はじめに:変わりゆく語学学習の風景

電車の中で、カフェで、あるいは寝る前のベッドの中で、スマートフォンを手に語学学習に励む学生の姿は、もはや珍しい光景ではありません。紙の単語帳を開いて赤いシートで隠しながら暗記する、という従来の勉強法は、今やデジタル機器による学習へと移り変わっています。しかし、この変化は本当に学習効果を高めているのでしょうか。それとも、単なる流行に過ぎないのでしょうか。

本稿で取り上げるのは、イランとアメリカの研究者チームによる論文”Exploring the impacts of mobile-assisted learning on university students’ technical vocabulary knowledge”です。この研究は、大学生が専門用語を学ぶ際に、スマートフォンアプリを使ったデジタルフラッシュカードが、従来の紙のフラッシュカードと比べてどれほど効果的なのかを、科学的に検証したものです。

研究チームと研究の背景

この研究を主導したのは、イランのハラーズミ大学外国語学部に所属するIsmail Xodabande氏を中心とする国際的な研究チームです。共著者には、テキサスA&M大学教育心理学部のTahereh Boroughani氏とZohreh R. Eslami氏、そしてイランの独立研究者であるNiloufar Koleini氏が名を連ねています。

Xodabande氏は、モバイル支援言語学習(MALL:Mobile-Assisted Language Learning)の分野で複数の研究実績を持つ研究者です。特に、大学生の学術語彙習得におけるモバイル技術の活用について、継続的に研究を行ってきました。一方、Eslami氏は第二言語習得における語用論や教育心理学の専門家として知られており、この分野に理論的な深みを与えています。

この研究が生まれた背景には、イランの大学教育における切実な課題があります。イランでは多くの専門分野で英語の教科書が使用されており、学生たちは専門知識を学ぶと同時に、英語の専門用語も習得しなければなりません。特に心理学のような分野では、医学用語に似た複雑な専門用語が多く、発音も意味も難解なものが少なくありません。このような二重の学習負担は、学生にとって大きな壁となっています。

専門用語習得の重要性:なぜこの研究が必要だったのか

第二言語として英語を学ぶ際、語彙の習得は避けて通れない道です。しかし、日常会話で使う一般的な単語と、大学の専門課程で求められる専門用語とでは、習得の難しさがまったく異なります。

たとえば、「幸せ」という意味の「happy」という単語は、英語学習の初期段階で誰もが覚える基本語彙です。しかし、心理学を専攻する学生が学ばなければならない「prosopagnosia(相貌失認)」や「behaviorism(行動主義)」といった専門用語は、まったく別次元の難しさを持っています。これらの言葉は、単に綴りや発音が難しいだけでなく、その背後にある概念そのものが複雑で、深い理解が求められるからです。

研究によれば、専門分野における語彙力は、学業成績や将来のキャリア形成に直接的な影響を与えます。心理学の授業で「cognitive dissonance(認知的不協和)」という用語の意味が理解できなければ、その概念を説明する教授の講義も、教科書の説明も、すべてが理解不能になってしまいます。まるで、地図の読み方を知らずに見知らぬ土地を旅するようなものです。

このような専門用語の学習負担は、母語話者ではない学生にとって特に重く、効果的な学習方法の開発が強く求められていました。従来は紙の単語カードや単語帳が主な学習ツールでしたが、スマートフォンの普及により、デジタルツールの可能性が注目されるようになったのです。

研究の設計:どのように検証したのか

この研究は、10週間にわたる実験的な介入研究として設計されました。参加者は80人のイラン人大学生で、全員が心理学を専攻しており、英語レベルは中級程度(ヨーロッパ言語共通参照枠のCEFRで中級レベル)でした。平均年齢は22歳です。

研究チームは、参加者を二つのグループに分けました。実験群(50人)にはAnkiというスマートフォンアプリを使ったデジタルフラッシュカードを、対照群(30人)には従来型の紙のフラッシュカードを提供しました。興味深いのは、両群に提供されたフラッシュカードの内容が同一だった点です。つまり、違いは媒体だけで、学習内容自体は変わりませんでした。

各フラッシュカードには、目標となる専門用語(例:「behaviorism」)と発音記号が表面に、その定義、例文二つ、そしてペルシア語での翻訳が裏面に記載されていました。たとえば「behaviorism」のカードなら、「観察可能な行動と環境の役割に焦点を当てる心理学的アプローチ」という定義と、「行動主義は、私たちの行動が過去の経験や現在の環境によって大きく決定されると示唆している」といった例文が含まれていました。

学習する専門用語は100語で、広く使われている心理学入門教科書から慎重に選ばれました。選定過程では、まず各章末の重要概念リストから250語を抽出し、次にアメリカ心理学会の心理学用語辞典で専門性を確認し、最後に心理学の博士号を持つ5人の大学教員に、専門性と教育的価値の観点から評価してもらいました。こうして最終的に100語が選ばれました。

参加者たちには、平日に毎日約15分間、これらのフラッシュカードで学習するよう求められました。実験群の学習時間と進捗は、Ankiアプリの統計機能で自動的に記録されました。対照群の学生たちは、ノートに学習記録を付けることで、学習時間を管理しました。

語彙知識の測定には、Vocabulary Knowledge Scale(VKS)という広く認められた評価ツールが使用されました。VKSは、単に単語の意味を知っているかどうかだけでなく、その単語をどれだけ深く理解し、実際に使えるかまでを測定します。5段階の尺度で、「この単語を見たことがない」という最も低いレベルから、「この単語を文の中で正しく使える」という最も高いレベルまで評価します。

評価は三回実施されました。介入開始前の事前テスト、10週間の学習期間後の事後テスト、そしてさらに6週間後の遅延事後テストです。この遅延事後テストが非常に重要で、学習した内容が一時的な記憶で終わってしまうのか、それとも長期的に保持されるのかを見極めることができます。ちょうど、試験前の一夜漬けで覚えた内容が試験後すぐに忘れられてしまうのと同じように、学習方法によっては知識の定着度合いが大きく異なる可能性があるからです。

研究結果:デジタルの圧倒的優位性

研究結果は、デジタルフラッシュカードの明確な優位性を示しました。まず、事前テストでは両群の間に統計的な差はありませんでした。デジタルフラッシュカード群の平均スコアは153.76点、紙のフラッシュカード群は150.70点で、ほぼ同等のスタート地点でした。

しかし、10週間の学習期間を経た事後テストでは、状況が一変しました。デジタルフラッシュカード群の平均スコアは265.64点まで上昇し、紙のフラッシュカード群の231.63点を大きく上回りました。統計分析では、この差は偶然では説明できないほど有意なもので(p < 0.001)、効果量を示すη²値は0.240でした。これは、事後テストの得点の変動の約24パーセントが、使用した学習ツールの違いによって説明できることを意味します。

さらに印象的だったのは、6週間後の遅延事後テストの結果です。この時点で、デジタルフラッシュカード群のスコアは243.90点、紙のフラッシュカード群は216.80点となり、その差はさらに広がっていました。η²値は0.407に達し、つまり得点の変動の約41パーセントが学習ツールの違いで説明できることになります。

これを日常的な例えで説明するなら、こういうことです。新しい料理のレシピを覚えようとするとき、一度だけレシピ本を見て作った場合、1ヶ月後にはほとんど忘れてしまうでしょう。しかし、何度も作り、その都度少しずつ改善していけば、そのレシピは体に染み付き、レシピ本を見なくても作れるようになります。デジタルフラッシュカードは、後者のような定着を促進したと言えます。

統計分析では、時間の経過による変化(時間の主効果)も非常に大きく(partial η² = 0.853)、これは学習によって語彙知識が確実に向上したことを示しています。また、時間と学習ツール(群)との間に交互作用があることも確認され(p = 0.005, partial η² = 0.127)、デジタルフラッシュカードの効果が時間とともに顕著になることが明らかになりました。

グラフで示された推定平均値の変化を見ると、両群とも事前テストから事後テストにかけて大きく上昇しましたが、デジタルフラッシュカード群の上昇はより急で、より高い位置に達しました。そして遅延事後テストでは、両群とも若干の低下を示しましたが、デジタルフラッシュカード群の低下は比較的緩やかで、依然として紙のフラッシュカード群を上回っていました。

なぜデジタルフラッシュカードが効果的だったのか

研究チームは、この結果を複数の理論的枠組みから説明しています。まず、Involvement Load Hypothesis(関与負荷仮説)という理論があります。これは、学習中に費やす精神的努力の量が、新しい語彙の記憶と想起に直結するという考え方です。

デジタルフラッシュカードは、単に単語を見るだけでなく、タッチして裏返す、正解・不正解を判断する、といった能動的な操作を伴います。この能動的な関与が、学習を深める鍵となります。たとえば、美術館で絵画を眺めるだけの場合と、その絵について解説を読み、構図や色使いについて考え、友人と議論する場合とでは、記憶への定着度が大きく異なるでしょう。後者のように深く関与することで、情報はより強く記憶に刻まれます。

また、フラッシュカードには定義だけでなく例文も含まれていました。例文は、その単語が実際にどのように使われるかを示すことで、文脈的な理解を促進します。これは、単に辞書的な意味を暗記するだけでなく、その単語の用法や適切な使用場面まで理解することにつながります。さらに、ペルシア語訳も含まれていたため、母語との橋渡しも可能でした。

もう一つ重要なのが、Ankiアプリが採用している間隔反復(spaced repetition)のアルゴリズムです。これは、Pimsleurという研究者が1967年に提唱したMemory Schedule(記憶スケジュール)モデルに基づいています。このモデルによれば、新しい情報は特定の間隔を置いて繰り返し学習することで、最も効果的に長期記憶に定着します。

間隔反復の仕組みは、人間の記憶の性質をうまく利用しています。何かを覚えた直後は記憶が新鮮ですが、時間とともに忘れていきます。完全に忘れる前に復習すると、記憶は強化され、次に忘れるまでの時間が長くなります。この復習を最適なタイミングで繰り返すことで、効率的に長期記憶へと移行させることができるのです。

Ankiアプリは、各単語について学習者の理解度を追跡し、忘れかけている単語を優先的に提示します。まるで、良い個人教師が生徒の弱点を見抜いて、適切なタイミングで復習課題を出すように、アプリが自動的に最適な学習スケジュールを組んでくれます。これに対して、紙のフラッシュカードでは、学習者自身がどの単語を復習すべきか判断しなければならず、最適な間隔反復を実現するのは困難です。

さらに、モバイル機器の利点として、いつでもどこでも学習できる柔軟性があります。バスを待つ5分間、昼休みの空き時間、ベッドに入る前の10分間。こうした隙間時間を活用できることで、学習の総量が増えるだけでなく、分散学習の効果も得られます。一度に長時間勉強するより、短時間の学習を頻繁に行う方が効果的だという研究は数多くあります。

長期記憶への定着:6週間後のテストが示すもの

この研究で特に重要なのは、6週間後に実施された遅延事後テストです。多くの教育研究は、介入直後の効果だけを測定して終わりますが、それでは一時的な向上なのか、本当の学習なのかを区別できません。

学生時代を思い返してみてください。試験前に必死で覚えた内容が、試験が終わった途端に頭から抜けていった経験は誰にでもあるでしょう。これは、短期記憶に頼った表面的な学習の典型例です。本当の意味での学習とは、知識が長期記憶に定着し、必要なときに引き出せる状態になることです。

この研究で興味深いのは、6週間後のテストで両群ともスコアが若干低下したものの、デジタルフラッシュカード群の低下が比較的緩やかだったことです。紙のフラッシュカード群が事後テストから遅延事後テストにかけて約14.8点低下したのに対し、デジタルフラッシュカード群の低下は約21.7点でした。しかし、絶対値で見れば、デジタルフラッシュカード群は依然として高い水準を維持していました。

これは、デジタルフラッシュカードによる学習が、より深いレベルでの処理を促し、長期記憶への定着を強化したことを示唆しています。Depth of Processing(処理の深さ)理論によれば、情報の表面的な特徴(音や綴り)だけでなく、意味的な側面まで深く処理すると、その情報はより強く記憶に刻まれます。

デジタルフラッシュカードの能動的な操作、例文による文脈理解、そして間隔反復による繰り返し学習は、すべて深い処理を促進する要因です。これに対して、紙のフラッシュカードでは、どうしても受動的な暗記に偏りがちになります。

受容的知識から産出的知識へ:語彙習得の質的側面

この研究のもう一つの重要な側面は、Vocabulary Knowledge Scale(VKS)という評価ツールを使用したことです。VKSは、単に単語の意味を知っているか(受容的知識)だけでなく、その単語を実際に使えるか(産出的知識)まで測定します。

外国語学習において、受容的知識と産出的知識の間には大きな隔たりがあります。私たちは、読んだり聞いたりして理解できる単語の数(受容語彙)の方が、実際に話したり書いたりして使える単語の数(産出語彙)よりもはるかに多いのです。たとえば、日本人の英語学習者の多くは「procrastinate(先延ばしにする)」という単語を読めば意味が分かるでしょうが、実際の会話や作文でこの単語を適切に使える人は限られています。

VKSの5段階尺度では、最高レベルである「この単語を文の中で正しく使える」に到達することが求められます。デジタルフラッシュカード群が高いスコアを獲得したということは、単なる認識レベルを超えて、実際に使える語彙として習得できた学生が多かったことを意味します。

これは、デジタルフラッシュカードに含まれていた例文の効果と考えられます。例文は、単語がどのような文脈で使われるかを示すだけでなく、その単語を使った文を作る際のモデルとしても機能します。また、Ankiアプリの繰り返し学習により、これらの例文が何度も目に触れることで、使用パターンが自然と身についたのでしょう。

研究の限界と今後の課題

研究チーム自身も認めているように、この研究にはいくつかの限界があります。まず、参加者が心理学専攻のイラン人学生に限られていたことです。異なる専門分野、異なる文化的背景、異なる言語背景を持つ学生でも同様の結果が得られるかは、さらなる検証が必要です。

また、評価ツールとしてVKSという自己報告式の測定法を使用したことも、ある程度の主観性を含むことを意味します。より客観的な測定方法、たとえば実際の心理学の文献を読解させるテストや、専門用語を使った作文課題なども組み合わせれば、より強固な証拠が得られたでしょう。

さらに、この研究では書かれた語彙知識に焦点を当てており、音声面での産出的知識(つまり、正しい発音で話せるか)については調査していません。心理学の専門用語の中には、「prosopagnosia」のように発音が難しいものも多く、この側面の研究も重要です。

研究期間についても、10週間という期間が専門用語の習得に十分だったのか、あるいはより長期の介入ならさらに大きな効果が見られたのかは、今後の研究課題です。また、6週間後の遅延テストで一定の知識保持が確認されましたが、さらに長期的な効果(たとえば半年後、1年後)についても興味深い研究テーマとなるでしょう。

教育現場への示唆:理論から実践へ

それでは、この研究結果は教育現場にどのような示唆を与えるのでしょうか。いくつかの重要な点を考えてみましょう。

第一に、デジタルフラッシュカードは、専門語彙の学習ツールとして大きな可能性を持っています。大学の教員は、自分の授業で重要な専門用語のデジタルフラッシュカードセットを作成し、学生に提供することができます。Ankiのようなアプリは無料で利用でき、カードセットの共有も容易です。教員が一度作成すれば、多くの学生が長期にわたって利用できます。

第二に、自律学習の促進という観点からも価値があります。デジタルフラッシュカードは、学生が自分のペースで、自分の弱点を重点的に学習することを可能にします。従来の一斉授業では、すべての学生が同じ内容を同じペースで学ばなければなりませんでしたが、個別化された学習ツールにより、各学生が最も必要な部分に時間を使えるようになります。

第三に、隙間時間の活用という実践的な利点があります。大学生の生活は多忙で、まとまった学習時間を確保するのは容易ではありません。しかし、通学時間や授業の合間など、数分の隙間時間は誰にでもあります。スマートフォンさえあれば、こうした時間を有効な学習時間に変えられます。

ただし、導入にあたっては注意点もあります。まず、教員自身がこうしたツールに習熟する必要があります。効果的なフラッシュカードを作成するには、単に用語と定義を並べるだけでなく、良質な例文を選び、適切な文脈情報を提供することが重要です。この研究でも、フラッシュカードには定義、例文、翻訳が含まれており、多面的な理解を促す工夫がなされていました。

また、デジタルツールに対する学生の習熟度や、スマートフォンへのアクセスの有無など、技術的な格差にも配慮が必要です。すべての学生が最新のスマートフォンを持っているわけではありませんし、データ通信料の負担が大きい学生もいるでしょう。

モバイル学習の理論的背景:なぜ今、この研究が重要なのか

この研究の背景には、より広い文脈があります。私たちは今、教育技術の大きな転換期にいます。20世紀の教育は、教室という物理的空間と、決まった時間割に基づいていました。しかし、モバイル技術の発展により、学習はいつでもどこでも可能になりました。

この変化は、単なる利便性の向上以上の意味を持ちます。学習科学の研究によれば、学習は文脈と密接に結びついています。教室で学んだ知識を、実際の場面で応用できない学生は少なくありません。しかし、モバイル学習では、実際にその知識が必要な場面で学ぶことも可能です。たとえば、心理学の専門用語を学んでいる学生が、実際に心理学の研究室で実習をしながら、関連する用語をスマートフォンで復習できます。

また、モバイル学習は、formal learning(正式な学習)とinformal learning(非公式な学習)の境界を曖昧にします。従来、授業時間が正式な学習で、それ以外の時間は非公式な学習とされていました。しかし、スマートフォンアプリによる学習は、どちらにも分類しにくい新しい形態の学習です。

研究チームが言及している通り、この研究はMALL(Mobile-Assisted Language Learning:モバイル支援言語学習)という、比較的新しい研究分野に貢献しています。MALLの研究は過去10年ほどで急速に発展してきましたが、多くの研究は一般的な語彙や、短期的な効果に焦点を当てていました。専門用語の習得や、長期的な効果を検証した研究は少なかったのです。

文化的・制度的文脈:イランの大学教育における意義

この研究がイランで実施されたことも、重要な意味を持っています。イランでは、多くの専門分野で英語の教科書が使用されており、学生は専門知識と英語力を同時に習得しなければなりません。これは、日本の大学生が英語で書かれた教科書を読むことを想像すれば、その大変さが理解できるでしょう。

イランの教育制度では、英語は外国語として教えられますが、大学レベルでの専門教育は英語で行われることが多いという、やや特殊な状況があります。これは、イランが科学技術の分野で国際的な水準を維持しようとしているためですが、同時に学生に大きな負担をかけています。

このような文脈において、効果的な語彙学習ツールの開発は単なる教育方法の改善以上の意味を持ちます。それは、学生が専門分野で成功するための、そして最終的には国の科学技術の発展に貢献するための、重要な基盤となるのです。

興味深いのは、この研究がイランとアメリカの研究者の国際協力によって実現したことです。責任著者のXodabande氏はイランの大学に所属していますが、共著者のBoroughani氏とEslami氏はテキサスA&M大学という、アメリカの名門大学に所属しています。このような国際的な研究協力は、教育研究の質を高めるだけでなく、研究成果が国際的に認められる可能性を高めます。

デジタル時代の語彙学習:変わるものと変わらないもの

デジタル技術が語彙学習を大きく変えつつある一方で、変わらない原則もあります。この研究が示したのは、デジタルツールの優位性ではあるものの、その根底にあるのは、古くから知られている学習の原則です。

能動的な関与、文脈的な理解、間隔反復、これらはすべて、デジタル時代以前から効果的な学習方法として知られていました。優れた教師は、昔からこうした原則を実践してきました。デジタルツールが優れているのは、これらの原則をより効率的に、より個別化された形で実現できるからです。

たとえば、間隔反復の原則自体は新しいものではありません。19世紀のドイツの心理学者エビングハウスは、忘却曲線という概念を提唱し、適切な間隔での復習の重要性を示しました。しかし、紙のフラッシュカードでこれを実践するのは困難でした。どのカードをいつ復習すべきか、人間が管理するのは大変な作業だからです。デジタルツールは、コンピュータの計算能力により、これを自動化しました。

また、個別化学習の重要性も以前から認識されていました。すべての学生が同じペースで、同じ方法で学ぶわけではありません。ある学生はすぐに覚えられる単語でも、別の学生は苦労するかもしれません。理想的には、各学生の習熟度に応じた指導が望ましいのですが、一人の教師が多くの学生を相手にする従来の教室では、これは事実上不可能でした。デジタルツールは、各学生の進捗を追跡し、個別化された学習経験を提供することで、この長年の課題に対する一つの解決策を提示しています。

批判的考察:この研究の意義と課題

学術研究を評価する際には、その貢献と限界の両方を冷静に見極めることが重要です。この研究の最大の貢献は、デジタルフラッシュカードの効果を、厳密な実験デザインと適切な統計分析により実証したことです。参加者数は80人と、このタイプの研究としては十分な規模です。事前テスト、事後テスト、遅延事後テストという三時点での測定により、短期的効果だけでなく長期的効果も検証しました。

統計分析も適切です。mixed-design ANOVA(混合計画分散分析)は、このような研究デザインに適した方法で、群間比較と時間経過による変化の両方を検討できます。効果量(η²)も報告されており、統計的有意性だけでなく、実質的な意味のある差があることが示されています。

しかし、いくつかの疑問点や改善の余地もあります。第一に、参加者の割り当て方法です。研究では「三つの既存のクラス」から参加者を集め、二つのクラスを実験群、一つのクラスを対照群に割り当てたとされています。理想的には、個々の学生をランダムに二つの群に割り当てる方が望ましいのですが、教育現場での研究では、クラス単位での割り当ては避けられない場合があります。ただし、これはクラス間の違いが結果に影響する可能性を完全には排除できないことを意味します。

第二に、研究期間中の学習時間の管理です。実験群では、Ankiアプリの統計機能により学習時間が自動的に記録されましたが、対照群では学生自身がノートに記録しました。自己報告による記録は、実際の学習時間を正確に反映していない可能性があります。たとえば、実際には10分しか勉強していなくても、15分と記録してしまうかもしれません。

第三に、学習環境の違いです。スマートフォンで学習する学生と、紙のカードで学習する学生では、学習環境が異なっていた可能性があります。スマートフォンは常に携帯しているため、ちょっとした空き時間に学習しやすい一方、紙のカードは持ち歩くのが面倒で、机に向かって学習する必要があったかもしれません。この違いが結果に影響した可能性も考えられます。

第四に、novelty effect(新規性効果)の可能性です。デジタルツールは、参加者にとって新しく興味深いものだったため、それ自体がモチベーションを高め、結果的に学習効果を高めた可能性があります。長期的に使用し続けた場合にも同様の効果が維持されるかは、さらなる研究が必要です。

実践的応用:教育現場での活用に向けて

この研究結果を実際の教育現場でどう活用できるでしょうか。いくつかの具体的な提案を考えてみましょう。

まず、大学の教員は、自分の担当科目の重要な専門用語のデジタルフラッシュカードセットを作成することを検討すべきです。ただし、単に用語と定義を並べるだけでは不十分で、この研究のように、良質な例文や翻訳を含めることが重要です。また、学生に自分でフラッシュカードを作成させることも効果的かもしれません。自分で定義や例文を考える過程自体が、深い学習を促進するからです。

次に、言語教育センターや図書館が、学生のモバイル学習を支援する役割を担うことも考えられます。たとえば、効果的なアプリの使い方を教えるワークショップを開催したり、各専門分野の頻出用語のデータベースを構築したりすることができます。

また、教育機関としては、すべての学生がモバイル学習のツールにアクセスできるよう、支援策を講じる必要があるでしょう。経済的な理由でスマートフォンを持てない学生のために、タブレット端末を貸し出すといった支援も考えられます。

さらに、この研究は教員養成や教員研修にも示唆を与えます。今後の教員は、デジタル技術を効果的に教育に統合する能力が求められます。単にツールの使い方を知っているだけでなく、どのような場面でどのツールが効果的か、そしてその理論的根拠は何かを理解している必要があります。

おわりに:技術と教育の調和を目指して

この研究は、モバイル技術が語彙学習、特に専門用語の習得において有効なツールとなりうることを、説得力のある形で示しました。デジタルフラッシュカードは、従来の紙のフラッシュカードより優れた学習成果をもたらし、その効果は6週間後でも持続していました。

しかし、この結果を過度に一般化することには慎重であるべきです。技術は万能薬ではありません。効果的な学習には、適切な教材、明確な学習目標、学習者の動機づけ、そして何より、学習者自身の努力が必要です。デジタルツールは、これらの要素を支援するものであって、置き換えるものではありません。

また、デジタル技術の急速な発展により、教育研究は常に追いかけっこをしているような状態です。この研究が使用したAnkiアプリは優れたツールですが、今後さらに高度な機能を持つアプリが開発されるでしょう。人工知能を活用した個別化学習、音声認識技術による発音練習、拡張現実を使った文脈的学習など、新しい可能性が次々と現れています。

教育研究者には、これらの新技術の効果を科学的に検証し続ける責任があります。一方、教育実践者には、研究成果を参考にしながらも、自分の教育現場に最適な方法を見つけ出す創造性が求められます。そして学習者自身も、受動的な技術の消費者ではなく、自分に合った学習方法を能動的に選択し、活用する主体性が必要です。

最後に、この研究が投げかける根本的な問いは、「デジタルか紙か」という二項対立ではなく、「どうすれば学生の学びを最大限に支援できるか」という、より本質的なものです。技術は手段であって目的ではありません。大切なのは、学生が専門分野で成功するために必要な知識とスキルを確実に身につけることです。この研究は、その目標に向けた一つの有効な道筋を示してくれました。今後の研究と実践により、さらに効果的な学習方法が開発されることを期待したいと思います。


Koleini, N., Boroughani, T., Eslami, Z. R., & Xodabande, I. (2024). Exploring the impacts of mobile-assisted learning on university students’ technical vocabulary knowledge. International Journal of Educational Research Open, 7, Article 100344. https://doi.org/10.1016/j.ijedro.2024.100344

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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