研究の背景と著者について
本論文”Reframing the English grammar schools debate”は、バーミンガム大学教育学部のレベッカ・モリス(Rebecca Morris)とトーマス・ペリー(Thomas Perry)によって執筆され、2016年にEducational Review誌に掲載されました。この研究は、イギリスにおける文法学校(grammar schools)制度をめぐる長年の議論を、現代の教育制度の文脈で再評価した重要な研究です。
文法学校とは、イギリスの公教育制度において、11歳時点での学力試験(11プラス試験)に合格した生徒のみを受け入れる学術的選抜制の中等学校です。日本の教育制度とは大きく異なり、小学校卒業時点で将来の教育コースが決まってしまうという特徴があります。現在のイギリスには163校の文法学校が残存しており、全中等学校生徒の約4%が通学しています。
歴史的変遷と政策転換
三分岐制度の成立と衰退
著者らはまず、現在の文法学校論争の起源を1944年教育法まで遡って詳しく解説しています。同法によって確立された三分岐制度(tripartite system)は、文法学校、中等現代学校(secondary modern schools)、技術学校(technical schools)という3つの学校類型で構成されていました。この制度の基本思想は、子どもたちの能力や適性に応じて異なる教育を提供するべきだという考えに基づいていました。
しかし、1960年代になると、この制度に対する社会的な支持が急速に低下します。著者らが指摘する主な問題点として、11プラス試験の信頼性の低さ、中等現代学校の教育の質の問題、家族の分離(兄弟姉妹が異なる学校に通うこと)による社会的な弊害などが挙げられます。特に注目すべきは、女子生徒に対してより高い合格点を設定するという性別による差別的な運用が行われていたことです。
総合制への移行
1965年と1966年に労働党政権が発行した通達10/65と10/66により、地方教育当局(LEAs)は総合制学校(comprehensive schools)への移行を求められました。総合制学校とは、学力による選抜を行わず、すべての能力レベルの生徒を受け入れる学校です。この政策転換により、文法学校の数は急激に減少し、1970年代末までには全中等学校生徒の4.5%のみが文法学校に通学するまでになりました。
現代の教育制度における文法学校の位置づけ
準市場メカニズムの導入
著者らは、1980年代以降のイギリス教育制度改革が文法学校論争に与えた影響について詳細に分析しています。保守党政権は、教育における選択、多様性、競争を促進する「準市場」メカニズムを導入しました。1988年教育改革法(ERA)により、学校の自律性が大幅に拡大され、親の学校選択権が強化されました。
この変化により、全国一律の学校制度の復活という従来の政策選択肢は現実的でなくなりました。代わりに、各学校や地域が独自の方針を決定できる分権的なシステムが確立されました。アカデミー学校、フリースクール、大学技術カレッジ(UTCs)など、多様な学校類型が生まれ、文法学校もこの多様化の一部として位置づけられるようになりました。
新たな役割の模索
現在の文法学校は、単独での存在から、多校アカデミートラスト(MATs)の一部として他校の運営に関与したり、成績不振校のスポンサーとなったりする新たな役割を担うようになっています。著者らは、バーミンガムのキング・エドワード6世財団が地元の成績不振校をスポンサーした例を挙げ、このような協力関係の可能性と限界について論じています。
学力面での効果に関する実証分析
文法学校効果の検証
本論文の最も重要な貢献の一つは、文法学校の学力面での効果に関する厳密な実証分析です。著者らは、2015年のDfE(教育省)成績表データを用いて、文法学校の付加価値(value-added)効果を詳細に検証しています。
表面的には、文法学校の生徒は一貫して国内最高水準の試験成績を収めています。しかし、この成績は主に入学時点での高い学力に起因するものです。同等の学力を持つ生徒間で比較した場合、文法学校効果は大幅に縮小します。著者らの分析によると、文法学校効果は「1科目あたり4分の3等級の差から、実質的な差がないまで」の幅があり、より厳密な統制変数を用いるほど効果は小さくなることが示されています。
測定上の課題
著者らは、文法学校効果の測定における根本的な問題を指摘しています。現行のBest 8付加価値尺度は、11歳時点での事前学力のみを統制しており、家庭の社会経済的背景、特別支援教育の必要性、地域の剥奪度など、学習成果に影響を与える他の重要な要因を考慮していません。
実際に、著者らが不利な立場にある生徒の割合と特別支援教育を必要とする生徒の割合で調整した場合、文法学校効果は約半分に減少しました。さらに深刻な問題として、マニング・ピシュケ(Manning and Pischke, 2006)の研究により、文法学校の生徒は入学前の小学校段階で既に高い進歩を示していることが明らかになっており、これは測定されていない家庭背景や動機などの要因が影響している可能性を示唆しています。
選抜制度の システム全体への影響
ゼロサム効果の問題
著者らは、文法学校の効果を個別の学校レベルではなく、教育システム全体の観点から評価することの重要性を強調しています。多くの研究において、文法学校生徒の成績向上は、選抜から漏れた生徒(中等現代学校の生徒)の成績低下によって相殺されることが示されています。
このゼロサム効果は、能力別グループ編成に関する国際的な研究結果とも一致しています。早期の進路分岐(トラッキング)は、成績上位者に利益をもたらす一方で、中位・下位の生徒に不利益をもたらし、結果として格差を拡大させる傾向があります。
国際比較からの知見
著者らは、OECD諸国の比較分析を引用し、より早期にトラッキングを行う教育制度は、全体的な成績向上効果をもたらすことなく、成績格差を拡大させる傾向があることを指摘しています。ただし、こうした国際比較には、選抜年齢、進路の数、カリキュラムの違いなど多くの変数が関わっており、単純な一般化には注意が必要だとも述べています。
社会的格差と社会移動への影響
文法学校の社会的選抜性
文法学校は表面上は学力のみで選抜を行うとされていますが、実際には社会経済的背景による選抜も同時に行っています。著者らのデータ分析によると、文法学校では給食費免除対象生徒(貧困家庭の指標)の割合が2.6%であるのに対し、他の中等学校では14.9%となっています。
この格差は、単純に地域の社会経済的特性によって説明できるものではありません。文法学校は、立地する地域の社会経済的構成を考慮しても、「学力的に有能な不利な立場の子どもの半分しか受け入れていない」状況にあります。
格差拡大のメカニズム
著者らは、このような社会的選抜性が生じる複合的なメカニズムを詳細に分析しています。第一に、11プラス試験に向けた補習産業の発達により、経済的に余裕のある家庭の子どもが有利になっています。第二に、文法学校への進学を希望し、準備を行う文化的環境の違いがあります。第三に、中産階級の親は学校選択において学力成績を重視し、同時に同質的な社会集団との交流を求める傾向があります。
興味深いことに、民族的背景の観点からは、文法学校はアジア系と中国系の生徒の割合が他の学校より高くなっています。これは、異なる民族集団における教育への態度や期待の違いを反映していると考えられます。
社会移動効果の検証
文法学校支持者の重要な論拠の一つは、文法学校が社会移動(social mobility)を促進するというものです。しかし、著者らが検討した実証研究は、この主張を支持していません。
ボリバー・スウィフト(Boliver and Swift, 2011)の研究では、文法学校に通学した個人の社会移動への効果は限定的であり、選抜制度全体で見ると、文法学校生徒の上向き移動の利益は、中等現代学校生徒の下向き移動の不利益によって相殺されることが示されています。他の研究でも、文法学校生徒の大学進学率の向上効果は見られなかったり、地域全体の所得格差が拡大したりする結果が報告されています。
政策論争の再構築に向けた提言
学校類型論から制度設計論へ
著者らの最も重要な政策提言は、文法学校の存廃という二分法的な議論から脱却し、より根本的な制度設計の問題に焦点を当てるべきだということです。現在の教育制度において重要なのは、特定の学校類型ではなく、入学制度、説明責任制度、資金配分制度といった「ルール」です。
例えば、現在の学校成績指標やOfsted(教育水準監査院)の査察評価は、学校の真の効果性よりも生徒の入学時特性を反映している可能性が高く、これに基づいて「優秀校」の拡大を認める政策は、結果的に恵まれた生徒を多く受け入れる学校の拡大を意味します。
入学制度改革の重要性
著者らは、選抜制度をめぐる議論を、文法学校という特定の学校類型の問題ではなく、より一般的な入学制度の問題として位置づけるべきだと主張しています。現在のイギリスでは、文法学校以外にも様々な形での選抜が行われており、社会的格差の問題はより広範囲にわたっています。
入学制度に関する政策選択肢は、全面的な学力選抜の容認か禁止かという二択ではありません。選抜の程度、基準、実施年齢、不利な立場の生徒への配慮措置など、多様な政策オプションが存在します。実際に、一部の文法学校は既に、Pupil Premium対象生徒(貧困家庭の生徒)への優先入学制度を導入しています。
説明責任制度の改革
現行の付加価値測定や学校査察制度の限界を踏まえ、著者らは説明責任制度の根本的な見直しの必要性を指摘しています。学校の真の効果性を測定できない限り、「優秀校の拡大」や「学校間協力による改善」といった政策の有効性を適切に評価することはできません。
批評的検討
研究手法の強み
本研究の最大の強みは、歴史的分析、政策分析、実証分析を統合したアプローチにあります。文法学校問題を、1944年の三分岐制度から現在の多元的教育制度まで、一貫した政策史の流れの中で位置づけています。また、大規模な行政データを用いた定量分析により、従来の印象論や部分的な証拠に基づく議論に対して、より客観的な検証を行っています。
統計的分析において、様々な統制変数を段階的に追加し、文法学校効果がどのように変化するかを示したアプローチは、教育効果の測定における根本的な課題を明確に示しています。これは、教育政策研究において重要な方法論的貢献といえます。
分析の限界と課題
一方で、本研究にはいくつかの限界も存在します。第一に、準実験的手法や自然実験的手法を用いた因果推論は行われておらず、観察された関連性が真の因果効果を表しているかどうかは不明です。著者らも認めているように、測定されない要因による偏りの問題は完全には解決されていません。
第二に、文法学校の「質的」な側面についての分析が限定的です。例えば、学校の教育理念、教師の質、カリキュラムの特徴、学校文化などが、学力以外の生徒の発達にどのような影響を与えているかについては、十分に検討されていません。
第三に、国際比較の知見の適用可能性についても慎重な検討が必要です。教育制度は各国の歴史的・文化的文脈に深く根ざしており、他国の経験をイギリスにそのまま適用できるかどうかは疑問です。
政策提言の実現可能性
著者らの政策提言は理論的には妥当ですが、実現可能性の観点からは課題があります。入学制度や説明責任制度の根本的改革は、既存の利害関係者(特に文法学校に通う中産階級の親)の強い抵抗を招く可能性があります。また、地方分権化が進んだ現在の制度において、全国統一的な政策変更を実現することは困難です。
さらに、「真の学校効果性」を測定する技術的手法についても、著者らは明確な解決策を提示していません。家庭背景の詳細な情報(親の教育水準、家庭での学習支援など)を収集し、統計モデルに組み込むことは、プライバシーや実務上の制約により困難です。
社会的意義と今後の課題
教育における公平性の問題
本研究が提起する最も重要な問題の一つは、教育における機会の平等と結果の平等の両立です。文法学校制度は、表面的には能力に基づく公平な選抜を行うとしていますが、実際には社会経済的背景による格差を拡大・再生産している可能性があります。
この問題は、日本を含む多くの国でも共通して見られる課題です。公立中高一貫校、私立中学受験、塾産業の発達など、日本の教育制度にも類似の構造が存在します。著者らの分析手法や政策的視点は、他国の教育政策研究にとっても参考になります。
証拠に基づく政策形成の重要性
著者らが一貫して強調するのは、感情的・イデオロギー的な議論ではなく、厳密な証拠に基づいた政策形成の重要性です。文法学校問題は、親の期待、ノスタルジア、社会的地位への願望など、強い感情的要素を含んでいるため、客観的な議論が困難になりがちです。
しかし、教育政策が子どもたちの人生に与える影響の大きさを考えれば、政策決定は最良の利用可能な証拠に基づいて行われるべきです。本研究は、そのための重要な基盤を提供しています。
今後の研究課題
本研究を踏まえた今後の研究課題としては、以下の点が挙げられます。第一に、より厳密な因果推論手法を用いた文法学校効果の検証です。第二に、学力以外の成果(創造性、批判的思考力、社会性など)への影響の分析です。第三に、文法学校改革の具体的政策オプションの設計と評価です。
また、デジタル技術の発達により、個別化された学習や能力別指導の新たな可能性も生まれています。従来の学校類型にとらわれない、より柔軟で効果的な教育システムの設計についても、今後の重要な研究領域となるでしょう。
結論
モリスとペリーによる本研究は、イギリスの文法学校制度に関する包括的で厳密な分析を提供し、長年にわたる政策論争に重要な貢献をしています。特に、文法学校の学力面での効果が従来考えられていたよりもはるかに小さく、同時に社会的格差を拡大させる副作用があることを、客観的なデータで示した点は高く評価されます。
ただし、教育制度改革は単なる技術的問題ではなく、社会の価値観や目標に深く関わる政治的・文化的問題でもあります。著者らの提言を実現するためには、証拠に基づく政策形成の重要性について、より広範な社会的合意を形成する必要があるでしょう。
この研究は、イギリス特有の文法学校問題を扱っていますが、その分析手法や政策的視点は、教育における選抜と平等の両立という普遍的な課題に取り組む他国にとっても有益な示唆を提供しています。教育政策研究の発展と、より公正で効果的な教育制度の構築に向けて、重要な一歩を刻んだ研究として位置づけることができるでしょう。
Morris, R., & Perry, T. (2016). Reframing the English grammar schools debate. Educational Review, 69(1), 1-24. https://doi.org/10.1080/00131911.2016.1184132