研究の出発点―言語教育における新しい視座
私たちは普段、言葉を使ってコミュニケーションをする時、実は言葉だけに頼っているわけではありません。たとえば友人と話していて相手の言いたいことがうまく伝わらない時、私たちは手を動かしたり、顔の表情を変えたり、時には絵を描いたりして、なんとか意思疎通を図ろうとします。ましてや外国語の教室で、生徒と教師がお互いに共通する言葉をあまり持っていない場合、このような多様なコミュニケーション手段の活用はさらに重要になります。
Kevin W. H. TaiとDavid Wei Daiによるこの論文”Observing a teacher’s interactional competence in an ESOL classroom: A translanguaging perspective”は、まさにそのような状況にある教室を観察し、教師がどのように様々なコミュニケーションの手段を駆使して生徒との相互作用を成り立たせているのかを詳細に分析したものです。論文は2023年に『Applied Linguistics Review』という言語学の専門誌に掲載されました。
TaiはThe University of Hong Kongの教育学部で英語教育を専門とする助教授であり、同時にUniversity College Londonの名誉研究員でもあります。一方、DaiはMonash Universityで臨床コミュニケーションを教える講師で、言語評価や会話分析を専門としています。二人とも多言語環境における教室のコミュニケーションについて長年研究してきた専門家です。
筆者たちの問題意識―従来の枠組みを超えて
この研究の核心にあるのは、「インタラクショナル・コンピテンス」という概念です。日本語では「相互作用能力」と訳されることもありますが、簡単に言えば、相手と効果的にコミュニケーションを取る能力のことです。この概念は1986年にClaire Kramschという研究者が提唱したもので、それまでの言語教育が文法や語彙といった知識の習得に偏っていたことへの反省から生まれました。
しかし、筆者たちが指摘するのは、これまでのインタラクショナル・コンピテンスの研究には大きな限界があったということです。多くの研究は「第二言語としての英語」や「第二言語としての中国語」というように、特定の一つの言語の枠内でのコミュニケーション能力を測ろうとしてきました。けれども実際の多言語環境では、人々は一つの言語に縛られることなく、利用可能な様々な言語や身振り、その他の手段を自由に組み合わせてコミュニケーションを行っています。
ここで登場するのが「トランスランゲージング」という考え方です。これは、話者が持っているすべての言語的・記号的なリソースを動員して意味を作り出していく過程を指します。たとえば、ある人が英語、日本語、身振り、絵、音声のトーンなど、ありとあらゆる手段を使って相手に何かを伝えようとする、そのプロセス全体をトランスランゲージングと呼びます。
筆者たちは、インタラクショナル・コンピテンスをこのトランスランゲージングの視点から捉え直すべきだと主張します。つまり、効果的なコミュニケーション能力とは、単に一つの言語を流暢に使えることではなく、状況に応じて様々なコミュニケーション手段を適切に選択し、組み合わせて使える能力だというのです。
研究の舞台―アメリカの成人英語教室
この研究の分析対象となったのは、アメリカのPortland Community Collegeで2002年に行われた初級レベルの成人英語教室の授業です。データは「Multimedia Adult English Learner Corpus」という、4000時間以上の教室のやり取りを記録した大規模なコーパスから取られました。この教室には、ルーマニア、ラテンアメリカ諸国、ロシア、アフリカ、中国、韓国など、実に多様な背景を持つ21人の成人学習者が在籍していました。
教師は英語を母語とする経験豊かな女性で、大学でドイツ語とスペイン語を学んだ経験があります。つまり、この教室は、英語を母語とする教師と、様々な母語を持ち英語はまだ初級レベルの学習者たちという、かなり非対称な言語環境だったわけです。
筆者たちは、この教室を6台のビデオカメラで撮影した映像を詳細に分析しました。分析方法として採用されたのは「Sequential-Categorial Analysis」という手法です。これは、会話分析(人々がどのように順番に話を進めていくかを分析する)とメンバーシップ・カテゴリー化分析(人々がどのように社会的役割を演じるかを分析する)を組み合わせたものです。
この分析方法を選んだ理由は、筆者たちが提唱するインタラクショナル・コンピテンスの定義が多次元的だからです。Daiが提案したモデルでは、インタラクショナル・コンピテンスは以下の五つの次元を持つとされます。まず順序的な次元(会話の順番取りなど)、感情的な次元(相手との情緒的な結びつきの管理)、論理的な次元(話の理屈の組み立て)、道徳的な次元(社会的規範の維持)、そして分類的な次元(社会的役割の演出と認識)です。
教室の中で何が起きているのか―三つの具体例
論文では三つの具体的な場面が詳しく分析されています。これらの例を通じて、教師が実際にどのように様々なリソースを駆使しているかが明らかになります。
最初の例は、「after you」という表現を教える場面です。教師は最初、言葉だけでこの表現を説明しようとしましたが、学習者たちはよく理解できませんでした。そこで、二人の学生が教室のドアのところで実演を始めます。一人が「go ahead」と言いながら、もう一人を先に通そうとするジェスチャーをします。教師はこの実演を受けて、「after you」という表現を紹介し、さらに自分自身でも同じ状況を再現してみせます。
興味深いのは、教師がただ言葉を教えるだけでなく、紳士が女性を先に通す場面を想定して、ネクタイを締めるジェスチャーをしながら「gallant(紳士的な)」という言葉を使い、「very polite」と補足している点です。つまり、言葉だけでなく、身振りや想像上の場面設定、さらには文化的な知識(紳士がどのようにふるまうか)まで総動員して、表現の意味を伝えようとしているのです。
二つ目の例は、ある学生が自分の義理の娘について話す場面です。この学生はスペイン語話者で、英語の語彙が限られています。彼女は「my la nuera」とスペイン語を混ぜて言いながら、両手を前後に動かして半円を描くジェスチャーをします。このジェスチャーは妊娠していることを示しているのですが、教師は最初すぐには理解できません。
「my daughter?」と教師が尋ねると、学生は「wife of my son」と言い換えます。教師は「daughter in law」という英語の表現を提供し、学生がそれを繰り返します。ここで注目すべきは、教師が「会話の参加者」から「教師」へと役割を切り替えていることです。私的な会話をしていた教師が、新しい語彙を導入する瞬間には、より フォーマルな口調と完全な文を使って、これが教育的な瞬間であることを学生に示しています。
その後、学生はさらに吐く音を出しながら、吐くジェスチャーをします。教師は「oh」という理解を示す声を出し、「pregnant(妊娠している)」という言葉を提供します。学生はさらに詳しく説明しようとして、またスペイン語で話し始めます。教師は学生のジェスチャーを真似しながら、「very small」「no tummy」といった簡単な言葉で、お腹がまだ大きくないことを説明します。最終的に、教師は「morning sickness(つわり)」という表現を導入し、これがアメリカでよく使われる言い方だと説明します。
この場面で印象的なのは、学生が意味的な知識(義理の娘が妊娠していてつわりがあること)を持っているのに対し、教師が語彙的な知識(それを英語でどう言うか)を持っているという、知識の非対称性です。二人は協力して、学生の経験を英語の表現に結びつけていきます。また、教師は学生のジェスチャーをそのまま真似することで、学生の表現方法を肯定し、それを教室全体のコミュニケーションに取り入れているのです。
三つ目の例は、「yesterday」「today」「tomorrow」という時間の副詞を教える場面です。ある学生が「tomorrow」の意味について質問します。教師は「yesterday」と言いながら後ろを指さし、さらにスペイン語で「pasado」と言います。次に「today」と言って地面を指し、「present」と補足します。学生が「after tomorrow(明後日)」について尋ねると、教師は「future」と答え、さらにスペイン語で「futuro」と言います。
ここで重要なのは、教師が自分の限られたスペイン語の知識を使って、学生の理解を助けようとしていることです。また、学生が手を前に出すジェスチャー(未来を表す)をさらに前に出すジェスチャー(もっと先の未来を表す)をした時、教師はそのジェスチャーの意味を理解し、同じジェスチャーを使って応答しています。
この研究が教えてくれること―日本の教育現場への示唆
これらの詳細な分析から、筆者たちはいくつかの重要な発見を報告しています。まず、教師と学生が共有する言語リソースが限られている環境では、多様なコミュニケーション手段の活用が不可欠だということです。この教室では、教師と学生は英語だけでなく、スペイン語、身振り、声の調子、身体の動き、想像上の場面設定など、ありとあらゆる手段を組み合わせて意思疎通を図っていました。
また、教師は自分の役割を流動的に切り替えていることも明らかになりました。友好的な会話の参加者として学生と親しく接する時と、新しい語彙や文法を教える教師として振る舞う時とでは、話し方が明確に異なっていました。前者では不完全な文や自然な口調を使い、後者では完全な文と フォーマルな口調を使っていたのです。
さらに興味深いのは、教師が学生のコミュニケーション方法を真似していたことです。学生が使ったジェスチャーを教師が繰り返すことで、そのジェスチャーが教室で認められたコミュニケーション手段であることを示し、他の学生もそれを使えるようにしていました。これは、言語的に優位な立場にある教師が、学生のやり方に歩み寄り、多様なコミュニケーション手段を許容する「トランスランゲージング空間」を作り出していることを意味します。
この研究は、従来のインタラクショナル・コンピテンスの概念を大きく拡張するものです。効果的なコミュニケーション能力とは、単に一つの言語を流暢に話せることではなく、状況に応じて利用可能なあらゆるリソースを適切に選択し、組み合わせて使える能力だということが示されました。また、この能力は順序的な側面(誰がいつ話すか)だけでなく、感情的、論理的、道徳的、社会的役割に関する側面も含む多次元的なものです。
日本の教育現場への示唆も豊富です。まず、外国語教育においては、目標言語だけを使うことにこだわりすぎる必要はないということです。特に初級レベルの学習者にとっては、母語や身振り、絵などを適切に活用することで、より効果的なコミュニケーションと学習が可能になります。
また、教師の役割についても考えさせられます。教師は一方的に知識を教える存在ではなく、学習者と協力して意味を作り出していく共同作業者でもあります。学習者の表現方法(ジェスチャーや限られた語彙での説明など)を認め、それを教室全体のコミュニケーションに取り入れることで、より豊かな学習環境が生まれるのです。
さらに、多文化・多言語背景を持つ学習者がいる教室では、彼らの持つ言語的・文化的リソースを貴重な資源として活用することが重要です。この研究の教室では、スペイン語や中国語などの言語が時折現れ、それが排除されるのではなく、学習の一部として取り入れられていました。
ただし、この研究にはいくつかの限界もあります。まず、分析対象となったのはわずか数例の場面であり、一つの教室の一人の教師だけです。他の文脈や他の教師でも同じような結果が得られるかは検証が必要です。また、この研究は主に教師の行動に焦点を当てており、学習者側がどのように学習しているかについては十分に明らかにされていません。
それでも、この研究は教室のコミュニケーションを理解する新しい枠組みを提供してくれます。従来の言語教育研究が一つの言語の枠内でのコミュニケーションに注目してきたのに対し、この研究は実際の多言語環境で人々がどのように多様なリソースを駆使してコミュニケーションを成立させているかを、具体的な映像分析を通じて示しました。
筆者たちが提案する「トランスランゲージング的インタラクショナル・コンピテンス」という概念は、グローバル化が進む現代社会において、ますます重要になっていくでしょう。なぜなら、私たちは日常的に、異なる言語や文化背景を持つ人々とコミュニケーションを取る必要に迫られているからです。そのような状況では、一つの言語を完璧に話せることよりも、利用可能なあらゆる手段を柔軟に使いこなせることのほうが、よほど実用的なスキルだと言えるでしょう。
たとえば、海外旅行で現地の人に道を尋ねる場面を考えてみましょう。完璧な文法で質問できなくても、地図を指さしながら片言の言葉と身振りを組み合わせることで、十分にコミュニケーションは成立します。むしろ、そのような柔軟性こそが、実際のコミュニケーション能力の本質なのではないでしょうか。
この研究は、そのような柔軟なコミュニケーション能力を教師がどのようにモデル化し、教室という空間でどのように育てていけるかを示してくれています。言語教育の目標は、完璧な言語使用者を育てることではなく、多様なリソースを駆使して意味を作り出せる、柔軟で創造的なコミュニケーターを育てることなのかもしれません。
最後に、この研究の方法論についても一言触れておきたいと思います。会話分析とメンバーシップ・カテゴリー化分析を組み合わせた「Sequential-Categorial Analysis」という手法は、教室のやり取りを多角的に理解するための強力なツールです。ただ誰が何を言ったかを記録するだけでなく、その発話がどのような社会的役割の中で行われ、どのような感情や論理を含み、どのような順序で組織されているかまで分析することで、コミュニケーションの豊かさが見えてきます。
日本の教育研究においても、このような詳細な質的分析がもっと行われることが望まれます。授業の「効果」を数値で測ることも大切ですが、教室で実際に何が起きているのか、教師と学習者がどのように協力して学びを作り出しているのかを、丁寧に見ていくことの価値は計り知れません。
結論として、TaiとDaiによるこの研究は、言語教育における相互作用の理解を大きく前進させるものです。教室を単なる知識伝達の場ではなく、多様な言語的・文化的リソースが出会い、新しい意味が創造される「トランスランゲージング空間」として捉え直すことで、より豊かで包摂的な言語教育のあり方が見えてきます。これは、多文化共生が求められる現代日本の教育現場にとっても、示唆に富む研究だと言えるでしょう。
Tai, K. W. H., & Dai, D. W. (2024). Observing a teacher’s interactional competence in an ESOL classroom: A translanguaging perspective. Applied Linguistics Review, 15(5), 2061–2096. https://doi.org/10.1515/applirev-2022-0173
