はじめに 英語教育における永遠の課題
英語を外国語として学ぶ環境において、文法をどのように教えるべきかという問題は、長い間教師たちを悩ませ続けています。コミュニケーション重視の言語教育が主流となった現代でも、文法の位置づけや指導方法については議論が絶えません。教師は「コミュニケーション能力を育てたい」と考える一方で、実際の授業では従来型の文法説明や練習問題に頼ってしまうことが多いのではないでしょうか。
今回取り上げる論文”Beliefs versus declared practices of English as a foreign language (EFL) teachers regarding teaching grammar”は、まさにこうした教師の理想と現実の間にある溝を明らかにしようとした研究です。イスラエルの教育現場で221名の英語教師を対象に行われたこの調査は、教師が文法指導について抱いている信念と、実際に教室で行っている指導実践の間にどのような相違があるのかを詳細に分析しています。
研究者と研究の背景
この研究を主導したのは、イスラエルのキブツィム教育大学の四名の研究者です。主著者のメラブ・バダシュ(Merav Badash)をはじめとする研究チームは、いずれも英語教育と教師養成の分野で活動する専門家たちです。彼らが所属するキブツィム教育大学は、イスラエルの教師養成機関として重要な役割を果たしており、実際の教育現場に近い立場から研究を行っています。
研究の背景には、イスラエル特有の言語教育事情があります。イスラエルでは英語が第一外国語として位置づけられており、街の看板やメディア、広告などあらゆる場面で英語が使用されています。このような環境下で、英語教師には高い言語能力と指導技術の両方が求められています。しかし、教師の多くはイスラエル生まれの非ネイティブスピーカーであり、彼ら自身も学校で英語を外国語として学んだ経験を持っています。
さらに、イスラエルの教育制度では全国統一テスト(メイツァブ)が重要な位置を占めており、教師は「テストのための指導」を余儀なくされる場面も多いと指摘されています。こうした状況が、教師の理想的な指導観と実際の指導実践の間に矛盾を生み出している可能性があります。
研究方法の妥当性と特徴
この研究では、オンライン調査を用いて量的データと質的データの両方を収集するという、バランスの取れたアプローチが採用されています。調査は2019年1月に実施され、全国488名の英語教師にGoogle Docsを通じて配布され、最終的に221名から回答を得ました。回答率45パーセントという数字は、この種の調査としては妥当な水準といえるでしょう。
調査内容は三つの閉じた質問と二つの自由記述質問から構成されています。閉じた質問では、教師の背景情報、文法指導に対する認識、実際の指導実践について5段階のリッカート尺度で回答を求めています。一方、自由記述質問では「文法を教える最良の方法は何か」「文法指導に関する意見」について具体的な記述を求めており、量的データだけでは捉えきれない教師の生の声を収集することに成功しています。
研究方法の強みとして、事前に15名の教師を対象としたパイロット調査を実施し、調査内容を精緻化している点が挙げられます。また、質的データの分析では複数の研究者が独立して分析を行い、客観性の確保に努めています。
ただし、この研究には方法論上の限界もあります。最も重要な点は、実際の授業観察を行っていないことです。研究者たち自身も認めているように、この研究で得られたのは教師の「申告された実践」であり、実際の教室での行動とは異なる可能性があります。また、参加者の約97パーセントが女性であり、性別の偏りも見られます。
主要な発見とその意味
信念と実践の深刻なギャップ
研究の最も重要な発見は、教師の信念と実際の指導実践の間に統計的に有意な差があることです。文法指導に対する認識の平均値が3.56であったのに対し、実際の指導実践の平均値は3.32と低く、教師たちがコミュニケーション重視の指導を理想としながらも、実際にはより伝統的な指導方法に頼っていることが明らかになりました。
この結果は、世界中の英語教師が直面している共通の課題を浮き彫りにしています。教師たちは頭では「文法は文脈の中で教えるべきだ」「コミュニケーション活動を通じて学ばせるべきだ」と理解していても、実際の授業では文法規則の明示的な説明や教科書の練習問題に依存してしまうのです。
ネイティブと非ネイティブ教師の違い
研究では、ネイティブスピーカー教師(NEST)と非ネイティブスピーカー教師(NNEST)の間にも興味深い差が見つかりました。ネイティブ教師の方がより多くのコミュニケーション活動を取り入れた文法指導を行っていると報告しています。この結果について研究者たちは、ネイティブ教師が言語の自然な流れや微妙なニュアンスを感じ取る能力に長けており、予期しない状況にも柔軟に対応できるため、コミュニケーション活動に対する不安が少ないのではないかと分析しています。
一方で、非ネイティブ教師は英語が母語でないという事実により脆弱性を感じ、教室で起こりうる予期しない状況に対処する準備が不十分だと感じている可能性があります。このため、より安全で予測可能な伝統的な指導方法に頼る傾向があるのかもしれません。
学年による指導法の変化
学年別の分析では、高等学校の教師が中学校や小学校の教師よりもコミュニケーション重視の文法指導を行っていることが分かりました。これは一見当然のようにも思えますが、重要な示唆を含んでいます。高校生は語彙力や文法知識が豊富で、より効果的に口頭でのやり取りができるため、教師も安心してコミュニケーション活動を取り入れられるのでしょう。
逆に言えば、小学校や中学校の段階では、基礎的な語彙や表現を身につけることに重点を置き、文法を中心とした指導は控えるべきだという含意もあります。
語彙とスピーキングの重視
言語の各側面の重要度を尋ねた質問では、語彙(58パーセント)とスピーキング(55パーセント)が最も重要とされ、文法とライティングはともに24パーセントと最も低い評価でした。この結果は、教師たちがコミュニケーション能力の育成を重視していることを示しています。
しかし、ここにも矛盾があります。スピーキングを最重要視する教師が多いにもかかわらず、実際の指導実践では従来型の文法説明に頼っているのです。この矛盾は、教師が理想的だと考える指導と、実際に実行可能な指導の間にある現実的な制約を物語っています。
質的データが語る教師の本音
自由記述による質的データからは、教師たちの複雑な心境が浮かび上がります。多くの教師がコミュニケーション重視の指導の重要性を理解し、「文法は歌や物語なしに教える」「各要素を孤立的に提示する」といった伝統的な方法を批判的に捉えています。
一方で、実際の指導については「まずパターンの仕組みを説明し、次に構成要素の形成方法を教え、最後に例と練習を行う」「できるだけシンプルに説明する」といった、明示的で体系的な指導を好む傾向も見られます。
特に興味深いのは、ネイティブ教師が「学生は英語を使用・聞取・読書の機会を与えられれば、文法を直感的に習得する」「より多くの英語に触れる機会のある学生は、明示的な文法指導をあまり必要としない」といったコメントを寄せていることです。これは、第一言語習得のプロセスを外国語学習にも適用できるという考え方を反映しています。
研究の実践的意義
この研究が明らかにした信念と実践のギャップは、単なる学術的関心の対象ではなく、教師教育と現職教師研修において重要な示唆を提供しています。
まず、教師養成課程では、コミュニケーション重視の指導法についてより具体的で実践的な訓練が必要です。理論的な理解だけでなく、実際にコミュニケーション活動を設計し、運営する経験を積むことが重要でしょう。特に非ネイティブ教師については、英語運用能力の向上と指導技術の習得を並行して進める必要があります。
また、現職教師に対しては、理想と現実のギャップを率直に話し合える環境づくりが重要です。多くの教師が同じような悩みを抱えていることを知るだけでも、心理的な負担は軽減されるでしょう。さらに、制約の多い教育現場でもコミュニケーション活動を取り入れるための実践的な工夫やアイデアを共有することが有効です。
教材開発の観点からも、この研究は重要な指摘をしています。現在の教科書は形式的な練習問題に偏りがちですが、より文脈に根ざした活動や、正確性と流暢性のバランスを取った練習を提供する必要があります。
研究の限界と今後の課題
この研究の最大の限界は、実際の授業観察を行っていないことです。教師の自己申告に基づくデータには、社会的望ましさによる偏りが含まれている可能性があります。つまり、教師が実際よりも革新的な指導を行っていると答えている可能性や、逆に謙遜して控えめに答えている可能性があります。
また、この研究ではイスラエルという特定の文脈でのデータ収集が行われており、結果の一般化可能性には注意が必要です。言語政策、教育制度、文化的背景などが異なる国や地域では、異なる結果が得られる可能性があります。
さらに、教師の指導実践に影響を与える要因として、この研究では触れられていない重要な要素があります。例えば、学級規模、授業時間、利用可能な教材、学校の方針、保護者の期待、同僚との関係などは、教師の指導選択に大きな影響を与える可能性があります。
研究方法についても改善の余地があります。特に、言語の各側面の重要度を尋ねた質問では、回答者の64パーセントが指示に従わずに同じ数字を重複して使用したため、分析から除外されています。これは質問設計の問題を示唆しており、より明確で回答しやすい形式を検討する必要があります。
今後の研究に向けて
この研究を踏まえて、今後取り組むべき研究課題がいくつか考えられます。
第一に、実際の授業観察を伴う研究が必要です。教師の申告と実際の行動の間にどの程度の差があるのか、また、その差が生じる要因は何かを明らかにすることが重要です。ビデオ録画による授業分析や、授業後の振り返りインタビューを組み合わせることで、より深い理解が得られるでしょう。
第二に、学習者の視点を含めた研究が求められます。教師がコミュニケーション重視だと考える指導が、実際に学習者にとって効果的なのか、また学習者はどのような指導を望んでいるのかを調査することが必要です。
第三に、信念と実践のギャップを埋めるための介入研究が重要です。具体的な研修プログラムや支援システムを開発し、その効果を検証することで、より実践的な提言が可能になります。
第四に、文化的・制度的要因の影響をより詳細に分析する研究が必要です。どのような条件下で教師がより革新的な指導を実践できるのか、また、どのような障壁がその実践を妨げているのかを明らかにすることが重要です。
日本の英語教育への示唆
この研究の結果は、日本の英語教育にとっても多くの示唆を提供しています。日本でも2020年の学習指導要領改訂により、コミュニケーション重視の英語教育が強調されていますが、実際の教室では従来型の指導が続いている場面も多いと推測されます。
特に、非ネイティブ教師が大多数を占める日本の状況は、イスラエルと類似しています。日本の英語教師も、自身の英語運用能力に対する不安や、コミュニケーション活動を効果的に運営するスキルの不足を感じている可能性があります。
また、大学入試や高校入試といった外部評価の影響も、イスラエルの全国統一テストと同様の問題を引き起こしている可能性があります。理想的な指導を知っていても、テスト対策の必要性から従来型の指導に回帰してしまう教師は少なくないでしょう。
このような状況を改善するためには、教師養成課程における実践的な指導法訓練の充実、現職教師に対する継続的な研修機会の提供、評価方法の見直し、教材開発の改善などが必要です。
おわりに 建設的な対話の必要性
この研究が明らかにした教師の信念と実践のギャップは、決して教師を批判するためのものではありません。むしろ、多くの教師が理想的な指導を目指しながらも、現実的な制約の中で苦闘している状況を浮き彫りにしています。
重要なのは、このギャップの存在を認識し、それを埋めるための建設的な対話と具体的な支援策を講じることです。教師教育者、研究者、現場教師、行政担当者が連携して、より効果的な英語教育の実現に向けて取り組む必要があります。
また、完璧な指導法など存在しないことも理解すべきです。コミュニケーション重視の指導にも限界があり、状況に応じて様々なアプローチを使い分ける柔軟性が求められます。教師には、自身の信念と実践を定期的に振り返り、必要に応じて調整していく姿勢が重要でしょう。
この研究は、英語教育の改善に向けた重要な第一歩を提供しています。今後、より詳細な調査と具体的な改善策の開発が進むことで、世界中の英語学習者がより効果的で楽しい学習経験を得られることを期待したいと思います。英語教育における理想と現実の狭間で揺れる教師たちを支援し、より良い教育環境を構築するために、この研究が果たす役割は決して小さくありません。
Badash, M., Harel, E., Carmel, R., & Waldman, T. (2020). Beliefs versus declared practices of English as a foreign language (EFL) teachers regarding teaching grammar. World Journal of English Language, 10(1), 49-61. https://doi.org/10.5430/wjel.v10n1p49