言語の壁を超える新しい評価の形

言語を学ぶということは、多くの学習者にとって喜びでもあり、同時に大きな不安を伴う経験でもあります。特に初級段階では、限られた語彙と文法知識しか持たない中で自分の考えを表現しなければならないという状況に、多くの学習者が苦しんでいます。ニュージーランドのオークランド大学のDanping WangとMartin Eastによる本研究”Integrating translanguaging into assessment: Students’ responses and perceptions”は、こうした初級学習者の困難に対して、トランスランゲージングという概念を評価デザインに取り入れることで、新たな解決策を提示しようとするものです。

本研究の著者であるDanping Wangは、中国語教育を専門とする研究者で、多言語主義と言語教育における創造性について長年研究を重ねてきました。共著者のMartin Eastは、言語評価とタスクベースの言語教育を専門としており、両者の専門性が組み合わさって、この意欲的な研究が実現しました。この研究は、COVID-19パンデミックによる緊急オンライン教育という予期せぬ状況が、かえって新しい評価方法を試す機会を提供したという点でも注目に値します。

トランスランゲージングという考え方

トランスランゲージングという言葉は、日本の言語教育の現場ではまだあまり馴染みがないかもしれません。これは簡単に言えば、第二言語の学習者が、学習中の言語だけでなく、母語を含めた自分の持つあらゆる言語資源を活用してコミュニケーションを図る現象を指します。

従来の言語教育では、「目標言語だけを使うべき」という単一言語主義的な考え方が支配的でした。例えば英語の授業では英語だけ、中国語の授業では中国語だけを使うことが推奨され、母語の使用は避けるべきものとされてきました。しかし、この考え方は、学習者が実際に持っている言語能力を十分に発揮させることを妨げているのではないか、という問題提起がなされてきました。

Ofelia GarcíaやWei Liといった研究者たちは、言語の境界は社会的・政治的に構築されたものであり、実際の人間のコミュニケーションはもっと流動的で混ざり合ったものだと指摘しています。特に初級段階の学習者にとって、母語を一切使わずに目標言語だけで表現することを求められるのは、非現実的であるだけでなく、学習者の意欲を削ぐ可能性もあります。

中国語学習の特殊な困難

本研究が中国語を対象としていることには重要な意味があります。中国語の文字体系は、アルファベットを使う言語とは根本的に異なっており、初級学習者にとって特に大きな挑戦となります。

例えば英語やフランス語などのヨーロッパ言語では、音と文字の対応関係がある程度明確です。しかし中国語の漢字は表意文字であり、一つ一つの文字が意味を持ち、その形と音の関係は必ずしも直接的ではありません。初級学習者は、漢字の発音(ピンイン)、意味、そして書き方(筆順)という三つの側面を同時に記憶しなければならず、これには膨大な練習時間が必要です。

従来の中国語の初級コースでは、手書きで漢字を正確に書けるようになることが重視されてきました。テストでも手書きが求められ、少しでも筆順や形が間違っていれば減点されます。しかし、この手書き中心の評価方法が、中国語学習を継続する上での大きな障壁になっているという指摘もあります。実際、現代社会では、中国語を使う場面でも、手書きよりもパソコンやスマートフォンのキーボード入力を使うことの方が圧倒的に多いのです。

緊急オンライン教育が生み出した変化の機会

2020年3月、COVID-19パンデミックの影響で、多くの教育機関が突如としてオンライン教育への移行を余儀なくされました。Danping Wangが担当していた初級中国語のコースも例外ではありませんでした。対面授業ができなくなり、従来のペーパーテストを実施することも困難になりました。

しかし、この危機的状況は、同時に新しい評価方法を試す機会でもありました。オークランド大学では、緊急時の評価方針が改訂され、オンラインでのオープンブック形式の試験が原則として認められるようになりました。これにより、教員はより柔軟に評価方法を設計できるようになったのです。

Wangは、この機会を活用して、トランスランゲージングの概念を取り入れた新しい作文テストを開発しました。このテストは、コース全体の評価の中では小さな位置づけ(全体の2%)でしたが、新しいアプローチを試すには適切な規模でした。

実際のテストデザイン

新しく開発されたテストは、従来のテストとは大きく異なるものでした。学生には二つの画像が提示されました。一つは映画「インクレディブル・ファミリー」の家族写真、もう一つはディズニー映画「ムーラン」のポスターです。学生たちは、自分がインクレディブル家の一員だと想定し、現在ハリウッドを訪れている中国のヒロイン、ムーランに自分の家族を紹介する、という設定で作文を書くよう求められました。

このタスクの最も重要な特徴は、「必要に応じて英語の単語を使ってもよい」という明確な指示が与えられたことです。つまり、学生たちは中国語だけで完璧な文章を書く必要はなく、どうしても表現できない部分は母語や英語を使ってもよい、という自由が与えられたのです。

さらに、このテストはデジタル環境で実施されたため、学生たちは手書きではなく、中国語入力用の仮想キーボードを使ってタイピングすることができました。これにより、漢字の書き順を完璧に覚えていなくても、ピンインさえ分かれば入力できるという大きな利点がありました。

テストに参加したのは163名の学生で、彼らはこの時点で中国語を学び始めてわずか4週間、合計20時間の授業しか受けていない完全な初級者でした。彼らが学んだ内容は、挨拶、自己紹介、家族についての基本的な表現だけでした。

学生たちのパフォーマンス

テストの結果は、研究者たちの予想を良い意味で裏切るものでした。まず注目すべきは、163名全員が時間内にテストを完了し、提出したという事実です。トランスランゲージングを認めたことで、誰も途中で諦めることなく、タスクを最後まで完成させることができたのです。

学生たちの作文を分析すると、いくつかの重要な発見がありました。第一に、学生たちは英語の使用を過度に頼ることなく、「目的的なトランスランゲージング」を実践していました。つまり、本来のテストの目的である中国語能力の証明を理解した上で、どうしても必要な場合だけ英語を使うという、バランスの取れた判断をしていたのです。

例えば、ある学生の作文では、「Mulan小姐,这是我的照片」(ムーランさん、これは私の写真です)という書き出しで、人名の「Mulan」だけを英語で表記し、残りはすべて中国語で書いていました。別の学生の例では、より複雑な文章構成に挑戦し、「我们是美国人。你是中国人吗?你爱Hollywood吗?你爱New Zealand吗?」(私たちはアメリカ人です。あなたは中国人ですか?ハリウッドは好きですか?ニュージーランドは好きですか?)というように、地名や固有名詞だけを英語で表記し、文法構造や動詞、疑問文の形式などは中国語で正確に表現していました。

第二の発見は、学生たちのタスク完成度が予想以上に高かったことです。テストでは最低20文字の中国語を使うことが求められていましたが、すべての学生がこの最低要件を大きく上回る作文を書きました。トランスランゲージングが認められたことで、学生たちは表現の制約から解放され、より積極的にコミュニケーションを試みようとしたのです。

創造性の発揮

従来の言語テストでは、多くの場合、正解が一つに定まっており、学生たちは教科書で学んだ表現を正確に再現することが求められます。しかし、今回のテストでは、学生たち一人ひとりが異なる内容の作文を書きました。同じ内容の作文は一つもなく、それぞれが自分なりの創造的な表現を試みていました。

ある学生は、家族構成を紹介した後、「你也是superhero吗?」(あなたもスーパーヒーローですか?)という質問を加えることで、インクレディブル家とムーランの共通点を面白く取り上げました。別の学生は、「我爱我的家。你呢?」(私は自分の家族を愛しています。あなたはどうですか?)という質問で作文を締めくくり、相手との対話を意識した構成にしていました。

このような創造性は、学生たちが言語学習を単なる暗記や反復練習としてではなく、自己表現やコミュニケーションの手段として捉えていることを示しています。Rodney Jonesという研究者が提唱する「混沌とした創造性」という概念は、まさにこのような状況を指しています。完璧さを求めるのではなく、利用可能なあらゆる資源を使って意味のあるコミュニケーションを成立させようとする、そのプロセス自体に価値があるという考え方です。

学生たちの声

テストの直後、学生たちにアンケート調査が実施されました。「作文テストで英語の使用を認めるという決定についてどう思いますか」という質問に対して、171件の肯定的なコメントと42件の否定的なコメントが寄せられました。

肯定的なコメントは12のカテゴリーに分類されました。最も多かったのは、「面白い、魅力的、楽しい」という反応でした。ある学生は「これまでこういう言語テストを受けたことがなかった。予想外だったけど良い経験だった」と述べています。

また、「現在のレベルに適している」というコメントも多く見られました。初級者にとって、すべてを目標言語で表現することは現実的ではなく、母語の使用を認めることで、初めて意味のあるコミュニケーション活動に参加できるようになったと感じた学生が多かったのです。

興味深いのは、「ストレスレベルが下がった」というコメントです。ある学生は「すべてを同時に思い出すことを強要されないので、作文に集中できた」と書いています。従来のテストでは、漢字の書き方、発音、意味をすべて完璧に記憶していなければならず、それが大きなプレッシャーになっていました。しかし、キーボード入力を使い、必要に応じて英語も使えることで、学生たちは内容そのものに集中できるようになったのです。

予想外だったのは、「カンニングが減る」というコメントです。ある学生は「Google翻訳を使う誘惑が減った。なぜなら、知らない単語は英語で書けばいいから」と述べています。皮肉なことに、母語の使用を認めることが、かえって不正行為を減らす効果があったのです。完璧な中国語の文章を書かなければならないというプレッシャーがなくなったことで、学生たちは自分の実力を正直に示そうとする傾向が強まったと考えられます。

一方、否定的なコメントは6つのカテゴリーに分類されました。最も多かったのは「母語話者のようになるべきだ」という、いわゆる「ネイティブスピーカー主義」の考え方でした。ある学生は「学生は可能な限り適切な中国語の表現を探すべきで、母語話者のように聞こえるように努力すべきだ」と書いています。

また、「本物ではない」「予期していなかった」「不必要だ」といったコメントも見られました。これらの学生たちは、これまでの言語学習経験の中で、単一言語使用という規範を内面化しており、それと異なる評価方法に戸惑いを感じたようです。

日本の言語教育への示唆

この研究から得られる知見は、日本の言語教育、特に外国語教育にも重要な示唆を与えています。

まず、日本語教育の文脈で考えてみましょう。日本語を学ぶ外国人学習者、特に初級段階の学習者は、ひらがな、カタカナ、漢字という三つの文字体系を同時に学ばなければなりません。これは中国語学習者が直面する困難と共通する部分があります。従来の日本語教育では、これらの文字をすべて正確に手書きできることが重視されてきましたが、現代社会でのコミュニケーションを考えると、キーボード入力の重要性は増しています。

日本語の作文テストでも、初級段階では学習者の母語使用を部分的に認めることで、より豊かな表現や創造的なコミュニケーションが可能になるかもしれません。例えば、固有名詞や抽象的な概念など、まだ日本語で表現できない部分については、母語での補足を認めることで、学習者は自分の考えをより完全に表現できるようになります。

一方、日本における英語教育にも同様の示唆があります。日本の英語教育では長年、「英語の授業では英語だけを使うべき」という考え方が支配的でした。しかし、この研究が示すように、特に初級段階では、母語の使用を戦略的に認めることが、学習者の不安を軽減し、より積極的な参加を促す可能性があります。

重要なのは、母語の使用を無制限に認めるのではなく、「目的的なトランスランゲージング」を促すことです。この研究の学生たちは、英語を使ってもよいという自由が与えられたにもかかわらず、テストの本来の目的である中国語能力の証明を理解し、必要最小限の範囲でのみ英語を使いました。これは、適切にデザインされた評価であれば、学習者は自律的に判断できることを示しています。

評価と課題

本研究には、学術的にも実践的にも高い価値があります。第一に、トランスランゲージングという理論的概念を、実際の評価場面に適用し、その効果を実証的に検証した点です。これまでトランスランゲージングは主に教室での教授法として議論されてきましたが、評価への応用はほとんど研究されていませんでした。

第二に、中国語という、英語以外の言語を対象とした研究である点も重要です。トランスランゲージング研究の多くは英語教育を対象としており、他の言語への応用可能性については十分に検討されてきませんでした。本研究は、文字体系が大きく異なる中国語においても、トランスランゲージングのアプローチが有効であることを示しました。

第三に、パンデミックという予期せぬ状況を、新しい教育方法を試す機会として捉え、実践した点です。危機的状況だからこそ、従来の固定観念にとらわれない柔軟な発想が可能になったとも言えます。

ただし、いくつかの限界も認識する必要があります。まず、この研究は単一の大学、単一のコースでの実践であり、結果の一般化には慎重さが必要です。また、学生からのフィードバックは、テストの提出と同時に収集されたため、評価される側と評価する側の権力関係が回答に影響を与えた可能性も否定できません。

さらに、このアプローチが初級段階では有効だとしても、上級レベルになってもトランスランゲージングを認め続けるべきかという問題もあります。ある段階では、より厳密な単一言語使用の評価も必要になるかもしれません。

言語評価の新しい可能性

この研究が私たちに問いかけているのは、「言語能力とは何か」という根本的な問いです。従来の言語評価は、母語話者の能力を最終目標として、そこに至る段階を測定するという考え方に基づいてきました。しかし、第二言語学習者の多くは、必ずしも母語話者と同じレベルになることを目指しているわけではありません。

特に大学の教養課程で学ぶ学生の多くは、その言語を使って専門的な仕事をするためではなく、異文化理解や自己啓発、楽しみのために学んでいます。この研究の調査でも、中国語を学ぶ学生の47%が「自己満足のため」、つまり旅行、娯楽、快適な領域から出るため、あるいは単にアジアの言語を学ぶことを楽しむために学んでいることが明らかになりました。

このような学習者にとって、母語話者基準の厳格なテストは、かえって学習意欲を削ぐものになりかねません。むしろ、自分の持っているあらゆる資源を使って、意味のあるコミュニケーションを成立させられるかどうかを評価する方が、実際の言語使用場面により近いとも言えます。

また、この研究は、デジタル技術の進展が言語評価にもたらす可能性も示しています。キーボード入力を使うことで、手書きの困難さから解放され、学習者はより高次の思考、つまり内容や構成、相手とのやり取りなどに集中できるようになります。特に漢字のような複雑な文字体系を持つ言語では、デジタルツールの活用は学習者の負担を大きく軽減します。

実践への応用

では、この研究の知見を実際の教育現場でどう活かせるでしょうか。いくつかの具体的な提案が考えられます。

第一に、初級段階の評価では、トランスランゲージングを戦略的に認める余地を設けることです。ただし、無制限に母語使用を認めるのではなく、どのような場合に、どの程度まで認めるかを明確にする必要があります。例えば、固有名詞、専門用語、抽象的概念など、まだ学習していない語彙については母語使用を認めるという方針が考えられます。

第二に、評価の目的を再考することです。初級段階では、完璧な言語形式の産出よりも、コミュニケーションへの意欲、創造的な表現の試み、異文化理解の深まりなどを評価することも重要です。この研究の学生たちは、限られた言語知識でも、相手に質問したり、共通点を見つけたりして、対話を成立させようとしていました。こうした態度や能力も評価に含めるべきではないでしょうか。

第三に、デジタルツールの積極的な活用です。特に文字体系が複雑な言語では、キーボード入力を早期から導入することで、学習者はより高度な言語活動に取り組めるようになります。手書きの練習も必要ですが、それをすべての評価の前提条件とする必要はないかもしれません。

第四に、学習者の声に耳を傾けることです。この研究では、学生からの肯定的・否定的両方のフィードバックを丁寧に分析し、それを次の改善に活かそうとしています。教育の革新は、教える側だけでなく、学ぶ側の視点も取り入れることで、より実効性のあるものになります。

おわりに

Danping WangとMartin Eastによるこの研究は、言語評価のあり方を根本から問い直す、勇気ある試みです。パンデミックという危機的状況が、かえって新しい可能性を開く契機となったことは興味深い逆説です。

トランスランゲージングのアプローチは、決して基準を下げることではありません。むしろ、学習者が持つすべての資源を活用して、より豊かで創造的なコミュニケーションを可能にするための方策です。この研究の学生たちは、英語の使用が認められたにもかかわらず、最低限の範囲でのみそれを使い、できる限り中国語で表現しようと努力しました。これは、適切にデザインされた評価であれば、学習者は責任ある判断ができることを示しています。

日本の言語教育においても、単一言語使用という規範を絶対視するのではなく、学習段階、学習目的、学習者の背景に応じて、より柔軟で人間的な評価方法を模索する時期に来ているのかもしれません。言語学習は、完璧な模倣を目指すものではなく、自分なりの表現を見つけていく創造的なプロセスであるはずです。

この研究が示唆するのは、評価という営みが、学習者を選別し序列化する道具ではなく、学習者一人ひとりの成長を支え、励まし、次の学びへの意欲を喚起するものであるべきだということです。そして、そのためには、時に大胆な発想の転換が必要だということです。完璧な言語使用を求めるあまり、学習者が沈黙してしまうよりも、不完全でも混沌としていても、伝えたいことを表現しようとする姿勢を評価する。そんな温かい評価のあり方が、これからの言語教育には求められているのかもしれません。


Wang, D., & East, M. (2024). Integrating translanguaging into assessment: Students’ responses and perceptions. Applied Linguistics Review, 15(5), 1911–1937. https://doi.org/10.1515/applirev-2023-0087

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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