はじめに:ある研究者の問いかけ
イタリアのベルガモ大学に勤めるマウリツィオ・ゴッティ教授が2020年に発表したこの論文は、世界中の大学で急速に進む「英語化」という現象を、冷静な目で見つめた研究です。ゴッティ教授は長年、専門英語や学術コミュニケーションの研究に携わってきた言語学者で、特にヨーロッパの大学における多言語使用の問題に深い関心を持っています。
この論文”Recent developments concerning the use of English for teaching and research purposes”を読んでいると、まるで大学のキャンパスを歩きながら、さまざまな国から来た学生や教員の会話に耳を傾けているような感覚になります。ある教室では、母語がイタリア語の教授が英語で工学を教え、中国、スペイン、ドイツから来た学生たちが英語でディスカッションをしている。別の研究室では、ノルウェーの研究者が自国語ではなく英語で論文を書くべきか悩んでいる。そんな現代の大学の風景が、この論文には描かれています。
研究の背景:なぜこの問題が重要なのか
ゴッティ教授がこの論文を書いた背景には、ヨーロッパの大学で起きている大きな変化があります。特に2000年代以降、EU諸国では「ボローニャ・プロセス」と呼ばれる高等教育の国際化政策が進められてきました。これは、ヨーロッパ各国の大学制度を統一し、学生や教員の国際的な移動を促進しようとする取り組みです。
その結果、どの国の大学でも通用する「共通言語」が必要になり、事実上、英語がその役割を担うようになりました。しかし、ここで問題が生じます。EUは本来、「多様性の中の統一」を掲げ、各国の言語と文化を尊重する姿勢を示してきました。それなのに、実際には英語だけが使われるようになっているのです。ゴッティ教授はこの矛盾を「ヨーロッパのパラドックス」と呼んでいます。
筆者自身もヨーロッパの学術環境に身を置く研究者として、この問題を肌で感じてきたのでしょう。論文全体から伝わってくるのは、単なる学術的な興味ではなく、現場で働く人々への深い共感です。
研究の世界での英語支配:誰が得をして、誰が苦しむのか
論文の前半部分では、学術出版における英語の圧倒的な優位性について論じられています。ゴッティ教授が紹介するエピソードの一つに、エジプトの海洋生物学者の話があります。この研究者は博士論文を書く際、アラビア語的な文章構成で最初の草稿を書いたのですが、それではアメリカの学術誌に受け入れられませんでした。何度も書き直しを求められ、最終的にはアメリカの学術界で標準とされる「直線的な論理展開」に沿った形に作り変えなければならなかったというのです。
これは単なる言語の問題ではありません。それぞれの文化には、物事を説明する独自の方法があります。たとえば日本では、結論を最後に持ってくる「起承転結」の構成が好まれますし、中東の伝統では、さまざまな例や引用を織り交ぜながら豊かに語る方法が重視されてきました。しかし、英語圏の学術界では「主張を最初に明確に述べ、それを論理的に説明する」という形式が求められます。非英語圏の研究者は、自分の文化的な表現方法を捨て、英語圏のやり方に合わせなければならないのです。
ゴッティ教授は、この状況を「知的な植民地化」の危険性として指摘しています。世界中の優秀な研究者が英語で論文を書こうとする一方で、自国語での学術出版は衰退していきます。イタリアの医学雑誌「イタリアン・ハート・ジャーナル」が、より「国際的」に見せるために「ジャーナル・オブ・カーディオバスキュラー・メディシン」と改名し、アメリカの出版社から出すようになった例が紹介されています。これは、周縁部の研究が中心部に認められるためには、自分たちの出自を隠さなければならないという、なんとも皮肉な状況を表しています。
さらに深刻なのは、英語を母語としない研究者が直面する「三重の不利」です。彼らは、英語で文献を読み、英語で研究を行い、英語で論文を書かなければなりません。その上、完璧な英語でなければ査読者に却下されるリスクがあります。まるで、サッカーの試合で、ある選手だけが重いおもりを付けて走らされているようなものです。
ただし、ゴッティ教授の議論には、もう少し掘り下げてほしかった点もあります。たとえば、英語の優位性は本当に「強制」なのでしょうか。多くの非英語圏の研究者は、より広い読者に届けるために、自ら進んで英語で書くことを選んでいます。これは合理的な選択とも言えます。また、論文では主に人文社会科学や医学の例が多く、自然科学での状況がどうなのかについては、あまり詳しく触れられていません。分野によって事情は大きく異なるはずです。
大学の教室で起きていること:英語で専門科目を教えるという挑戦
論文の後半では、EMI(English Medium Instruction)、つまり英語を授業言語とする教育について詳しく論じられています。これは、スウェーデンの大学で物理学を英語で教えたり、イタリアの大学で経営学を英語で学んだりするような状況を指します。
ここでゴッティ教授が描き出すのは、教室の中の微妙な現実です。教員も学生も英語が母語でない場合、専門的な内容を学ぶのに加えて、言語の壁も乗り越えなければなりません。ある研究者の言葉が引用されています。「スウェーデン語で議論すれば深い議論ができるのに、英語になると表面的になってしまう。学生も教員も、言葉を探すことに時間を取られて、肝心の科学的な問題について深く考える余裕がなくなる」
これは、多くの人が共感できる経験ではないでしょうか。外国語で何かを学ぶとき、私たちは二つのことを同時にしなければなりません。一つは内容を理解すること、もう一つは言語を理解することです。まるで、楽譜を読みながら、同時に楽器の弾き方も学んでいるようなものです。
興味深いのは、ゴッティ教授が「ELF(English as a Lingua Franca)」という概念を重視していることです。これは、英語を母語とする人の英語を模範とするのではなく、国際的なコミュニケーションの道具としての英語という考え方です。実際の教室では、教員も学生も英語母語話者ではないため、完璧な英語よりも、お互いに理解し合える英語が大切になります。
論文では、そのための工夫がいくつか紹介されています。たとえば「セルフ・リペア」と呼ばれる方法では、教員が自分の言ったことを言い換えて、学生の理解を助けます。「昨日話した概念、つまり、えーと、別の言い方をすると…」というような感じです。また「レット・イット・パス」という戦略では、学生が細かい部分で理解できなくても、会話の流れを止めないために、とりあえず先に進むことがあります。話が進むうちに、わからなかった部分が明らかになったり、あるいは重要でないとわかったりするからです。
これらは、日常会話でも使われる自然な方法です。私たちも、相手の言葉が完全にはわからなくても、文脈から推測したり、重要でないと判断して聞き流したりします。EMIの教室は、そうした柔軟なコミュニケーションの場になっているのです。
北欧諸国の反応:バランスを求める試み
特に印象的なのは、スウェーデンやノルウェーといった北欧諸国の対応です。これらの国々は、英語教育が進んでいることで知られていますが、同時に、自国語が学術の場で使われなくなることへの危機感も強く持っています。
スウェーデンでは「パラレル・ランゲージ・ユース」という政策が提案されました。これは、英語とスウェーデン語の両方を学術の場で使っていこうという考え方です。学生には母語で教育を受ける権利があり、同時に国際的な学術界に参加する機会も保障されるべきだ、というバランスを目指したものです。
しかし、ゴッティ教授が引用する研究によれば、この政策は実際には「実現されていない政治的スローガン」に終わっているといいます。理想は美しいのですが、現実には難しいのです。なぜなら、特に大学院レベルでは、最新の専門書や論文のほとんどが英語で書かれているからです。スウェーデン語の専門用語自体が、高度なレベルでは不足しているという問題も生じています。
ノルウェーの研究者ブロック=ウトネは、自国語が学術界から消えていく五つの兆候を挙げています。学術的な文章に英語の単語が増えていくこと、ノルウェー語の学術書の売り上げが停滞する一方で英語の学術書の売り上げが伸びていること、ノルウェー語を話さない教員が雇われること、修士課程で英語による授業が増えること、そして英語で出版すると経済的報酬があること、です。
これは言語の問題だけでなく、知識がどのように伝えられるかという問題でもあります。高度な専門知識が英語でしか表現されなくなると、その分野について自国語で議論することが難しくなります。大学で学んだ専門家が、自分の知識を一般の人々に説明しようとしても、適切な言葉が見つからない。専門用語が英語のままで、それを翻訳する言葉が存在しない。そうなると、専門家と一般市民の間に、言語の壁ができてしまいます。
この研究の強みと限界
ゴッティ教授のこの論文の最大の強みは、問題を多角的に捉えていることです。英語の普及を単純に「良いこと」とも「悪いこと」とも決めつけず、そこに含まれる複雑な現実を丁寧に描き出しています。グローバル化により研究者同士のコミュニケーションが容易になったという利点と、言語的・文化的多様性が失われるという問題点の両方を認めた上で、議論を進めているのです。
また、具体的な事例が豊富に紹介されているのも、この論文の魅力です。抽象的な議論だけでなく、実際の雑誌名、研究者の声、具体的な国の政策などが示されることで、読者は問題の実態を理解しやすくなっています。
さらに、教育の場における実践的な工夫についても触れられている点が評価できます。EMIの教室で使われる「セルフ・リペア」や「レット・イット・パス」といった戦略は、言語教育の研究者だけでなく、実際に英語で教えている教員にとっても有益な情報です。
一方で、いくつかの限界も指摘できます。第一に、この論文は主にヨーロッパの状況に焦点を当てています。アジアやアフリカ、ラテンアメリカの大学での状況については、断片的にしか触れられていません。地域によって、英語化の進み方や受け止められ方は大きく異なるはずです。
第二に、学問分野による違いが十分に論じられていません。人文学と自然科学では、英語化の影響は異なるでしょう。自然科学では国際共通語としての英語の利便性が高い一方、文学や歴史学では、言語そのものが研究対象と密接に結びついています。また、医学や工学といった実践的な分野と、哲学や社会学といった理論的な分野でも、状況は違うはずです。
第三に、学生の視点がやや不足しています。論文では主に教員や研究者の立場から問題が論じられていますが、実際にEMIの授業を受ける学生たちは、この状況をどう感じているのでしょうか。英語で学ぶことを前向きに捉えている学生もいれば、母語での教育を望む学生もいるでしょう。その声をもっと聞きたかったところです。
第四に、デジタル技術の影響についての言及が限られています。この論文が書かれたのは2020年ですが、その後、オンライン授業が急速に普及し、機械翻訳の精度も向上しました。これらの技術は、言語の壁を低くする可能性を持っています。今後の研究では、こうした技術的な側面も考慮に入れる必要があるでしょう。
日本への示唆:私たちはこの問題とどう向き合うべきか
この論文を読みながら、日本の状況を考えずにはいられません。日本でも、多くの大学が「グローバル化」を掲げ、英語による授業を増やしています。ほとんど、いやすべての大学で英語プログラムが設置されています。
日本の場合、ヨーロッパとは異なる事情もあります。日本語は世界的に見て話者数が多い言語ですが、日本以外ではほとんど使われていません。そのため、国際的な学術交流のためには、英語が不可欠という面があります。また、日本の大学の多くは、英語力の向上それ自体を目標の一つとしており、専門教育と英語教育を同時に行おうとする傾向があります。
しかし、ゴッティ教授が指摘する問題は、日本にも当てはまります。日本語での高度な学術的議論の場が減れば、専門知識を一般社会に還元することが難しくなります。研究者が日本語で深い議論をする機会が減れば、日本語の学術用語自体が衰退していく可能性もあります。
同時に、英語で教えることへの過度の期待も問題です。英語で授業をすれば自動的に「国際化」が達成されるわけではありません。教員の英語力、学生の英語力、そして専門内容の理解度、これらすべてのバランスを考慮する必要があります。
対立を超えて:多様性と実用性の両立は可能か
ゴッティ教授の論文が投げかける最も大きな問いは、「グローバルな学術コミュニケーションの必要性と、言語的・文化的多様性の保護を、どう両立させるか」ということです。これは簡単に答えの出る問いではありません。
一つの方向性として考えられるのは、「使い分け」の知恵です。国際的な研究発表や論文は英語で行い、自国内での教育や議論は母語で行う。あるいは、基礎教育は母語で行い、高度な専門教育では英語も活用する。こうした柔軟な使い分けが、現実的な解決策かもしれません。
また、英語を使う際にも、「標準的な英語」への同化を強制するのではなく、多様な英語の存在を認める姿勢が大切です。ゴッティ教授が強調するELFの考え方は、ここで重要な意味を持ちます。インド人の英語、中国人の英語、イタリア人の英語、日本人の英語、それぞれに特徴がありますが、互いに理解し合えるのであれば、それで十分なはずです。
さらに、翻訳や通訳の役割を見直すことも必要でしょう。重要な研究成果は、できるだけ多くの言語に翻訳されるべきです。デジタル技術の発展により、翻訳のコストは下がりつつあります。これを活用すれば、英語だけに頼らない学術コミュニケーションも、以前より現実的になってきています。
おわりに:継続する対話の必要性
ゴッティ教授のこの論文は、明確な答えを提示するというよりも、重要な問題提起をしている研究だと言えます。学術界における英語の役割について、私たちはもっと意識的に、そして批判的に考える必要がある、というメッセージが込められています。
この問題に「正解」はありません。それぞれの国、それぞれの大学、それぞれの学問分野で、状況は異なります。大切なのは、利便性だけを追求するのではなく、失われるものにも目を向けること。英語化を進めるなら進めるで、その結果として何が起こるのかを理解し、必要な対策を講じることです。
たとえば、ある小さな国の言語で書かれた優れた研究が、英語化の波の中で埋もれてしまうかもしれません。ある教授が母語で教えれば生き生きとした授業ができるのに、英語で教えることを強いられて、授業の質が下がるかもしれません。ある学生が、母語なら深く理解できる内容を、英語で学ぶために表面的な理解に留まるかもしれません。
同時に、英語を使うことで、今まで孤立していた研究者たちが協力できるようになるかもしれません。発展途上国の学生が、英語で学ぶことで世界中の知識にアクセスできるようになるかもしれません。異なる文化背景を持つ人々が、英語を通じて対話し、新しい発見が生まれるかもしれません。
結局のところ、言語は道具であり、目的ではありません。学術界の本当の目的は、知識を生み出し、それを次の世代に伝え、社会に還元することです。英語であれ、他の言語であれ、その目的に最もよく資する方法を、私たちは常に考え続けなければなりません。
ゴッティ教授の論文は、そのための重要な材料を提供してくれています。完璧な研究というわけではありませんが、複雑な現実を正直に描き出し、簡単な答えに飛びつかない誠実さがあります。この姿勢こそが、学術的な議論において最も大切なものではないでしょうか。
グローバル化が進む世界で、私たちはどのように学び、教え、研究するべきか。この問いに向き合い続けることが、教育に携わるすべての人に求められています。そして、その対話の中に、ゴッティ教授のこの研究は、確かな貢献をしていると言えるでしょう。
Gotti, M. (2020). Recent developments concerning the use of English for teaching and research purposes. CercleS, 10(2), 287–300. https://doi.org/10.1515/cercles-2020-2020