研究の背景と筆者について

Kevin W. H. Taiは香港大学とロンドン大学に所属する研究者で、英語を媒介とした教育(EMI)の現場で教師と生徒がどのように複数の言語を使い分けながら学習を進めるかを長年研究してきました。この論文”Coreferencing as a trans-semiotic meaning-making resource: Managing the EMI history classroom through the lens of translanguagin”は、香港の名門中学校で行われた西洋史の授業を詳しく観察し、教師がどのように生徒の既習知識を引き出しながら新しい歴史的概念を教えているかを明らかにしています。

香港では1998年から2010年にかけて、中学校の授業を中国語で行うか英語で行うかについて厳格な方針が採られていましたが、2010年以降は「微調整政策」と呼ばれる柔軟な方針に変わりました。この政策により、多くの学校が英語で授業を行うようになりましたが、英語が母語でない生徒たちにとって、抽象的な歴史の概念を英語で理解することは容易ではありません。

トランスランゲージングという視点

この研究の核心にあるのは「トランスランゲージング」という考え方です。これは元々ウェールズの教育現場から生まれた概念で、複数の言語を切り替えながら学習を深めることを指します。従来の「コードスイッチング」という言葉が、母語と第二言語を単に切り替えるという機械的な印象を与えるのに対し、トランスランゲージングは、言語を超えた多様なリソース―身振り、表情、図表、過去の経験など―を総動員して意味を作り出す営みを表現しています。

例えば、私たちが道を尋ねられて、言葉だけでなく手で方向を指し示したり、スマートフォンの地図を見せたりするのも、広い意味でのトランスランゲージングです。教室でも同じで、教師は言葉だけでなく、ジェスチャーや黒板への書き込み、生徒の既習知識への言及など、あらゆる手段を使って理解を促します。

研究の方法

Taiは2020年10月から11月にかけて、香港の中学1年生(日本の中学1年生に相当)の西洋史の授業を2ヶ月間観察しました。この学校は英語で授業を行うことを原則としていましたが、中国史は広東語で、中国語や文学の授業も広東語で教えられていました。

観察対象となったクラスは30人の生徒からなり、その学年の中では英語力も学力も平均以下でしたが、授業での発言には積極的でした。全員が広東語を母語とし、香港で生まれ育った生徒たちです。

Taiは授業をビデオ撮影し、その映像を教師と一緒に見ながらインタビューを行う「刺激再生インタビュー」という手法も用いました。これにより、教師がなぜその瞬間にその言葉を選んだのか、どのような意図があったのかを深く理解することができました。

エジプトの「王朝」を中国史で理解する

最初の授業場面では、教師のMr. Pangがエジプト文明について教えています。黒板には紀元前3500年、3200年、320年の出来事を示したタイムラインが書かれ、エジプトには31の王朝があったことが示されていました。

Mr. Pangは生徒たちに「dynasties(王朝)ってどういう意味だと思う?」と尋ねます。すると生徒たちは広東語で「帝國(empire)」と答えます。Mr. Pangはここで「中国にもあったよね」と言って、生徒たちに中国の王朝を思い出させます。

生徒たちは次々に「唐」「元」「夏」「秦」など、中国史の授業で習った王朝の名前を挙げていきます。Mr. Pangは英語で質問しながらも、生徒たちの広東語での回答を受け入れ、「最後の王朝は何だっけ?」と問いかけます。生徒たちは「元唐夏商周(Yuen, Tang, Xia, Shang, Zhou)」と答え、最終的に「清(Qing)」という答えに辿り着きます。

この場面で注目すべきは、Mr. Pangが英語での授業という原則を守りながらも、生徒たちの広東語での発言を積極的に受け入れている点です。彼は手を使って生徒を指し示し、黒板のタイムラインを指差しながら、言語の壁を越えて概念を共有しています。

後のインタビューでMr. Pangは、中国史の知識を引き出すことで、生徒たちが「王朝」という抽象的な概念をより具体的に理解できると考えていたことを明かしています。彼は「生徒たちは中国史で王朝について学んでいるはずだから、その知識と結びつけられる」と語りました。

山に住むか、川に住むか―中国史の知識が生きる場面

二つ目の授業場面は、さらに興味深い展開を見せます。Mr. Pangはナイル川流域の地図を見せながら、「もし君たちが古代エジプト人だったら、川の近く、山の上、砂漠のどこに住みたい?」と問いかけます。

教師としては、文明が川沿いで発展したという歴史的事実に基づき、生徒たちが「川」と答えることを期待していました。しかし、ある生徒Cherryが「山」と答え、「山には水があるから」と理由を述べます。

すると別の生徒Johnが広東語で「中史老師好似講過(中国史の先生が言っていたような気がする)」と発言します。Mr. Pangが詳しく説明を求めると、Johnは広東語で長い説明を始めます。「因為中史講過高地即係高處唔易守難攻(中国史で習ったのですが、高い場所は守りやすく攻めにくい)」

これは中国史で学んだ軍事戦略の概念で、山岳地帯は敵の攻撃から身を守るのに適しているという考え方です。Johnは「易守難攻」という中国語の四字熟語まで使って説明しました。

Mr. Pangはこの発言を受けて、英語で「そう、山は保護のための場所なんだ(it’s a place for protection)」と言い換え、別の生徒Jerryが広東語で「打仗(戦争)」と補足します。Mr. Pangはさらに、手を胸に引き寄せるジェスチャーを使いながら、「山に住む人々を守ることができる(you can protect the people living there)」と説明しました。

この場面でMr. Pangは、当初想定していた「川」という答えとは異なる展開になりましたが、生徒たちが中国史の知識を活用して論理的な説明を行っていることを認め、それを授業の流れに組み込んでいます。後のインタビューで彼は、「生徒たちの答えを完全に否定することはできない。彼らは学んだ知識を使って論理的に説明しているから」と振り返っています。

言語と身体を使った教育の実践

この研究から見えてくるのは、優れた教師は言葉だけでなく、あらゆる手段を使って生徒の理解を助けているという事実です。Mr. Pangは英語で質問しながらも、生徒たちの広東語での発言を受け入れ、黒板や地図を指差し、手を動かして概念を視覚化し、生徒たちが他の授業で学んだ知識を引き出しています。

従来の言語教育研究では、第二言語での授業において母語をどこまで使うべきかという議論が中心でした。しかしこの研究は、言語の切り替えだけでなく、生徒たちの過去の学習経験、身体的な表現、視覚的な資料など、教室にあるあらゆるリソースを活用することの重要性を示しています。

特に印象的なのは、Mr. Pangが中国史と西洋史という異なる教科の知識をつなぐ「架け橋」の役割を果たしている点です。香港の学校では中国史は広東語で、西洋史は英語で教えられるため、生徒たちはこれらを別々の知識として捉えがちです。しかしMr. Pangの授業では、両方の歴史が同じ人間の営みであり、共通する概念や原理があることを生徒たちに気づかせています。

日本の教育現場への示唆

この研究は、日本の英語教育や教科横断的な学習を考える上でも重要な示唆を与えてくれます。

日本でも近年、英語で理科や社会科を教える「CLIL(内容言語統合型学習)」やイマージョン教育が注目されていますが、その実践においては「英語だけで教えるべきか、日本語も使ってよいのか」という議論が繰り返されています。この研究が示すのは、言語の選択を二者択一で考えるのではなく、生徒の理解を助けるためにあらゆる手段を柔軟に使うべきだということです。

また、教科横断的な学習についても示唆的です。文部科学省も「カリキュラム・マネジメント」として教科間のつながりを重視していますが、実際の授業でどのように他教科の知識を引き出すかは教師の腕にかかっています。Mr. Pangのように、生徒がいつどこで何を学んだかを把握し、それを適切なタイミングで引き出すことができれば、生徒たちは断片的な知識ではなく、関連付けられた深い理解を得ることができます。

さらに、この研究は評価の在り方についても考えさせられます。Johnが山を選んだ理由は、教師が期待していた「川」という答えとは異なりましたが、中国史の知識に基づく論理的な説明でした。もし教師が「正解は川です」と切り捨てていたら、生徒たちの思考は止まってしまったでしょう。Mr. Pangは生徒の「予想外の答え」を受け入れ、それを授業の材料にすることで、より豊かな学びの場を作り出しました。

研究の限界と今後の課題

Taiも認めているように、この研究にはいくつかの限界があります。まず、トランスランゲージングが実際に生徒の学習成果を向上させたかどうかは測定されていません。生徒たちが積極的に発言し、知識をつなげる様子は観察されましたが、それが長期的な理解や記憶の定着につながったかは今後の研究課題です。

また、この研究では中国史と西洋史という歴史科目内でのつながりが中心でした。理科や数学など、全く異なる教科の知識をどのように歴史の授業に取り入れられるか、あるいはその逆も、さらなる研究が必要でしょう。

それでも、この研究は教室という空間が、単に知識を伝達する場ではなく、生徒たちの多様な経験や知識が出会い、新しい理解が生まれる「創造の場」になりうることを示してくれました。

おわりに

言語の壁は、しばしば学びの障害と見なされます。しかしこの研究が示すのは、複数の言語や文化を持つ生徒たちは、それを弱みではなく強みとして活用できるということです。

Mr. Pangの授業では、広東語、英語、中国史の知識、西洋史の知識、そしてジェスチャーや図表といった多様な要素が組み合わさって、豊かな学びの空間が生まれていました。これは英語だけ、あるいは広東語だけで授業を行っていたら実現できなかったものです。

私たちの社会はますます多言語・多文化になっています。その中で教育者に求められるのは、単一の「正しい」方法に固執することではなく、目の前の生徒たちが持つあらゆるリソースを認め、それを学びに結びつける柔軟性なのかもしれません。


Tai, K. W. H. (2022). Coreferencing as a trans-semiotic meaning-making resource: Managing the EMI history classroom through the lens of translanguaging. Linguistics and Education, 72, Article 101116. https://doi.org/10.1016/j.linged.2022.101116

 

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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