はじめに:英語教育の現場で何が起きているのか
私たちが外国語を学ぶとき、最も困難を感じるのはしばしば「聞く」という技能です。日本の英語学習者なら、リスニングテストで冷や汗をかいた経験があるでしょう。この問題は日本だけでなく、世界中の英語学習者が直面している共通の課題といえます。
今回取り上げる研究”Evaluating cognitive, metacognitive and social listening comprehension teaching strategies in Kuwaiti classrooms”は、中東のクウェートで行われた英語の聞き取り指導に関する調査です。研究を行ったのは、クウェート出身のアスマ・アル・アッゼミー氏と、ヨルダン大学のディナ・アル・ジャマル氏という二人の研究者です。彼女たちは、クウェートの中学3年生(9年生)が使用している英語教科書を詳しく分析し、実際の教師がどのような指導を行っているかを観察しました。
この研究が興味深いのは、教科書に書かれている理想的な指導法と、教室で実際に行われている指導の間にどれほどのギャップがあるのかを明らかにしようとした点です。これは教育現場でよく見られる現象で、カリキュラムや教科書では素晴らしい理論が提示されていても、実際の授業ではさまざまな制約により思うようにいかないことがあります。
研究の背景:なぜ聞き取り指導が重要なのか
研究者たちが指摘するように、私たちは日常のコミュニケーションの30~40%を「聞く」ことに費やしています。考えてみると、会話、講義、ニュース、音楽など、私たちの生活は音声情報に満ちています。しかし、語学教育においては、読み書きに比べて聞き取りの指導は軽視されがちでした。
特に第二言語として英語を学ぶ場合、聞き取りは単純に音を拾うだけの受動的な活動ではありません。実際には、音声を聞きながら意味を推測し、文脈を理解し、知識を総動員して内容を把握する複雑な認知プロセスなのです。まるで探偵が様々な手がかりから事件の真相を推理するように、学習者は限られた音声情報から話し手の意図を読み取ろうとします。
クウェートのような国では、英語は外国語として位置づけられており、学習者が自然な英語に触れる機会は限定的です。そのため、学校教育における効果的な聞き取り指導がより重要な意味を持ちます。研究者たちは、グローバル化や技術発展の流れの中で、クウェートの学生たちが英語を効果的に習得する必要性を強調しています。
研究方法:どのように調査が行われたか
この研究では、質的研究アプローチが採用されました。具体的には、2015/2016年度にクウェートで使用されていた9年生用英語教科書の内容分析と、ハワリ教育管区の16校から選ばれた38名の英語教師の授業観察が行われました。
研究者たちは、聞き取り理解戦略を3つのカテゴリーに分類しました。まず「認知戦略」として、推論、詳細化、要約、ノート取り、ハイライト、音の練習、推測の8つが挙げられています。次に「メタ認知戦略」として、計画、監視、評価の3つが含まれます。最後に「社会戦略」として、グループワークとペアワークが考慮されました。
この分類方法は教育心理学の理論に基づいており、学習プロセスを多面的に捉えようとする試みとして評価できます。ちょうど料理のレシピを覚える際に、材料の準備(認知戦略)、調理の進行管理(メタ認知戦略)、他の人との協力(社会戦略)が必要なように、効果的な学習には様々な戦略の組み合わせが重要だという考え方です。
主要な発見:教科書分析の結果
教科書分析の結果、最も頻繁に登場したのは推論戦略で、全体で35回の出現が確認されました。これは全6単元にわたって均等に分布しており、教科書制作者が推論を重要な技能として位置づけていることがわかります。推論戦略とは、直接的に述べられていない情報を文脈や手がかりから読み取る能力のことです。
例えば、会話の中で「外は寒そうですね」という発言から、話し手が上着を着ることを提案している可能性を推測するような技能です。これは日常会話でも頻繁に使われる重要な能力といえるでしょう。
次に多かったのは音の練習戦略で、30の事例が見つかりました。これは単語や句の発音練習、音韻の識別などを含みます。聞き取り能力の向上には、まず音そのものを正確に識別できることが基礎となるため、この結果は理にかなっています。
一方で、要約とノート取りの戦略はそれぞれ6事例と相対的に少なく、メタ認知戦略では評価が18事例で最も多く、計画と監視は少数にとどまりました。社会戦略については、グループワークが5事例、ペアワークが1事例と、全体的に限定的な扱いでした。
教師の実践:理想と現実のギャップ
授業観察の結果は興味深いパターンを示しています。認知戦略が最も高い平均スコア(M=1.87)を獲得し、社会戦略(M=1.75)、メタ認知戦略(M=1.74)がそれに続きました。この結果は、教師たちが認知戦略を最も重視している一方で、メタ認知戦略の活用が相対的に少ないことを示唆しています。
特に注目すべきは、「主要なアイデアを聞き取り、次に詳細を把握する」という項目が最高スコア(M=2.00)を記録した一方で、「フィードバックのためのグループワーク支援」が最低スコア(M=1.53)だった点です。これは、教師が個別の聞き取り技能の指導には長けている一方で、協働学習の促進については課題があることを示しています。
まるで、優秀な楽器奏者が個人練習は得意でも、オーケストラの指揮は苦手というような状況に似ているかもしれません。個々の技能指導と、学習者同士の相互作用を促す指導では、求められる専門性が異なるのです。
研究の意義と限界
この研究の価値は、教育政策と実践の間のギャップを実証的に示した点にあります。Spearman相関分析により、教科書の内容と教師の実践の間に中程度の正の相関(p=0.667)があることが確認されましたが、これは完全な一致ではないことも意味しています。
研究者たちは、この結果を基に、クウェートの学校に明示的な戦略指導を取り入れることを提案しています。これは理論的には適切な提案ですが、実装にはいくつかの課題があります。
まず、教師の研修体制の問題があります。新しい指導法を効果的に実践するには、教師自身がその理論的背景を理解し、実践的なスキルを身につける必要があります。しかし、多忙な教育現場で十分な研修時間を確保することは容易ではありません。
また、評価方法の問題も指摘できます。聞き取り理解戦略の効果を測定するには、従来のペーパーテストだけでは限界があります。より包括的で実践的な評価手法の開発が必要でしょう。
方法論上の課題
この研究にはいくつかの方法論上の限界があります。最も重要なのは、サンプルサイズの問題です。38名の教師と16校という規模は、クウェート全体の英語教育の実態を代表するには十分とはいえません。また、調査対象がハワリ教育管区に限定されているため、地域的な偏りの可能性も考慮する必要があります。
さらに、学習者の視点が欠如している点も問題です。教科書分析と教師観察は行われましたが、実際に授業を受けている学生たちがどのような経験をし、どの程度効果を感じているかについての情報がありません。これは、教育研究において重要な要素の一つです。
実際の学習効果についても測定されていません。特定の戦略がより頻繁に使用されているとしても、それが学習者の聞き取り能力向上に実際に寄与しているかどうかは別問題です。縦断的な研究デザインにより、戦略使用と学習成果の因果関係を検証することが望ましいでしょう。
文化的文脈の考慮
この研究のもう一つの限界は、文化的文脈への配慮の不足です。クウェートという特定の社会文化的背景の中で、どのような聞き取り戦略が最も効果的かは、単純に西欧の理論をそのまま適用するだけでは判断できません。
例えば、グループワークやペアワークの低い使用頻度は、必ずしも教師の指導技術不足だけが原因ではない可能性があります。伝統的な授業形式を重視する文化的背景や、クラスサイズ、教室環境などの制約要因も考慮する必要があります。
また、アラビア語を母語とする学習者にとって、英語の聞き取りで特に困難な要素(音韻体系の違い、語順の相違など)についても、より詳細な分析が求められます。
実践的な示唆
この研究から得られる実践的な示唆はいくつかあります。まず、認知戦略に偏った指導から、よりバランスの取れたアプローチへの転換が必要です。特に、メタ認知戦略の重要性についての教師の意識向上が求められます。
メタ認知戦略とは、自分の学習プロセスを意識的に管理する能力のことです。これは、学習者が自分の聞き取りの弱点を認識し、適切な戦略を選択し、学習の進歩を評価する能力を含みます。長期的な学習効果を考えると、これらの能力は非常に重要です。
また、協働学習の活用についても改善の余地があります。グループワークやペアワークは、学習者同士が互いから学び合う貴重な機会を提供します。ただし、これらの手法を効果的に実施するには、教師の適切なファシリテーション技術が必要です。
技術的な考慮事項
現代の教育環境において、技術の活用も重要な要素です。この研究では触れられていませんが、デジタル技術を活用した聞き取り指導の可能性についても考慮する価値があります。
例えば、音声認識技術を活用した発音練習アプリや、個別化された聞き取り練習プログラムなどは、従来の教室指導を補完する有効な手段となり得ます。ただし、技術導入には設備投資や教師研修などのコストも伴うため、慎重な検討が必要です。
評価とフィードバック
この研究では、教師の指導実践の評価に2点尺度(利用可能/利用不可能)が使用されました。しかし、実際の教育実践はより複雑で多面的なものです。より詳細で質的な評価手法を開発することで、指導の質的側面についてもより深い理解が得られるでしょう。
また、学習者へのフィードバックの質についても検討が必要です。単に正解/不正解を伝えるだけでなく、なぜその答えになるのか、どのような戦略を使えば改善できるのかといった建設的なフィードバックの提供が重要です。
将来への方向性
この研究は聞き取り指導戦略に関する基礎的な知見を提供していますが、さらなる発展のためには複数の方向性が考えられます。
まず、量的研究手法との組み合わせにより、より大規模で代表性の高いデータの収集が可能になります。また、実験的な研究デザインを採用することで、特定の戦略の効果をより厳密に検証できるでしょう。
学習者の個人差への対応も重要な課題です。学習スタイル、動機、既存の言語能力などの要因により、効果的な戦略は学習者によって異なります。個別化された指導アプローチの開発が求められます。
さらに、教師の専門性開発についても継続的な研究が必要です。効果的な聞き取り指導を行うために教師が必要とする知識とスキルを明確化し、それらを効率的に習得するための研修プログラムの開発が課題となります。
結論:教育改善への道筋
この研究は、クウェートの英語教育における聞き取り指導の現状を明らかにし、改善への方向性を示した点で価値があります。教科書分析と教師観察という複合的なアプローチにより、理論と実践のギャップを可視化したことは評価できます。
しかし、研究の限界も明確です。サンプルサイズの制約、学習者の視点の欠如、文化的文脈への配慮不足、長期的効果の未検証などの課題があります。これらの限界を踏まえながら、研究結果を解釈し、実践に活用することが重要です。
教育改善は一朝一夕には実現できません。理論的な知見を実践に移すには、教師の理解と協力、制度的な支援、継続的な評価と修正が必要です。この研究は、そのプロセスの第一歩として位置づけることができるでしょう。
最終的に重要なのは、学習者一人一人が効果的に英語を習得し、グローバル社会で活躍できるようになることです。そのためには、研究者、教師、政策立案者が協力し、継続的な改善努力を重ねていく必要があります。この研究は、その努力の一環として、貴重な基礎資料を提供していると評価できます。
Al-Azzemy, A. F. T., & Al-Jamal, D. A. H. (2019). Evaluating cognitive, metacognitive and social listening comprehension teaching strategies in Kuwaiti classrooms. Heliyon, 5(2), e01264. https://doi.org/10.1016/j.heliyon.2019.e01264