論文の概要と著者の立場
ノースカロライナ大学グリーンズボロ校のジェイミー・L・シッセル准教授による「英語言語テストの脱植民地化」は、現代の英語教育界に重要な問題提起を行っています。シッセル教授は、自身を「白人ヨーロッパ系の子孫である定住者の女性」と位置づけながら、英語言語テストが持つ植民地主義的側面を批判的に検証しています。
この論文”Decolonizing English language testing”は、一見中立的で客観的に見える英語のテストが、実際には特定の文化的価値観や権力構造を反映していることを明らかにしています。著者は、メキシコのオアハカ州で先住民言語の評価に取り組む団体「AMELI」(メキシコ先住民言語評価協会)での経験を通じて、従来とは異なる評価のあり方を模索しています。
英語テストが抱える構造的問題
歴史的背景に潜む優生学の影響
論文で最も衝撃的な指摘の一つは、現代の英語テストが20世紀初頭の優生学運動と深い関係を持っているという事実です。1914年にフレデリック・J・ケリーによって開発された多肢選択式テストは、効率性と客観性を重視する価値観を反映していました。しかし、この「客観性」という概念が、優生学運動の支持者たちによって人種間の階層を正当化する道具として利用されたのです。
シッセル教授は、イギリスのサイリル・バートやチャールズ・スピアマン、アメリカのカール・ブリガムやロバート・ヤーキスといった著名な研究者たちが優生学運動に関与していたことを指摘しています。これらの研究者たちが開発したテストは、移民の子どもたちを「言語障害」として分類し、1950年代まで続いた差別的な実践の基盤となりました。
標準英語という幻想
論文のもう一つの重要な論点は、「標準英語」という概念自体が植民地主義的な構築物であるという主張です。英語には、イギリス英語やアメリカ英語のような「標準」とされる形態と、インド英語、ナイジェリア英語、シングリッシュといった「非標準」とされる形態があります。しかし、著者は「純粋な」英語の形態は存在せず、すべての英語使用は特定の歴史的・文化的文脈を反映したものであると主張しています。
現在世界で最も広く使用されているIELTS(380万人受験)とTOEFL(250万人受験)は、それぞれイギリスとアメリカの標準的な英語変種に基づいて作られています。これらのテストは、教育や就職の機会への入り口として機能しており、特定の英語形態を習得することを世界中の学習者に強要している構造があります。
先住民の知恵から学ぶ新しい評価の形
AMELIの取り組みと原則
シッセル教授が参加するAMELIは、2018年にオアハカ州で設立された先住民言語の評価に取り組む団体です。この地域は16の言語共同体を持つメキシコで最も言語・文化的多様性に富んだ地域です。AMELIは、従来の学術団体とは異なり、学生、教育者、コミュニティ組織者など幅広い参加者に開かれた運営を行っています。
AMELIが策定した4つの指導原則は、従来のテスト文化への重要な代替案を提示しています。第一に、メンバー間の信頼構築を協力と共有プロジェクトの基盤とすること。第二に、自発的で相互依存的な水平的なコミュニケーションの促進。第三に、言語評価の社会的・文化的責任ある使用の推進。第四に、評価や査定の社会的帰結について継続的に問い続けること。
これらの原則は、従来のテストが持つ競争的で階層的な性格とは根本的に異なるアプローチを示しています。
先住民の評価ツールの特徴
論文では、マクアイバーとジェイコブスが開発した先住民言語学習評価ツール(AT)が紹介されています。このツールは、従来の言語能力尺度とは大きく異なる特徴を持っています。
最も注目すべきは、同心円状の構造を採用することで、線形的・段階的な言語習得観を放棄している点です。従来のテストが「聞く・話す・読む・書く」の四技能を分離して評価するのに対し、このツールは「話す目標」と「理解する目標」に焦点を当てています。また、学習者が自分自身の言語学習目標を記述できる適応可能な領域が組み込まれており、個別性を重視した設計となっています。
さらに重要なのは、このツールがクリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で提供されており、商業目的での使用を禁止していることです。これは、テスト産業の商業的利益を排除し、コミュニティの利益を優先する姿勢を示しています。
論文の強みと貢献
歴史的視点の重要性
この論文の最大の強みの一つは、現代のテスト実践を歴史的文脈の中で捉えている点です。優生学運動とテストの関係を明確に示すことで、一見中立的に見える評価方法が実際には特定のイデオロギーを内包していることを説得力を持って論証しています。
多くの教育関係者は、テストの技術的側面や統計的妥当性に注目しがちですが、その背景にある価値観や権力構造については十分に検討していません。シッセル教授の歴史的分析は、このような盲点を明らかにする重要な貢献をしています。
具体的な代替案の提示
単なる批判に留まらず、具体的な代替案を提示している点も評価できます。AMELIでの実践や先住民の評価ツールの紹介は、理論的議論を実際の行動に結びつける貴重な事例となっています。
特に、多言語・多モーダルなアプローチの提案は、グローバル化した現代社会における言語使用の実態をより適切に反映した評価方法として注目に値します。学習者の全言語背景を活用し、言語以外のコミュニケーション手段も含めた総合的な評価は、従来の単一言語主義的な評価観を根本的に見直すものです。
反省的な立場の明確化
著者が自身の立場を明確に示している点も重要です。白人女性として、植民地主義の恩恵を受けてきた立場から脱植民地化を論じることの複雑さを認識し、先住民コミュニティとの関係性について率直に語っています。この姿勢は、学術的誠実性と倫理的責任感を示すものとして評価できます。
論文の限界と課題
実装の困難さ
論文が提案する脱植民地化のアプローチは理想的である一方、現実的な実装には多くの困難が伴います。著者自身も認めているように、「何をすべきか」の明確な処方箋は存在しません。現在の教育システムや社会構造の中で、どのように段階的な変化を実現していくかについての具体的な戦略が不足しています。
特に、大規模な標準テストに依存している現在の教育・社会システムにおいて、急進的な変化を導入することは現実的ではありません。IELTS や TOEFLに代わる国際的に認知される評価システムをどのように構築し、運営していくかという実務的な課題については、論文では十分に検討されていません。
エビデンスの限界
論文で紹介されている先住民の評価実践は魅力的ですが、その効果や妥当性を示す実証的データは限定的です。AMELIの活動は比較的新しく、その長期的な影響や他の文脈への適用可能性については、さらなる研究が必要です。
また、提案されている評価方法が、学習者の実際の言語能力や学習進歩をどの程度正確に把握できるかについても、実証的検証が求められます。従来のテストが持つ問題を指摘することと、代替案の有効性を証明することは別の課題です。
文化的特殊性と普遍性
先住民コミュニティの実践から学ぶことの重要性は理解できますが、これらの実践が他の文化的文脈にどの程度適用可能かという問題があります。オアハカ州の特定の社会的・文化的条件の下で機能する評価方法が、都市部の多文化環境や異なる教育システムにおいても同様に機能するとは限りません。
文化的多様性を尊重することと、ある程度の共通基準を維持することのバランスをどのように取るかは、グローバル化した現代社会における重要な課題です。
教育現場への示唆
教師の役割の再考
この論文は、英語教師や評価専門家に対して重要な問いかけを行っています。日常的に使用している評価方法が、どのような価値観や前提に基づいているかを批判的に検討する必要性を示しています。
教室レベルでの評価においても、学習者の多様な言語背景や文化的資源を活用する可能性を探ることができます。例えば、英語のエッセイ課題において、学習者が母語の概念や表現を取り入れることを奨励したり、口頭発表に視覚的・身体的表現を組み合わせることを認めたりする方法が考えられます。
評価観の変革
論文が提起するより根本的な問題は、「正解」と「不正解」を明確に区分し、学習者を序列化することを前提とした評価観そのものです。代替的なアプローチでは、学習を発見と創造のプロセスとして捉え、多様な表現形態を認める柔軟性が求められます。
これは、現在多くの教育機関で採用されているポートフォリオ評価やプロジェクトベース学習の発展形として位置づけることができます。重要なのは、これらの方法を単なる技術的改良ではなく、根本的な価値観の転換として理解することです。
今後の研究課題
長期的効果の検証
脱植民地化的な評価アプローチの長期的効果について、実証的な研究が必要です。学習者の学習動機、自己効力感、言語使用の信頼性などの観点から、従来のアプローチとの比較研究を行うことで、提案されている方法の有効性をより明確に示すことができるでしょう。
技術的課題の解決
大規模評価における公平性や信頼性をどのように確保するかという技術的課題も重要です。多様な評価形態を認めながらも、社会的に認知される評価結果を提供するためには、新しい測定理論や統計手法の開発が必要かもしれません。
制度的変革の戦略
個別の教育機関や教師レベルでの実践を、より大きな制度的変革につなげていくための戦略的アプローチの研究も求められます。政策立案者、テスト開発者、教育機関の管理者など、様々なステークホルダーとの対話を通じて、段階的な変革の道筋を描くことが重要です。
結論:多様性を認める評価文化の構築に向けて
シッセル教授の論文は、英語言語テストの脱植民地化という野心的なテーマに正面から取り組んだ意欲作です。現在当たり前とされている評価方法の歴史的背景や隠された前提を明らかにし、より包括的で公正な代替案の可能性を示している点で、重要な学術的貢献をしています。
同時に、この論文が提起する課題は、英語教育に関わるすべての人々に対する重要な問いかけでもあります。私たちが使用している評価方法は、真に学習者の多様な能力や可能性を認識しているでしょうか。そして、それらの方法は、より公正で包括的な社会の実現に貢献しているでしょうか。
論文には実装上の困難や実証的エビデンスの不足といった限界もありますが、これらは今後の研究と実践によって克服していくべき課題として位置づけることができます。重要なのは、現状を絶対視するのではなく、より良い評価のあり方を模索し続ける姿勢です。
グローバル化が進む現代社会において、言語評価は単なる技術的問題ではなく、文化的多様性と社会的公正に関わる重要な問題です。シッセル教授の研究は、この複雑な問題に対する新しい視点と実践的な方向性を提供する貴重な出発点となっています。英語教育に関わる研究者や実践者にとって、この論文は避けて通れない重要な文献として、今後長く参照され続けることでしょう。
Schissel, J. L. (2024). Decolonizing English language testing. TESOL Journal, 15, e832. https://doi.org/10.1002/tesj.832