はじめに:多文化共生時代の教育課題

現代社会では、国境を越えた人々の交流がますます活発化し、異なる文化背景を持つ人々との円滑なコミュニケーション能力が重要な資質として求められています。このような背景の中で、Ildikó Némethová氏がブラチスラバ経済大学応用言語学部で発表した論文”Building Intercultural Competence through Language Education”は、言語教育を通じて異文化間能力をいかに育成するかという重要な問題に取り組んでいます。

Némethová氏は、言語教育の専門家として長年研究に従事し、特に中・東欧地域における多言語・多文化環境での教育実践に豊富な経験を持っています。この論文は、2014年にECONOMICA誌に掲載され、グローバル化が進む21世紀において言語教育が果たすべき役割について包括的な視点を提示しています。

異文化間能力とは何か:理論的基盤の整理

従来の言語教育との違い

Némethová氏は論文の冒頭で、従来の語学教育が文法や語彙の習得に重点を置いてきたのに対し、真の異文化間コミュニケーションには、言語運用能力だけでなく、文化的背景への深い理解と適応能力が不可欠であると指摘しています。この視点は、単なる言語技能の習得を超えて、相手の文化的文脈を理解し、適切に対応する能力の重要性を強調するものです。

著者によれば、異文化間能力は五つの主要な要素から構成されています。第一に、コミュニケーションへの動機があります。これは他者と個人的なレベルでつながろうとする意欲と、多様な背景を持つ人々と関わる際の国際的な視点を含みます。第二に、適切な知識基盤が必要です。これは自己認識と、相手の文化の規範や期待に対する理解を意味します。第三に、適切なコミュニケーション技能が求められます。これには聞く、観察する、分析する、解釈する能力と、これらを効果的に活用して目標を達成する能力が含まれます。

第四に、感受性が重要な要素として挙げられています。柔軟性、忍耐力、共感性、好奇心、多様性への開放性、他者との快適な関係性などが含まれます。最後に、人格(キャラクター)が異文化間能力の基盤となります。これは個人の選択の総和であり、個人的な経歴とそれがどのように表現されるかによって構成されます。

文化システムの理解

論文では、文化を単一の固定的な概念として捉えるのではなく、動的で多層的なシステムとして理解することの重要性が強調されています。個人は複数の文化システムに同時に所属しており、その中の一部は相手と共有し、一部は異なるという複雑な状況にあります。このような視点は、ステレオタイプ的な文化理解を避け、より柔軟で現実的な異文化理解を促進するものです。

Némethová氏は、文化システムが四つの主要な要素から構成されると説明しています。まず、世界に対するアイデアや信念があります。次に、他者との関わり方に関する確立された方法があります。さらに、コミュニケーションの形態と、これらの手段を活用するための学習方法があります。これらの要素は相互に関連し合い、特定の集団のコミュニケーション様式を形成します。

文化的知性と感情的知性:新しい概念の導入

文化的知性の四つの次元

論文の特徴的な点の一つは、文化的知性(Cultural Intelligence)という概念を詳細に展開していることです。Némethová氏は、Sternbergらの理論に基づき、文化的知性を四つの次元に分けて説明しています。

メタ認知的文化的知性は、異文化間の相互作用において自分の文化的な発言を意識的に検証し、相互作用中に熟考し、文化的に多様な他者と関わる際に文化的知識を調整する能力を指します。この次元は、文化的に束縛された思考や判断への厳格な依存に積極的に挑戦し、より文化的に効率的で望ましい結果を得るために戦略を適応・修正することを促します。

認知的文化的知性は、異なる文化における規範、慣行、慣例に関する知識を反映します。これは個人の文化的環境に関する知識レベルを指します。動機的文化的知性は、文化的違いによって特徴づけられる状況での学習と機能に注意とエネルギーを向ける能力を反映します。行動的文化的知性は、異文化間の出会いにおいて、言語的・非言語的の両面で効果的に行動する個人の範囲を指します。

感情的知性の役割

Némethová氏は、感情的知性もまた異文化間能力の重要な構成要素であると位置づけています。感情的知性には、感情を特定し表現する能力が含まれますが、文化によって感情表示の規則に違いがあることを認識する必要があります。感情的知性は、それが発達した文化の産物であり、その文化によって制約されるものです。

感情的知性の三つの主要な構成要素として、自己認識、社会的認識、そして感情の個人内・個人間管理が挙げられています。感情的知性には自己認識と感情的リテラシーが必要で、これは自分の感情や情感を観察し、学習し、知覚し、理解することによって得られます。

実践的な教育方法:映画とテキストの活用

映画を活用した教育アプローチ

論文の実践的な側面として、Némethová氏はブラチスラバ経済大学応用言語学部での教育実践を紹介しています。特に注目すべきは、映画を教材として活用するアプローチです。映画は学習者の感情や感覚に訴える独特の能力を持ち、異文化間言語学習に積極的な影響を与えるとされています。

具体的な事例として、Jim Sheridan監督の映画「The Field」(1990年)を通じたアイルランド文化の探究が挙げられています。この映画は、土地所有の重要性や農村的価値観、アイルランドの国民的アイデンティティの主張など、アイルランド文化の重要な側面に学習者を触れさせます。映画を1930年代に設定することで、学生たちはその時代の劇的な社会経済的苦境や、新しく自由を得た26州territory(領土)が不適切な政治的対応しかできなかった厳しい現実を理解することができます。

映画の教育的効果について、Némethová氏は視覚的即時性が特定の文化関連トピックへの関心を高めることが多いと論じています。映画は学生の歴史的親近感を高め、熱意を生み、関心レベルを上げ、理解しやすさを向上させる効果があります。教師が特定の歴史的出来事や時代について感情や態度を伝えたい場合、映画は異文化学習に極めて積極的な影響を与える可能性があります。

政治的テキストの教育的価値

論文のもう一つの実践的側面は、政治的テキストを教材として活用することです。Némethová氏は、政治的言説の力が学習者を認知的・感情的レベルの両方で深く関与させる独特の能力にあると指摘しています。政治的テキストは個人の関与と楽しさを高め、学習者のモチベーション向上につながります。

政治的言説には議会討論、憲法、法律などが含まれ、異文化学習における政治的テキスト活用の重要な基準は、言語が文化と密接に関連しており、文化が特定社会における政治実践と結合していることです。政治的言説は、人々が持つ能力の集合として、そして人々が自分たちの世界とその活動について意味を構築する際に使用する社会文化的資源の集合として概念化されます。

異文化間コミュニケーションにおける課題

言語の曖昧性という根本的問題

Némethová氏は、異文化間コミュニケーションにおける重要な課題として、言語の本質的な曖昧性を指摘しています。言語の曖昧性は学習不足の結果ではなく、言語が私たちの意味を完全に表現することができないという根本的な性質に由来します。コミュニケーションは、参加者が世界について共有する前提や知識が多いほどうまく機能します。

二人の個人が非常に似た歴史、背景、経験を持つ場合、相手が何を意味するかについて行う推論が共通の経験と知識に基づくため、コミュニケーションは比較的容易に機能します。しかし、文化システムが異なる場合、相手が何を意味するかについての推論を引き出すことがより困難になります。これは、性別、年齢、民族集団、教育背景、居住地域、収入や職業グループ、個人的経歴の違いなど、様々な要因によって生じます。

ステレオタイプの問題

論文では、ステレオタイプが異文化間コミュニケーションにとって潜在的な障害となる可能性が詳しく論じられています。特に問題となるのは「負のステレオタイプ」です。この場合、まず単一の次元に基づいて二つの文化や集団を対比することから始まります。例えば、「すべてのアジア人は帰納的で、すべての西洋人は演繹的にトピックを導入する」といった言明があります。

このような言明は観察に基づいている可能性がありますが、想像された共同体の両方のメンバーが演繹的・帰納的両方の戦略を使用するという事実を無視しています。負のステレオタイプの第二段階は、この人工的で理念的な差異をコミュニケーションの問題として焦点化することです。残念ながら、この想定された理念的差異への焦点化は、異文化間コミュニケーション分析において一般的になっています。

教育実践における成果と限界

マインドフルネスの重要性

Némethová氏は、異文化間の出会いにおけるマインドフルネス(心の気づき)の重要性を強調しています。マインドフルネスは主に認識の問題です。個人が文化間の違いに敏感で敬意を払う必要性を認識している場合、マインドフルにコミュニケーションを取るために必要な知識を得るための必要な措置を実行する可能性が高くなります。

他の文化についての知識がなくても、文化的マインドフルネスの重要性を認識している個人は、異文化的マインドセットの開発への道のりを始めることができます。これらの個人は、多様な他者の文化的参照枠に対する強い敬意と共感を示さなければなりません。マインドフルな文化的知性は、他の文化に関する情報がオープンマインドで、多様な文化の個人に対するステレオタイプ的分類なしにアプローチされる行動的能力を指します。

研究方法論の限界

この論文の限界の一つは、主に理論的考察に基づいており、実証的なデータや具体的な測定結果が不足していることです。Némethová氏は様々な理論的枠組みを統合して包括的な視点を提示していますが、提案された教育方法の効果を定量的に検証する研究は含まれていません。

また、文化的背景として主にヨーロッパ、特に中・東欧地域の文脈に基づいているため、他の地域や文化圏での適用可能性については検討が必要です。異文化間コミュニケーションの課題や教育的ニーズは、地域や文化によって大きく異なる可能性があります。

現代的意義と今後の展望

デジタル時代における異文化間コミュニケーション

Némethová氏の論文が発表された2014年以降、デジタル技術の発展により異文化間コミュニケーションの形態は大きく変化しています。オンライン学習、バーチャル交流、ソーシャルメディアを通じた国際的なつながりなど、新しい形態のコミュニケーションが生まれています。論文で提示された理論的基盤は、これらの新しい環境においても有効性を保つと考えられますが、具体的な応用方法については更なる研究が必要です。

多言語・多文化社会への貢献

論文の価値は、単なる語学教育の枠を超えて、多様性を尊重する社会の構築に向けた教育的アプローチを提示していることにあります。異文化間能力の育成は、移民統合、国際協力、平和構築など、現代社会が直面する様々な課題の解決に寄与する可能性があります。

特に、文化的知性と感情的知性を統合した教育アプローチは、従来の知識偏重型教育に対する重要な補完的視点を提供しています。これは、21世紀型スキルとして注目される批判的思考力、創造性、協働性、コミュニケーション能力の育成にも直結する重要な視点です。

結論:総合的評価と今後の課題

Ildikó Némethová氏の論文”Building Intercultural Competence through Language Education”は、言語教育における異文化間能力の重要性を包括的に論じた価値ある研究です。理論的基盤の整理から実践的な教育方法の提示まで、幅広い視点からアプローチしている点が評価されます。

特に、文化的知性と感情的知性という概念を統合して教育実践に活用しようとする試みは革新的であり、従来の言語教育の枠を大きく拡張するものです。映画や政治的テキストを教材として活用する具体的な提案も、教育現場での実践可能性を高める重要な貢献です。

しかし、理論的考察が中心となっており、実証的なデータに基づく効果検証が不足している点は今後の課題として残されています。また、提案された教育方法の体系的な評価基準や、学習成果を測定する具体的な方法についても、更なる研究が求められます。

それにもかかわらず、この論文は異文化間能力育成という重要なテーマに対して、理論と実践を結びつけた包括的な視点を提供しており、言語教育に関わる研究者や実践者にとって貴重な参考資料となるでしょう。グローバル化が進む現代社会において、このような研究の意義はますます高まっていくと考えられます。


Némethová, I. (2014). Building intercultural competence through language education. ECONOMICA, 2014(4), 148-154.

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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