筆者と研究の背景
この論文”To impart knowledge or to adhere to policy: Unpacking language ideologies and practices in Chinese EMI courses through a translanguaging lens”は、中国の汕頭大学(Shantou University)のFan Fangと楊俊紅(Junhong Yang)、そして香港大学教育学部のLianjiang Jiangによって執筆されました。Fan Fangは応用言語学の分野で、特にグローバル英語や英語を媒介とした教育(EMI)について研究を重ねてきた研究者です。中国の大学で実際に教鞭を取りながら、現場で起きている言語使用の複雑な実態を観察してきた経験が、この研究の土台となっています。
近年、世界中の大学で英語を使って専門科目を教える授業が急速に増えています。中国でも国際化や市場化の波に乗って、多くの大学がこうした授業を導入してきました。しかし、教室の中で実際に何が起きているのか、教師や学生はどのように言語を選び、使っているのかについては、まだ十分に理解されていません。この研究は、そうした現場の声を丁寧に拾い上げようとする試みです。
英語だけで教えるべきか、それとも
大学で英語を使って専門科目を教える授業(EMI)が広がる中で、一つの大きな議論があります。それは「英語だけを使うべきか、それとも学生の母語も交えて教えるべきか」という問題です。
政策を作る側は、しばしば「英語だけ」を理想として掲げます。英語だけの環境に身を置けば、学生の英語力が伸びるという考え方です。中国の教育部も、大学の授業の5~10パーセントを英語や外国語で行うよう推奨しています。まるで、英語のシャワーを浴びせれば自然と英語が身につくという発想です。
しかし、実際の教室では事情が異なります。教師も学生も、完璧な英語話者ではありません。専門的な内容を英語だけで説明しようとすると、微妙なニュアンスが伝わらなかったり、学生が理解できなかったりすることがあります。たとえば、法律の専門用語を英語で説明されても、中国語での意味と照らし合わせないと腑に落ちないことがあるのです。
調査の方法―三つの角度から見る
この研究の強みは、三つの異なる方法で同じ問題を調べたことにあります。まず、実際の授業を観察して、教師と学生がどのように言語を使っているかを記録しました。五つの授業を何度も訪れ、合計で855分間の授業を録音し、詳細なメモを取りました。
次に、163人の学生に質問紙調査を行い、彼らの言語に対する考え方や実際の使い方について尋ねました。そして最後に、教師5人と学生10人に対して個別のインタビューを行い、彼らの本音を引き出しました。
この三つの方法を組み合わせることで、表面的な意見と実際の行動の違いや、言葉にされない思いまでを捉えることができました。まるで、同じ風景を異なる角度から撮影して、立体的な像を作り上げるようなものです。
授業の中で起きていること
観察された授業の中で、教師たちは三つの場面で特に母語(中国語)を使っていました。
一つ目は、意味を理解させたり強調したりする場面です。ある教師は、哲学的な概念を説明するときに、言葉だけでなくホワイトボードに絵を描きました。棒人間が人生の終わりを表す線を越えて、矢印が未来を指す図です。視覚的な助けを借りることで、抽象的な概念が学生に伝わりやすくなります。
二つ目は、専門用語を説明する場面です。たとえば、ある法学の授業で、教師は「parens patriae」というラテン語の法律用語を説明しました。英語で「parents of a nation」と説明しただけでは学生は理解できませんでした。そこで教師は中国語で「政府監護」と繰り返し説明し、ようやく学生に理解してもらえたのです。
三つ目は、地域に根ざした文化的要素を扱う場面です。学生がプレゼンテーションで「天父堂」(太平天国の礼拝所)について発表する際、英語の「The Taiping Worship Hall」だけでは不十分で、中国語の元の名称も示すことで、聴衆の理解が深まりました。
興味深いことに、五人の教師のうち二人は完全に英語だけで授業を行いましたが、他の教師は程度の差こそあれ、必要に応じて中国語を使っていました。
学生の本音―三つのタイプ
学生たちの考え方は、大きく三つのタイプに分かれました。
まず「信奉者」と呼べるグループです。彼らは英語だけで授業を行うことを強く支持していました。S4という学生は「バイリンガルの授業は英語力向上に役立たない。英語だけの授業こそが最良の方法だ」と語りました。彼らにとって、EMIは英語力を鍛える貴重な機会であり、母語を使うことは甘えだと感じているようでした。
次に「懐疑派」と呼べるグループがいます。彼らは英語だけで授業を行うことに疑問を感じていました。S1という学生は「英語だけにこだわるのは過度な矯正だ。EMIの目的は知識を得ることであって、言語はそのための道具に過ぎない。母語を使った方が効率的なら、英語にこだわる必要はない」と主張しました。
そして「中間派」がいます。彼らは状況に応じて柔軟に対応すべきだと考えていました。S5という学生は「英語だけを使うと理解できない学生が出てくる。でも中国語を使いすぎると英語学習の目的が達成できない。バランスが大切だ」と語りました。
理想と現実のギャップ
質問紙調査の結果は、興味深い矛盾を示しました。学生たちは英語だけで授業を行うことに対して、わずかに好意的な態度を示しました(平均3.72点、6点満点)。しかし、実際には英語だけでコミュニケーションを取ることは難しいと感じており(平均2.49点)、内容を理解することも容易ではない(平均2.42点)と答えています。
その一方で、複数の言語を使うこと(トランスランゲージング)に対しては、より好意的でした(平均4.03点)。統計的な分析でも、この差は有意なものでした。つまり、頭では「英語だけが良い」と思いながらも、心では「やっぱり母語も必要だ」と感じているのです。
実際、英語だけを支持していたS4でさえ、クラスメートとの議論では中国語を使っていました。「正直なところ、議論のときは中国語を使います。考えを次々と交換するには、中国語の方が便利なんです。英語力が足りないので、英語だけではうまくコミュニケーションが取れません」と彼は認めています。
教師たちの葛藤
教師たちの多くは、学生とは異なる立場を取っていました。彼らは英語だけで教えることを理想としていましたが、その理由は三つありました。
一つは大学の方針です。T4という教師は「英語だけを使うのは、英語センターの言語方針の要求だから」と明言しました。教師たちは、見えない圧力の下で教えているのです。
二つ目は、イマージョン(浸漬)教育への信念です。T3という教師は「英語だけの環境は、学生が英語で学び、英語で考えるのに役立つ」と語りました。中国では英語を使う機会が限られているため、授業が貴重な練習の場になるという考え方です。
三つ目は、母語への過度な依存を避けたいという思いです。T4は「学生の英語力があまり高くない現状で、バイリンガルの授業にすると、最終的に中国語の授業になってしまうかもしれない」と懸念を示しました。
しかし、実際の授業では、これらの教師たちも母語を使っていました。T3は「長くて複雑な法律条文に出会ったとき、文法的に分解するだけでなく、学生に翻訳させます。翻訳した後、学生は法律条文をよりよく理解できます」と説明しました。理想と現実の間で、教師たちも揺れ動いているのです。
言語に上下関係はあるのか
この研究では、もう一つ重要な問題を扱っています。それは「言語の間に上下関係や階層があるのか」という問題です。
驚くべきことに、15人の参加者のうち13人は、言語に階層関係はないと答えました。S1は「言語はコミュニケーションのためのもの。英語と中国語の間に階層はない。どちらもコミュニケーションの道具だ」と語りました。T2という教師も「英語は本質的に優れた言語ではない。しかし現状では、非常に実用的な価値がある」と述べ、英語の有用性を認めながらも、優越性は否定しました。
しかし、少数の学生は異なる見方をしていました。S9は「EMIを選ぶという行為自体が、言語の階層を示唆している。英語で教わる方が良いと感じているから、EMIを選ぶのだ。それに、西洋諸国の方が発言権を持っていて、英語で発表された研究の方が西洋の機関に認められやすい。自然と英語が優位になる」と指摘しました。
S10も経済力が言語の地位に影響すると述べました。「言語の階層は経済とも関係している。大学教育は多くの学生にとって自己実現の手段だ。国際化に参加する能力と結びついているから、英語を学ぶことが極めて重要になる」
これらの意見は、言語が単なるコミュニケーションの道具ではなく、社会的・経済的な力と結びついた複雑な存在であることを示しています。
日本への示唆
この研究から、日本の英語教育にも多くの示唆が得られます。
まず、英語だけで教えることを理想化しすぎることの危険性です。日本でも、グローバル化の流れの中で英語で授業を行う大学が増えています。しかし、形式的に「英語だけ」にこだわることが、かえって学びの質を下げる可能性があります。中国の例が示すように、学生も教師も、必要に応じて母語を使うことで、より深い理解や効果的なコミュニケーションが可能になることがあります。
次に、政策と現場の乖離に注意する必要があります。トップダウンで「英語で教えよ」という方針が降りてきても、現場の教師や学生のニーズや能力を考慮しなければ、建前と本音の分裂が起きます。日本でも、教育政策を作る際には、実際に教える人、学ぶ人の声を丁寧に聞く必要があります。
また、複数の言語を使うこと(トランスランゲージング)を「悪いこと」「英語力不足の証」と見なす風潮を変えていく必要があります。むしろ、複数の言語資源を柔軟に使いこなすことは、高度な言語能力の表れとも言えます。専門的な内容を学ぶ際に、母語と英語を行き来することで、概念の理解が深まることがあります。
さらに、英語の地位について批判的に考える姿勢も大切です。この研究の学生たちの多くは「言語に上下はない」と答えました。しかし、実際には英語が学術や経済の世界で優位に立っているという現実もあります。こうした現実を認識しながら、同時に、日本語や他の言語の価値を軽視しない態度が求められます。
研究の限界と今後の課題
著者たち自身が認めているように、この研究にも限界があります。
まず、サンプルサイズが比較的小さいことです。五つの授業、163人の学生、15人のインタビュー参加者という規模では、中国全体の状況を代表しているとは言えません。異なる地域や異なるタイプの大学では、また違った結果が出るかもしれません。
また、政策を作る側の人々(大学の管理職や教育部の担当者など)の声が含まれていません。トップダウンで決まると指摘されているEMI政策ですが、実際に政策を作る人々がどのような考えでそうした決定をしているのか、その視点が欠けています。
さらに、教師の授業を録画できなかったことも限界の一つです。音声録音とメモだけでは、ジェスチャーや表情、ホワイトボードの使い方といった非言語的なコミュニケーションの全体像を捉えきれません。トランスランゲージングは言葉だけでなく、身体や視覚的な要素も含む多様な実践だからです。
最後に
この研究が明らかにしたのは、言語教育における「理想」と「現実」の複雑な関係です。政策は「英語だけ」を掲げ、教師の多くもそれを理想としています。しかし、実際の教室では、教師も学生も、状況に応じて複数の言語を使っています。
重要なのは、この「ギャップ」を問題と見なすのではなく、現実の豊かさとして受け止めることかもしれません。完璧な英語を話せない教師や学生が、限られた言語資源を工夫して使いながら、専門的な知識を学び、教えている。その過程で、母語も英語も、そして絵や図といった視覚的な要素も、総動員される。それは、弱さではなく、むしろ人間らしい創造性の表れではないでしょうか。
グローバル化が進む中で、英語の重要性は否定できません。しかし、それは他の言語を犠牲にすることを意味しません。複数の言語を使いこなし、状況に応じて最適な言語やコミュニケーション手段を選べること。それこそが、本当の意味でのグローバルな能力なのかもしれません。この研究は、そうした多言語主義の可能性を、中国の大学という具体的な現場から示してくれています。
Fang, F., Jiang, L., & Yang, J. (2023). To impart knowledge or to adhere to policy: Unpacking language ideologies and practices in Chinese EMI courses through a translanguaging lens. Language Teaching Research, 1–30. https://doi.org/10.1177/13621688231183771
