研究の背景と筆者について
この論文”Translanguaging and emotionality of English as a second language (ESL) teachers”は、University of St AndrewsのSarah HopkynsとCurtin UniversityのSender Dovchinによって執筆されました。両者とも、多言語使用や英語教育における言語アイデンティティの研究で知られています。特にHopkynsはアラブ首長国連邦での英語教育経験があり、Dovchinはモンゴル出身で移民の言語実践について研究してきた背景を持っています。つまり、この二人は単なる理論家ではなく、自身も複数言語を使いながら生活し、教えてきた実践者なのです。
論文が扱う「トランスランゲージング」という概念は、近年の言語教育研究で注目されているものです。簡単に言えば、バイリンガルやマルチリンガルの人々が、複数の言語を混ぜながら自然にコミュニケーションを取る実践を指します。例えば、日本で英語を学ぶ学生が、わからない単語について友達と日本語で相談したり、教師が難しい概念を説明するときに日本語を交えたりすることです。従来の言語教育では「英語の授業では英語だけを使うべき」という考え方が強かったのですが、実際には多くの人が複数言語を行き来しながら意味を作り出していることが明らかになってきました。
教師の感情に焦点を当てた意義
この研究の最も重要な点は、トランスランゲージングに対する「教師の感情」に焦点を当てたことです。従来の研究の多くは学生の態度や学習効果に注目してきましたが、実際に教室で教える教師がどのような感情を抱いているかについては十分に調査されてこなかったのです。
教えるという行為は、決して感情から切り離されたものではありません。むしろ、教師は毎日の授業で様々な感情を経験します。しかし、特に英語教育の現場では、「常に明るく、忍耐強く、励まし続ける」という「感情のルール」が存在します。これは、レストランのウェイターが疲れていても笑顔で接客しなければならないのと似ています。自分の本当の感情と、職業上期待される感情の間にギャップがあるとき、人は「感情労働」を強いられることになります。
調査方法―三つの異なる文化圏から
研究者たちは、モンゴル、日本、アラブ首長国連邦という三つの異なるアジアの国々で、合計6人の大学英語教師にインタビューを行いました。この選択は非常に戦略的です。なぜなら、それぞれの国で英語教育の状況が大きく異なるからです。
モンゴルからは二人の教師(仮名ErdeneとOtgoo)が参加しました。彼女たちはインタビュー時点でオーストラリアで大学院に在籍していましたが、以前モンゴルで英語を教えていた経験について語りました。興味深いことに、インタビューはモンゴル語で行われました。これにより、母語で感情を表現できることで、より細やかな感情のニュアンスを捉えることができました。
日本からは、韓国出身のSujinとイギリス出身のPaulという二人の教師が参加しました。Sujinは日本の大学で5年間英語を教えていますが、日本語は基礎レベルしか話せません。一方、Paulは日本に20年住んでおり、日本語が堪能で、日本人の妻もいます。この二人の対照的な背景は、後に重要な意味を持つことになります。
アラブ首長国連邦からは、アメリカ出身のMichaelとレバノン出身のNouraが参加しました。Michaelは10年以上UAEに住んでいますが、アラビア語は基礎レベルです。一方、Nouraはアラビア語、フランス語、英語の三言語を話すトリリンガルで、学生と母語を共有しています。
浮かび上がった四つの感情テーマ
インタビューの分析から、教師たちのトランスランゲージングに対する感情は、四つの主要なテーマに分類されました。
誇りと自信―バイリンガル教師としての強み
最初のテーマは、トランスランゲージングを使うことで感じる誇りと自信の向上です。Erdeneは、モンゴル語と英語を混ぜて使い始めたとき、教室で立って話すことが楽になり、学生も積極的に質問するようになったと述べています。彼女の言葉からは、「快適さ」「喜び」「幸福感」「達成感」という感情が伝わってきます。
これは、まるで長年履いていた窮屈な靴を脱いで、自分の足に合った靴に履き替えたような解放感に似ています。英語だけで教えようとすることは、自分の言語能力の一部しか使っていない状態であり、トランスランゲージングを取り入れることで、教師としての自分の全体を活かせるようになったのです。
Paulの場合も興味深い観点を提供しています。彼は日本語を使って難しい英語の概念を説明すると、学生が驚き、より尊敬してくれるようになったと感じています。ただし、彼は「もし自分が日本人教師だったら、学生は同じように感じるだろうか」と疑問を投げかけています。これは、非母語話者が母語話者の言語を使うことと、母語話者が自分の言語を使うことでは、周囲の受け取り方が異なる可能性を示唆しています。
安心感と安全な空間の創出
二つ目のテーマは、トランスランゲージングが生み出す「安心感」や「安全な空間」です。Otgooは、モンゴル語と英語、そして時にはカザフ語を使うことで、「温かさ、つながり、感情的な親和性、そして安らぎの空間」が生まれると述べています。
彼女の表現は特に印象的です。「母語はとても心地よいものです。英語で説明するのが難しくても、いつでも母語に戻れることを知っているので、安心感があります」という言葉には、母語が持つ心理的な支えとしての役割が表れています。これは、外国で暮らす人が母語を話せる相手に出会ったときのほっとする感覚に似ています。
UAEのNouraも、学生と同じアラビア語を母語とすることで感じる「心地よさ」について語っています。しかし、彼女の言葉には微妙なためらいが含まれています。「アラビア語を使うのは簡単で快適ですが、あまり多用しないようにしています。これは英語のコースなので、主に英語を使うべきです」という発言からは、この「心地よさ」が同時に「罪深い楽しみ」のように感じられていることがわかります。
恥と言語的劣等感―非母語話者教師の葛藤
三つ目のテーマは、この研究で最も重要かつ痛ましい部分です。英語を母語としない教師たちが、トランスランゲージングを使うことで感じる恥や言語的劣等感についてです。
Otgooの告白は胸を打ちます。「モンゴル語と英語の両方を使うとき、安全だと感じる一方で、自分が弱く、恥ずかしいとも感じます。まるで英語をすべて説明できるほど知らないので、代わりにモンゴル語を選んでいるように感じるのです。これが時々とても自意識過剰にさせます」という言葉には、深い内面の葛藤が表れています。
さらに彼女は、大学の「英語のみ」の言語政策に反していることへの罪悪感についても語っています。「トランスランゲージングを使うとき、時々本当に申し訳なく、罪悪感を覚えます。本当に自意識過剰で劣等感を感じます。なぜなら、学校の言語政策に反していることを知っているからです。これが別の不安とストレスを生み出します」という告白は、制度的な期待と実践の間で引き裂かれる教師の苦悩を浮き彫りにしています。
これは、たとえて言えば、左利きの子供が右手で字を書くように強制され、左手を使うたびに「自分は正しくない」と感じてしまう状況に似ています。トランスランゲージングは教育的に効果があるとわかっていても、それを使うことで「英語教師として不十分」だという感覚に苛まれるのです。
Nouraも同様に、「トランスランゲージングを使いすぎたくない」「アラビア語に頼りすぎているのを学生や同僚に見られたら恥ずかしい」と述べています。彼女は「面目を保つ」ために、トランスランゲージングの使用を控える戦略を取っているのです。
フラストレーション―学生と母語を共有しない教師の苦悩
四つ目のテーマは、学生と母語を共有しない教師が感じるフラストレーションです。これは前述のテーマとは異なる種類の感情労働を生み出します。
韓国出身のSujinは、基礎的な日本語しか話せないため、日本人学生が理解していないように見えても、日本語で説明することができません。「学生が英語だけで話すと反応しないことがあります。彼らはまるで何も理解していないように私を見るのです。そのような場合、本当にトランスランゲージングを使いたいのです。例えば、日本語と英語の両方で。日本語が話せないので、英語を話すしかありません。私が説明したかったことを完全に説明できず、英語で何度も繰り返し説明することになるので、とても欲求不満になります」という彼女の言葉からは、教師としての無力感が伝わってきます。
Michaelも同様の感情を経験しています。UAEに10年以上住んでいても、アラビア語を学ぶ時間が取れないため、「アラビア語で簡単に翻訳できればいいのに、と思う場面が非常に多くあります。英語で同じことを言う無数の方法を見つける代わりにです。学生が理解してくれなければ、それは疲れるだけで報われません。もちろん、これらの感情を見せることはできませんし、それ自体が仕事の難しい部分です」と述べています。
さらにMichaelは、学生がグループワークでトランスランゲージングを使っているとき、「コントロールを失っている」「無力」だと感じると告白しています。学生が何を話しているのかわからないため、教師としての立場が脅かされる感覚があるのです。
この研究が明らかにしたこと
この研究の最も重要な貢献は、トランスランゲージングに対する教師の感情が、単純に「良い」か「悪い」かに分類できないことを示したことです。従来の研究では、トランスランゲージングは主に「創造性」や「遊び心」と結びつけられ、肯定的に描かれてきました。しかし、実際の教室では、教師たちはもっと複雑で矛盾した感情を経験しているのです。
特に「感情労働」の概念は、この研究の核心です。教師たちは、職業上期待される感情(明るさ、自信、忍耐)と、実際に感じている感情(不安、恥、フラストレーション)の間のギャップを埋めるために、常に感情的な演技を強いられています。これは心理的に大きな負担となります。
興味深いのは、トランスランゲージングに対する感情が、教師の言語的アイデンティティや社会的文脈と深く結びついていることです。学生と母語を共有する非母語話者教師(ErdeneやOtgoo、Noura)は、トランスランゲージングが効果的であることを知りながらも、「英語のみ」という制度的期待のために罪悪感や恥を感じます。一方、学生と母語を共有しない教師(SujinやMichael)は、トランスランゲージングを使えないことによるフラストレーションと無力感を経験します。また、母語話者教師のPaulは、バイリンガルとしての能力を発揮することで誇りを感じていますが、同時に「もし自分が日本人だったら」という疑問も投げかけています。
日本の英語教育への示唆
この研究は、日本の英語教育現場にとっても重要な示唆を含んでいます。日本でも長年「英語の授業は英語で」という方針が推進されてきました。しかし、この研究が示すように、そうした方針が教師に与える心理的影響は複雑です。
特に、日本人の英語教師が日本語を使うことへの罪悪感は、Otgooが経験した感情と重なる部分が多いでしょう。「英語で説明できないのは自分の英語力が不足しているから」という自己否定的な解釈は、教師の自信を損ない、燃え尽き症候群にもつながりかねません。
しかし、この研究が示すように、トランスランゲージングは教育的に効果があるだけでなく、適切に使えば教師の自信を高め、学生との関係を改善する可能性も持っています。Erdeneが「トランスランゲージングを持続可能な実践として繰り返す」ことで自信を維持できたように、日本の教師たちも、母語使用を「失敗」ではなく「教育戦略」として再定義する必要があるかもしれません。
また、ALT(外国語指導助手)など、日本語を話さない教師が感じるフラストレーションについても考える必要があります。SujinやMichaelが経験したような無力感は、日本の英語教室でも起きているはずです。こうした教師をサポートする仕組みづくりが求められます。
研究の限界と今後の課題
著者たち自身も認めているように、この研究にはいくつかの限界があります。まず、参加者が6人と少なく、より大規模な調査が必要です。また、インタビューだけでなく、実際の教室観察や日記調査なども組み合わせれば、より豊かなデータが得られるでしょう。
さらに、この研究では大学教師のみを対象としていますが、小中高校の教師や、教師を養成する立場の教員養成者の感情についても調査する価値があります。教育段階によって、トランスランゲージングに対する圧力や期待は異なるかもしれません。
また、学生側の視点も重要です。教師がトランスランゲージングを使うとき、または使わないときに、学生がどのような感情を経験しているのか、そして教師の感情と学生の感情がどのように相互作用するのかについても、さらなる研究が必要です。
実践的な提言―感情について語り合う場の必要性
この研究から導き出される最も重要な実践的提言は、二つあります。
第一に、英語教育の現場において、トランスランゲージングをめぐる教師の複雑な感情についての認識を高める必要があります。トランスランゲージングは単なる「楽しい」「創造的な」実践ではなく、時に危うさや葛藤を伴うものであることを理解すべきです。
第二に、教師が自分の感情について率直に語り合える場を作る必要があります。感情を「個人の問題」として内面化させるのではなく、制度や政策、権力関係の中で生じるものとして認識する必要があります。例えば、「英語のみ」の方針が教師に与える心理的負担について、管理職や同僚と対話できる機会を設けることが重要です。
著者たちが指摘するように、教師と学生の感情は相互に影響し合います。教師が感情的に疲弊していれば、それは学生にも伝わります。したがって、教師の感情的健康は、単に教師個人のウェルビーイングの問題ではなく、学生の学習環境の質にも直結する問題なのです。
おわりに
この論文は、一見すると「言語教育」という限定的なテーマを扱っているように見えますが、実際にはもっと普遍的な問いを投げかけています。それは、「職業上期待される感情と実際に感じる感情の間のギャップをどう埋めるか」「制度的な期待が個人に与える心理的影響をどう認識し、対処するか」という問いです。
教師たちの生の声から浮かび上がってくるのは、誇りと恥、自信と劣等感、安心とフラストレーションという相反する感情の間で揺れ動く、人間らしい姿です。Otgooが「自分がしていることは普通だ。時には大丈夫なんだ」と自分に言い聞かせる場面や、Michaelが「もちろん、これらの感情を見せることはできません」と述べる場面には、教師という職業の持つ感情的な複雑さが凝縮されています。
この研究が示すのは、言語教育における真の「善」とは、単一の言語使用を徹底することでも、無批判にトランスランゲージングを推進することでもなく、教師と学生の両方が、複雑で時に矛盾する感情を抱えながらも、それらについて率直に語り合える環境を作ることなのかもしれません。そのような環境こそが、本当の意味での「安全な空間」となるのでしょう。
Hopkyns, S., & Dovchin, S. (2024). Translanguaging and emotionality of English as a second language (ESL) teachers. IRAL: International Review of Applied Linguistics in Language Teaching, 62(3), 1257–1278. https://doi.org/10.1515/iral-2024-0094
