研究者たちのキャリアを左右することさえあります。
Gottiは、この状況を「言語的独占」「学術的排外主義」「文化的帝国主義」のリスクとして警告しています。英語の独占的使用は、英語を母語としない執筆者を不利な立場に置きます。さらに、学術雑誌はこの厳格な要求を利用して、外国からの投稿を選別することができます。興味深いことに、英語といってもイギリスやアメリカの変種だけが好まれるため、雑誌の言語基準に従わなければ却下されるのです。
ここで具体的な例を見てみましょう。イタリアの医学雑誌「Italian Heart Journal」は、すでに英語で出版していたにもかかわらず、2006年に誌名を「Journal of Cardiovascular Medicine」に変更しました。地方の雑誌はイタリアの医学界で二流の研究ツールとみなされ、医学文献はイギリスやアメリカで出版された方が競争力があると考えられていたためです。そこで、編集委員会はイタリア人編集者を維持しながらも、アメリカの出版社に誌を委ねることで、周縁部からの出自を隠すことにしたのです。
文化の違いが生む誤解
Gottiの論文でもう一つ重要なのは、言語と文化の密接な関係についての考察です。英語を母語としない研究者は、少なくとも二つの異なるコミュニティに参加しています。一つは英語を使う学術コミュニティ、もう一つは自分の専門分野のグローバルな学術コミュニティです。
前者のコミュニティに属するためには、文法規則、語彙の選択、慣用表現、句読点やスペルなどの技術的側面を含む、英語の規範を使いこなせることを示す必要があります。しかし、それだけでは不十分です。説明的な学術文章で一般的に使われる慣行も理解する必要があるのです。
一方、自分の専門分野のグローバルな学術コミュニティに属するかどうかは、執筆するテキストが属する特定の学術ジャンルに関する期待に従えるかどうかにかかっています。これには、情報の提示と順序付けの観点からのテキストと段落の構成、そして異文化間の問題を考慮する必要も含まれます。
ここで興味深いのは、修辞的な構造が文化によって異なるという点です。たとえば、日本の執筆者は具体的なことから一般的なことへという順序を好むのに対し、アメリカの執筆者は一般的なことから具体的なことへという順序を好みます。また、Kaplanが視覚的に表現した有名な例では、英語の論証的な論文は直線的なパターンを取るのに対し、東洋の論文は円環的なパターンを取るという違いがあります。
Mauranen という研究者が1993年に述べた言葉は、この問題の深刻さをよく表しています。文法や語彙の規則を破ることと、テキストや修辞の規則を破ることでは、異なる結果をもたらすというのです。文法や語彙の規則を破ると、執筆者はその言語を知らないという印象を与えます。軽度の場合は許されるかもしれませんが、深刻な場合は理解が完全に破綻します。テキスト言語学的なタイプの規則を破ると、執筆者は首尾一貫性がないか非論理的に見えるかもしれません。そして最後に、文化特有の修辞的規則を破ると、執筆者はエキゾチックに見え、信頼性が低いと思われるかもしれないのです。
教育現場における英語使用の拡大
論文の後半部分では、教育面での英語使用について詳しく論じられています。近年、世界中の多くの大学が国際化プログラムの一環として、英語で授業を行うコースを提供するようになっています。これは英語母語話者でない講師が英語を教授言語として採用する場合もあれば、外国人講師(しばしば英語母語話者ではない)が担当する場合もあります。
これは「高等教育の国際的な市場化」の一部であり、大学がグローバルレベルで完全に関与しているプロセスです。言語学的には、これは典型的なリンガフランカとしての英語(ELF)の状況を生み出します。ほとんどの講師と学生は英語の母語話者ではありませんが、共通のコミュニケーションと教授の手段としてこの言語を使用するのです。
Gottiは、こうした英語での教授(EMI)コースにおける様々な研究を紹介しています。たとえば、Mauranen という研究者は、話し手が対話者の想定される言語能力に自分の話し方を適応させる「自己調整」戦略の採用を指摘しています。また、理解を促進するために、以前に述べたことを同じ人が別の方法で提案する「自己修復」や、概念をより明確にするために以前に言ったことを繰り返す「自己反復」といった戦略も使われます。
しかし、このような授業での英語使用は、必ずしも教育の質の向上につながるわけではありません。むしろ、講師が母語で教えない場合、教育の質が低下するリスクさえあります。実際、多くの場合、講師も学生も自分たちの英語能力を過大評価する傾向があります。
学生の沈黙が意味するもの
ここで印象的なのは、ある研究者の証言です。スウェーデンの大学での経験について、次のように述べています。「私の所属する学部でのほとんどのセミナーは英語で行われます。私の同僚の多くは英語を上手に話すと思いますが、スウェーデン語での科学的な議論と比べると、明らかに知的レベルが下がっています。学部生レベルの教育となると、それはさらに明白です。学生も(教師も)言葉を理解したり見つけたりするのに多くの時間を費やしています。それは、実際に科学的な問題を深く議論することに注ぐことができる努力が少なくなることを意味します」
この証言は、英語での教育が抱える本質的な問題を浮き彫りにしています。言語の問題に気を取られるあまり、本来の学問的な議論が浅くなってしまうのです。これは単なる効率の問題ではありません。学問の深さそのものに影響を与える重大な問題なのです。
ボローニャ・プロセスという名の変革
興味深いことに、Gottiは英語での教育プログラムの増加が、ボローニャ・プロセスの実施によって促進されたと指摘しています。ボローニャ宣言は、国際化を達成するために英語での教育が厳密に必要だとは述べていませんが、ノルウェーではそのように解釈されているというのです。
このプロセスは、時にESP(特定目的のための英語)コースの置き換えを招きました。ヨーロッパ全体で、ESPコースの伝統を持つ多くの学位課程が、ESPプログラムを英語で教えられる内容コースに置き換えてきました。これは、学生が大学での時間をできるだけ言語学習ではなく内容学習に充てたいという要望を反映しています。
しかし、ここには矛盾があります。英語力が弱い学生は、一般的な言語コースよりも、その後EMIコースに参加できるよう言語スキルを集中的に高めるESPコースを好むようです。つまり、学生たちは英語で専門科目を学ぶために、まず専門英語を学びたいと考えているのです。
CLIL という第三の道
この矛盾を解決する試みとして、Gottiは内容言語統合学習(CLIL)プログラムについても言及しています。CLILは1990年代以降、ヨーロッパでますます人気を集めています。このアプローチは、専門科目と外国語の組み合わせた教育に依拠し、両方で優れた能力を獲得することを目指しています。
しかし、大学レベルでは、CLILアプローチは必ずしも適切とは考えられていません。なぜなら、専門コースの目的には言語学習の目標が具体的に言及されていないからです。さらに、内容担当の講師は、英語能力の低い学習者に内容を適応させると「内容の希薄化」につながるのではないかと懸念しています。専門分野を学ぶと同時に英語を学ぶという目標は、大学では例外であって規範ではありません。外国語能力は学習目標というよりも前提条件と考えられているのです。
北欧諸国における反省と抵抗
興味深いのは、多くのヨーロッパ諸国が高等教育システムでの英語使用を増やそうと急いでいる一方で、一部の国々(特に北ヨーロッパ)では、この傾向に対する姿勢がより批判的になってきているという点です。
たとえばスウェーデンでは、英語の高い使用割合と、専門目的での自国語の使用を保証する必要性に対する大きな懸念があります。Salöが報告しているスウェーデンでの議論では、多くのスウェーデンの大学が、学術英語の使用を規制すると同時に学術スウェーデン語の存続を保証することを目的とした新しい言語政策を実施しています。両方の言語が重要と考えられているため、提案された解決策は並行言語使用です。
この新しい政策は、学生が母語で教育を受ける権利を保証し、英語の「脅威」から国語を守ることを意図しています。しかし、この政策も十分に効果的であることが証明されていません。Kutevaが述べているように、「並行言語使用の完全な意味とその実際的な応用は不明確なままであり、今日まで、それは主に実現されていない政治的スローガンのままです。理想的には、両方の言語が学生と教師によって様々な学術目的で使用されるべきですが、これは実際にはほとんど起こりません」
ノルウェーでも、高等教育における英語の使用増加は脅威として見られています。Brock-Utneは、この脅威に寄与する五つの要素を挙げています。ノルウェー語の学術的、官僚的、技術的な談話における英語の単語の使用増加、英語の学術文献の販売増加に対するノルウェー語の学術文献の販売停滞、ノルウェー語を話さない教員の採用、英語で教えられる修士課程の増加、そして最後に、英語での出版に対する経済的報酬です。
失われていく専門用語
さらに深刻な問題として、修士レベルで英語が広く使用される場合、高いレベルでの自国語の専門用語の利用可能性が減少し、コードミキシング(言語の混用)への依存が高まることが指摘されています。これは、英語で元々書かれた専門文献が他の母語に翻訳されることが少なくなっていることも一因です。
ノルウェーの状況について、Brock-Utneは次のように述べています。「これは、ノルウェー語で書かれノルウェーの高等教育で使用される必修テキストの市場が明らかに縮小していることを示す発展です。英語で書かれた学術文献が、急速にノルウェー語で書かれた学術文献に取って代わっています」
これは単なる言語の問題ではありません。自国語での専門的な議論ができなくなるということは、その言語での高度な思考が困難になることを意味します。言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、思考そのものを形作るものだからです。
論文の意義と限界
Gottiのこの論文の最大の強みは、英語の学術界における支配的地位を、単なる便利なツールとしてではなく、権力構造や文化的アイデンティティ、知識の生産と流通に関わる複雑な問題として捉えている点にあります。彼は一方的に英語使用を批判するのではなく、その利点と欠点を冷静に分析しています。
たとえば、リンガフランカとしての英語の使用が、国際的なコミュニケーションを可能にし、知識の共有を促進してきたことは否定できません。実際、多くの研究者が英語での出版によって国際的な認知を得てきました。問題は、この便益が特定の集団に偏っており、同時に重大な代償を伴っているという点なのです。
また、論文は多様な地域や文化圏からの研究を引用しており、この問題がグローバルな性質を持つことを示しています。スウェーデン、ノルウェー、イタリア、日本、エジプト、ラテンアメリカなど、世界各地の事例が検討されており、英語支配が地域を超えた共通の課題であることがわかります。
しかし、この論文にもいくつかの限界があります。第一に、2020年の発表時点での状況を扱っているため、その後の急速な変化(たとえばコロナ禍以降のオンライン教育の普及など)については言及されていません。第二に、解決策の提示という点では、並行言語使用などの政策が紹介されているものの、その効果的な実施方法については十分に掘り下げられていません。
私たちはどこへ向かうのか
この論文を読んで考えさせられるのは、「国際化」という言葉の持つ曖昧さです。多くの大学が掲げる国際化は、実際には英語化を意味しており、それは真の多様性とは異なるものかもしれません。本当の国際化とは、様々な言語や文化を尊重し、対等な立場での交流を促進することではないでしょうか。
Gottiは結論部分で、英語の教育と研究での使用が、母語の規範や慣習への忠実さと、個人の能力やアイデンティティの特性との間での繊細なバランスを達成しようとする研究者や学生にとって、重大な課題と機会の両方をもたらすと述べています。これらの要因は相互作用し、言語間および文化間の衝突から生じる混成形式によって特徴づけられるテキスト表現を生み出す複雑な現実を作り出しているのです。
この指摘は重要です。なぜなら、問題を二項対立(英語か母語か)として捉えるのではなく、より複雑で流動的なプロセスとして理解することを促しているからです。実際の学術コミュニケーションは、純粋な英語でも純粋な母語でもなく、両者が混じり合った「第三の空間」で行われているのです。
実践的な示唆
この論文から得られる実践的な教訓はいくつかあります。まず、大学の国際化政策を立案する際には、単に英語での授業を増やせばよいという単純な発想を避けるべきです。学生の言語能力、教員の準備状況、教育の質への影響などを慎重に検討する必要があります。
次に、非英語圏の研究者や学生に対する支援体制の充実が不可欠です。これには、英語でのアカデミック・ライティングの支援、異文化間コミュニケーションのトレーニング、そして何より、彼らの研究や意見が英語の流暢さではなく内容で評価される環境の整備が含まれます。
また、学術雑誌の編集者や査読者は、言語的な多様性に対してより寛容な姿勢を持つべきでしょう。完璧な英語表現よりも、革新的なアイデアや独自の視点を重視する評価基準が必要です。実際、一部の学術誌では、英語を母語としない著者に対して言語的な柔軟性を示す動きも出てきています。
さらに、母語での学術活動の重要性を再認識し、支援する必要があります。英語での発表と母語での発表の両方が評価される評価システム、母語での専門文献の充実、そして若い世代に母語での高度な議論の技術を伝えていくことが重要です。
おわりに:多様性こそが学問の糧
学問の世界は本来、多様な視点や方法論が競い合い、刺激し合うことで発展してきました。異なる文化や言語背景を持つ研究者たちが、それぞれの独自の視点から問題に取り組むことで、新しい発見や理論が生まれてきたのです。
しかし、英語への過度な集中は、この多様性を損なう危険性があります。まるで、色とりどりの花が咲いていた庭が、効率性の名のもとに単一品種だけの畑に変えられてしまうようなものです。確かに管理は楽になるかもしれませんが、生態系としての豊かさは失われてしまいます。
Gottiの論文は、この危機的状況を冷静に分析し、私たちに警鐘を鳴らしています。同時に、問題の複雑さを示すことで、単純な解決策がないことも明らかにしています。英語を完全に排除することは現実的でも望ましくもありませんが、英語への無批判な依存も避けるべきです。
必要なのは、英語の実用的な価値を認めつつも、言語的・文化的多様性を尊重し、支援する制度と意識です。それは簡単な道のりではありませんが、学問の本質である批判的思考と創造性を守るために、避けては通れない課題なのです。
この論文を読んだ私たち一人一人が、自分の立場でできることを考え、行動することが求められています。それは、英語での論文執筆を支援する取り組みかもしれませんし、母語での学術活動を評価し促進する仕組みづくりかもしれません。あるいは、異なる言語や文化背景を持つ同僚や学生の意見に耳を傾け、尊重する日々の実践かもしれません。いずれにせよ、言語の選択が単なる技術的な問題ではなく、学問のあり方そのものに関わる重要な問題であることを、私たちは認識する必要があるのです。
Gotti, M. (2020). Recent developments concerning the use of English for teaching and research purposes. CercleS, 10(2), 287–300. https://doi.org/10.1515/cercles-2020-2020