研究の背景と著者について

この論文は、言語習得と処理における個人差というテーマを包括的に論じたレビュー論文です。著者らは、オーストラリア国立大学のEvan Kidd、同大学のSeamus Donnelly、そしてコーネル大学のMorten H. Christiansenという、言語習得と心理言語学の分野で著名な研究者たちです。特にChristiansenは、言語処理の統計学習理論や使用基盤理論の発展において重要な貢献をしてきた研究者として知られています。

2018年にTrends in Cognitive Sciencesに掲載されたこの論文”Individual differences in language acquisition and processing”は、従来の言語研究が軽視してきた個人差という現象に焦点を当て、それが言語理論にとってどのような意味を持つのかを詳細に検討しています。言語学や心理学の分野では、長らく平均的な言語能力や典型的な発達パターンに注目が集まってきましたが、実際には同じ言語を話す人々の間にも大きな能力差が存在します。この論文は、そうした個人差が単なる測定誤差ではなく、言語システムの本質を理解する上で極めて重要な手がかりであることを主張しています。

長年無視されてきた「不都合な真実」

著者らは個人差を「不都合な真実」と表現しています。これは、個人差の存在は誰もが認識しているものの、理論構築や実験手法においてはその重要性が軽視されてきたという現状を指しています。従来の認知科学では、個人差は誤差分散として処理され、グループ平均に基づく理想化された認知能力モデルが構築されてきました。

この問題は言語研究において特に顕著です。例えば、文法習得の研究では、子どもが特定の年齢でどのような言語構造を獲得するかという平均的な発達パターンが重視され、個々の子どもの習得速度や最終的な到達レベルの違いは副次的な問題として扱われてきました。しかし、実際のデータを見ると、同じ年齢の子どもでも語彙サイズには数百語から数千語の開きがあり、文法能力についても大きな個人差が存在します。

この状況に対して著者らが提示する解決策は、個人差を理論の中心に据えることです。彼らは、言語理論が満たすべき三つの条件を提示しています。第一に「存在条件」として、理論は観察される個人差の存在を説明できなければならない。第二に「環境条件」として、言語と入力の量や質との関係を説明する必要がある。第三に「構造条件」として、言語の下位システム間および言語と他の認知システム間の関係を説明しなければならない、というものです。

対立する二つの理論的立場

論文の中核をなすのは、言語習得と処理に関する二つの理論的立場の対比です。一方は形式言語学アプローチで、もう一方は創発主義アプローチです。これらのアプローチは個人差について異なる予測を立てており、実証データとの照合によってどちらがより適切かを検証することが可能になります。

形式言語学アプローチは、言語システムが生得的な普遍文法(Universal Grammar)に基づいて構成されており、文法的知識は比較的均一で変異が少ないと想定します。このアプローチでは、語彙については学習が必要であるため個人差が予想されますが、文法システムについては生得的制約により個人差は最小限にとどまると予測されます。個人差が観察される場合は、言語システム外部の認知能力(作業記憶や実行機能など)の制約によるものとして説明されます。

一方、創発主義アプローチは、言語知識の大部分が入力からの学習によって獲得されるとします。このアプローチでは、語彙と文法の境界は曖昧で、両者は密接に相互作用しながら発達すると考えます。学習メカニズムや入力環境の個人差が言語能力の個人差に直接的に反映されるため、より広範囲で系統的な個人差が予測されます。また、言語システム内部での相互作用や、言語と他の認知システムとの相互作用も強く予測されます。

この理論対立は単なる学術的議論にとどまりません。例えば、言語習得に困難を抱える子どもへの支援方法を考える際、形式言語学的な観点では生得的な文法システムの問題として診断・治療アプローチが取られる可能性があります。一方、創発主義的な観点では、入力環境の改善や学習メカニズムの強化により改善が期待される可能性があります。

あらゆる言語領域に広がる個人差

論文では、言語の個人差が従来考えられていたよりもはるかに広範囲にわたって存在することを豊富な実証データで示しています。この点は、この論文の最も説得力のある部分の一つです。

乳幼児期から個人差は明確に観察されます。生後6週間の聴覚脳幹反応が9か月後の言語知識を予測したり、出生時の安静状態脳活動が15か月での言語理解を予測したりするという研究結果は、言語能力の個人差が非常に早期から存在することを示しています。音韻識別や語分割などの基礎的な言語処理能力についても、習得時期に大きな個人差があり、これらの早期の違いが後の語彙・文法発達に長期的な影響を与えることが縦断研究によって確認されています。

語彙発達における個人差は特に顕著です。論文に掲載されたWordbank データベースの分析によると、16か月時点で90パーセンタイルにいる子どもの語彙サイズは、26か月時点で10パーセンタイルにいる子どもと同程度です。つまり、10か月という大きな年齢差があっても語彙サイズが同じという状況が生じています。これは個人差の大きさを端的に表しています。

注目すべきは、文法能力についても大きな個人差が存在することです。従来、文法は比較的均一に習得されると考えられがちでしたが、標準化された文法テストの結果を見ると、中心埋め込み構造や関係節などの複雑な構文については、青年期になっても習得が完了していない個体が相当数存在します。これは形式言語学アプローチの予測とは一致しない結果です。

成人においても個人差は継続します。語彙表象の質が読解能力の個人差を予測したり、統語処理において大きな個人差が観察されたりします。特に興味深いのは、成人の母語話者でも低頻度構造(受動文や量詞を含む文など)について一貫した誤解釈パターンを示す個体が存在することです。これは最終到達状態においても meaningful な個人差が存在することを示しています。

環境が生み出す言語能力の格差

言語能力の個人差を説明する重要な要因の一つが環境です。論文では、入力の量と質の両面から環境の影響を詳細に検討しています。

頻度効果は言語習得・処理の基本原理の一つです。より頻繁に接する語や構造はより早く習得され、より効率的に処理されます。しかし、これは同時に、どのような言語環境で育つかによって習得パターンに違いが生じることを意味します。語彙の多様性、脱文脈化された言語使用、言語的・非言語的相互作用の質など、入力の質的側面も重要な役割を果たします。

社会経済的地位(SES)の影響は特によく研究されています。北米での研究によると、低SES家庭の子どもは全体的な言語入力が少なく、語彙の多様性も限られ、延長された会話への参加機会も少ないことが示されています。これらの違いは語彙・文法発達の両面に有意な影響を与え、その影響は成人まで持続することが大学生を対象とした研究で確認されています。

ただし、SES効果の解釈には注意が必要です。論文の著者らも指摘するように、SES研究の多くは北米で実施されており、他の文化圏での言語社会化実践の多様性については十分なデータがありません。また、SES効果は単純に文化的要因のみに還元できるものではなく、栄養や活動パターンなど脳発達に影響する多様な環境要因と関連しています。

成人における環境効果については、教育レベルと言語能力の関係が報告されています。特に、書面言語でより一般的な低頻度構造において個人差が顕著になることから、活字への曝露の違いが専門性や認知的ニッチの違いを反映している可能性が示唆されます。

こうした環境効果の研究は、言語研究サンプルの偏りという重要な問題も浮き彫りにします。成人の心理言語学研究の多くは大学生を対象としており、これは西洋教育工業化富裕民主主義(WEIRD)サンプルと呼ばれる限定的な集団です。一般人口における個人差の真の範囲を把握するためには、より代表的なサンプルでの研究が必要です。

認知能力と言語能力の複雑な関係

個人差研究の大きな価値の一つは、言語システムの構造を明らかにできることです。言語の下位システム間、および言語と他の認知システム間の相関・解離パターンを調べることで、共通の基盤メカニズムや独立したメカニズムの存在を推定できます。

作業記憶(WM)は言語と最も密接に関連する認知能力の一つです。音韻短期記憶は子どもの語彙発達と相関し、言語障害の正確な指標となります。言語的作業記憶と視空間作業記憶の両方が統語処理と関連することが示されています。しかし、作業記憶と言語の関係については異なる解釈が可能です。一つは、作業記憶容量が系統的に変動し、これが言語処理能力を制約するという容量限定説です。もう一つは、言語的作業記憶課題の成績自体が長期言語表象に依存しており、語彙知識の違いが検索の容易さの違いを生み出すという表象依存説です。

実行機能(EF)も言語処理と密接に関連します。抑制、切り替え、更新などの領域一般的制御機能は、言語表象間の競合が生じる多くの場面で重要な役割を果たします。誤導文からの回復、語彙的曖昧性解決、語用論的理解など、様々な言語処理課題でEFの個人差が成績を予測します。

興味深いことに、WMとEFは相互に関連しています。ある理論では、WMを実行注意と長期記憶の相互作用として捉え、WM課題とEF課題の成績が単一の実行注意因子に収束することが示されています。これは、これらの認知能力がより基本的な注意プロセスの個人差を反映している可能性を示唆します。

統計学習(SL)は、環境の分布的規則性を追跡・学習する能力として、言語習得の代替メカニズムとして注目されています。SLの個人差は、語彙、文法、読み書き発達、第二言語学習など、様々な言語領域の習熟度と関連することが示されています。特に、文脈における予測や文法的配列などの予測可能性を伴う課題で強い関連が見られます。

ただし、SLと言語の関係については理論的・方法論的課題が残されています。SL課題が実際に何を測定しているのか、そして信頼性の高い測定が可能なのかという問題があります。また、視覚・聴覚領域間でのSL能力の相関が見られないことから、SLは統一的メカニズムではなく、モダリティ制約を受ける複数の計算原理の集合である可能性が示唆されます。

研究手法の課題と今後の展開

個人差研究には独特の方法論的課題があります。論文では、この点についても詳細に検討しています。

最も根本的な問題は、グループレベルで有効な実験課題が個人差研究には適さない場合があることです。実験心理学の課題は参加者間変動を最小化するよう設計されているため、個人差を最大化することを目指すID研究とは目的が相反します。多くの実験課題は個人差測定としての再検査信頼性が低く、これが変数間の相関を減衰させて偽陰性や偽陽性を引き起こす可能性があります。

また、心理言語学の多くの課題は複数の認知プロセスが複雑に組み合わさっており、関心のあるプロセスを分離することが困難です。例えば、語彙判断課題の反応時間は符号化、証拠蓄積、反応閾値、反応実行時間などの複数のパラメータが組み合わさった結果です。二つの参加者が同じ平均反応時間を示しても、背後にある認知プロセスは異なっている可能性があります。このため、拡散モデルなどの認知プロセスモデルの発展が個人差研究にとって重要になります。

統計的モデリングについても注意が必要です。最良のID研究は理論的予測をテストする制約された分析を行い、探索的分析とp-hackingを避けています。探索的分析は有用ですが、より焦点を絞った追跡研究による検証が必要です。

しかし、これらの課題は克服不可能なものではありません。大規模データセットの収集(データ共有やオンライン実験プラットフォームの活用)、洗練された統計・計算手法の発展により、ID研究の実施と価値が向上しています。これらの発展は、言語や他の認知プロセスの meaningful な変動に対する軽視への重要な再評価を示しています。

理論検証における個人差の活用

個人差は単に記述的現象にとどまらず、理論検証の強力なツールとしても機能します。論文では、個人差の分布パターンが異なる理論的立場を区別する判定実験として活用できることを示しています。

例えば、英語を学ぶ2歳頃の子どもの基本的他動詞文の理解について、形式アプローチと創発主義アプローチは異なる予測を立てます。形式アプローチでは、抽象的統語表象が入力により誘発されると即座に生産的になるため、実験的テストにおける個人差の分布は二峰性を示すと予測されます(チャンスレベル近辺とチャンス以上のグループに分かれる)。一方、創発主義アプローチでは、入力から段階的に抽象表象を構築するため、参加者間に段階的な個人差があり、分布は単峰性でより変動が大きいと予測されます。

成人の文法性判断についても同様の論理が適用できます。形式アプローチは分類的判断と二峰性分布を予測するのに対し、創発主義アプローチは確率的・段階的知識による幅広い分布を予測します。適切な方法論により、これらの異なる予測を実証的に検証することが可能になります。

さらに、個人差研究は再現可能性の問題にも対処できます。従来の実験アプローチでは十分な統計的検出力を持たない研究が多く実施されてきましたが、ID研究では多数の参加者が必要となるため、効果サイズのより正確で信頼性の高い推定が可能になり、集団(および母集団)における変数の変動性についても推定できます。

この研究が持つ意義と限界

この論文は言語研究における個人差の重要性を包括的に論じた画期的な研究です。従来軽視されてきた個人差という現象を理論の中心に据え、それが言語システムの理解にとって不可欠であることを説得力豊かに論証しています。

論文の最大の意義は、個人差研究が理論発展に果たす役割を体系的に整理したことです。存在条件、環境条件、構造条件という三つの条件を設定し、現在の実証データがこれらの条件をどの程度満たしているかを詳細に検討することで、今後の理論発展の方向性を明確に示しています。特に、現在のデータが言語システム内外での広範囲な相互作用を支持しており、極端なモジュール性アプローチとは整合しないという結論は重要です。

また、形式言語学アプローチと創発主義アプローチの対比を通じて、個人差データが理論選択の判定実験として機能する可能性を示したことも評価できます。これまで主に大人の言語処理研究や言語習得の平均的パターンに基づいて議論されてきた理論的対立に、新たな実証的観点を提供しています。

しかし、論文にはいくつかの限界もあります。まず、文化的多様性の問題です。著者ら自身も認めているように、SES研究の多くは北米で実施されており、言語社会化実践の文化的多様性については十分なデータがありません。言語の個人差を論じる際に、この文化的偏りは深刻な制約となります。

また、個人差の生物学的基盤についての議論が限定的です。遺伝子-環境相互作用が神経基盤の個人差を生み出し、それが行動レベルの個人差に結びつくという基本的なメカニズムについて、より詳細な検討が必要でしょう。特に、認知能力の遺伝率の高さを考慮すると、環境要因のみに焦点を当てた説明では不十分な可能性があります。

方法論的課題についても、具体的な解決策の提示は限定的です。個人差研究に適した課題設計や分析手法の開発は今後の重要な課題として残されています。特に、複数の認知プロセスが関与する複雑な言語課題において、関心のあるプロセスを適切に分離する方法論の発展が急務です。

さらに、個人差研究の実用的意味についての議論も限られています。教育現場での言語指導、言語障害の診断・治療、第二言語教育などの応用領域において、個人差研究の知見をどのように活用するかという視点が不足しています。

それでも、この論文は言語研究における個人差の重要性を明確に示し、今後の研究方向を示した極めて価値の高い研究です。個人差を「不都合な真実」から理論発展の核心的要素へと位置づけ直したことの意義は大きく、言語科学の発展に長期的な影響を与える研究として評価できます。心理言語学や言語習得研究に携わる研究者にとって必読の論文であり、個人差という視点から言語システムの本質に迫る新たな研究パラダイムの出発点となる重要な研究です。


Kidd, E., Donnelly, S., & Christiansen, M. H. (2018). Individual differences in language acquisition and processing. Trends in Cognitive Sciences, 22(2), 154–169. https://doi.org/10.1016/j.tics.2017.11.006

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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