はじめに:専門外読者のための内容解説
本論文”Corpus linguistics: Theory vs methodology”は、ロシア人民友好大学のカモ・パヴェロヴィチ・チリンガリャン氏による、コーパス言語学の発展史と現状に関する包括的な研究です。チリンガリャン氏は同大学ホテル経営・観光学院の上級講師として、比較言語学、コーパス言語学、外国語、翻訳研究を専門としています。
コーパス言語学とは、大量のテキストデータ(コーパス)をコンピューターで分析することにより言語現象を研究する分野です。例えば、新聞記事や小説、会話記録などを電子化して集めたデータベースから、特定の単語がどのような文脈で使われるか、どの程度の頻度で現れるかなどを調べることができます。
本論文は、この分野が19世紀から現代までどのように発展してきたかを詳細に追跡しています。特に注目すべきは、1960年代のノーム・チョムスキーによる批判と、その後のコンピューター技術の進歩による「復活」という歴史的転換点の分析です。チョムスキーは、言語学者の直感こそが言語研究の基盤であり、コーパスのような実際の言語使用例の収集は不完全で主観的だと主張しました。しかし、1980年代以降、コンピューター技術の発達により大規模なデータ処理が可能になると、コーパス言語学は再び脚光を浴びるようになりました。
論文の学術的貢献と評価すべき点
歴史的発展の体系的整理
チリンガリャン氏の最も重要な貢献は、コーパス言語学の歴史を3つの明確な段階に分けて整理したことです。第一段階(19世紀〜20世紀前半)では、主に死語の研究や児童言語習得研究でコーパス的手法が用いられていました。第二段階(1960年代〜1970年代)では、チョムスキーの批判により一時的に衰退しました。第三段階(1980年代以降)では、コンピューター技術の進歩とともに本格的な学問分野として確立されました。
この時代区分は、単なる年代的整理を超えて、各時期の理論的背景や技術的制約を考慮した洞察に富む分析となっています。特に、アメリカ構造主義言語学とチョムスキー理論の対立を、コーパス言語学の発展という文脈で捉え直した視点は評価できます。
代表性概念の多角的検討
論文のもう一つの強みは、コーパスの「代表性」という中核概念について、複数の研究者の見解を丁寧に整理し比較検討していることです。ダグラス・バイバーの社会的・歴史的代表性の議論から、ポール・ベイカーの妥当性概念まで、この分野の主要な理論的貢献を網羅的に紹介しています。
具体的事例による理論の実証
ブラウン大学コーパス、英国国立コーパス(BNC)、スペイン語現代参照コーパス(CREA)など、具体的なコーパス構築プロジェクトの詳細な分析により、理論的議論に実証的根拠を与えています。これらの事例研究は、コーパス設計の実際的課題と理論的原則の関係を明確に示しています。
建設的批評:論文の限界と改善点
理論と方法論の二分法の問題
論文のタイトルにある「理論 vs 方法論」という対立的枠組みには疑問が残ります。チリンガリャン氏は最終的に、コーパス言語学が方法論的ツールであると結論づけていますが、この結論に至る論証過程が十分に説得力を持っているとは言えません。
現代の科学哲学では、理論と方法論は相互依存的関係にあると考えられています。コーパス言語学においても、特定の言語理論(例えば、使用基盤言語学や構文文法理論)と密接に結びついた方法論的発展が見られます。したがって、理論か方法論かという二者択一的な問いかけ自体が適切ではない可能性があります。
批判的視点の不足
論文全体を通じて、コーパス言語学の利点を強調する傾向が強く、この分野が抱える根本的問題についての批判的検討が不足しています。例えば、「代表性」の概念について詳細に論じながらも、実際にはどのようなコーパスも完全な代表性を達成することは不可能であるという根本的ジレンマについて、十分な哲学的考察を行っていません。
また、コーパス分析における研究者の主観性の問題についても、表面的な言及にとどまっています。コーパスデータの客観性を強調する一方で、データの選択、分析カテゴリーの設定、結果の解釈など、すべての段階で研究者の理論的前提や主観が介入することへの認識が浅いと言えます。
技術的発展の社会的影響への考慮不足
コンピューター技術の進歩がコーパス言語学に与えた影響について詳しく論じている一方で、この技術的発展が言語研究や言語教育に与える社会的・文化的影響についての考察が不十分です。例えば、大規模コーパスの構築により、特定の言語変種や文化的文脈が過度に重視される一方で、少数言語や周辺的な言語使用が軽視される可能性についての議論が欠けています。
方法論的多様性の軽視
論文では主に量的分析手法に焦点を当てていますが、近年のコーパス言語学では質的分析手法との統合が重要な課題となっています。ディスコース分析や民族誌的手法とコーパス分析の組み合わせなど、方法論的多様性についての議論が不足しています。
学問的位置づけと今後の課題
ロシア語圏における受容の特殊性
チリンガリャン氏がロシア語圏の研究者として、この分野の発展を主に西欧の視点から論じている点は興味深いものの、ロシア語圏独自の言語学的伝統との関係についての考察が不十分です。ソビエト時代の構造主義言語学やロシア語の特殊性を考慮したコーパス言語学の発展可能性について、より深い検討が期待されます。
学際的展開への視野
現代のコーパス言語学は、心理学、認知科学、人工知能研究など、多くの分野との境界を越えた展開を見せています。しかし、本論文では主に言語学内部の発展に焦点を当てており、学際的な視点が不足しています。特に、機械学習や自然言語処理技術の急速な発展が、従来のコーパス言語学の枠組みにどのような変化をもたらしているかについての考察が求められます。
結論:学問的貢献の評価と展望
チリンガリャン氏の論文は、コーパス言語学の歴史的発展を体系的に整理し、この分野の現状を包括的に概観した労作として高く評価できます。特に、ロシア語で書かれた包括的なレビュー論文として、ロシア語圏の研究者や学生にとって貴重な資料となることは間違いありません。
しかし、上述の批判的指摘にもあるように、より深い理論的考察や批判的視点の導入により、さらに価値ある学術的貢献となる余地があります。特に、コーパス言語学が直面する根本的な認識論的問題や、技術的発展が言語研究に与える社会的影響についての考察を深めることで、この分野の今後の発展に対してより建設的な示唆を提供できるでしょう。
現在、デジタル人文学の発展や人工知能技術の進歩により、コーパス言語学は新たな転換点を迎えています。チリンガリャン氏の歴史的整理は、こうした変化を理解するための重要な基盤を提供していますが、同時に、この分野が直面する新たな課題についても積極的に取り組む必要があることを示唆しています。
Chilingaryan, K. P. (2021). Корпусная лингвистика: теория vs методология [Corpus linguistics: Theory vs methodology]. RUDN Journal of Language Studies, Semiotics and Semantics, 12(1), 196–218. https://doi.org/10.22363/2313-2299-2021-12-1-196-218