はじめに―現場から生まれた理論的問題意識

教室で複数の言語を話す子どもたちを見たことがあるでしょうか。たとえば日本語と英語、あるいは日本語と中国語を行き来しながら友達と話したり、宿題に取り組んだりする姿です。従来の教育では、こうした言語使用は「ごちゃまぜ」「不完全」として否定的に見られがちでした。しかし近年、こうした実践を肯定的に捉え直す「トランスランゲージング」という考え方が注目を集めています。

本論文の著者であるMarianne TurnerはオーストラリアのMonash大学、Angel M.Y. LinはHong Kongの教育大学に所属する研究者です。両者とも多言語教育の現場に深く関わってきた経験を持ち、理論と実践の架け橋を模索し続けてきました。本論文は2024年に『Linguistics and Education』誌に掲載されたもので、トランスランゲージングという概念に対する様々な批判に応答しながら、より堅固な理論的基盤を構築しようとする意欲的な試みです。

トランスランゲージングとは何か―ウェールズから世界へ

トランスランゲージングという用語は、もともと1990年代のウェールズで生まれました。ウェールズ語の復興運動の中で、計画的に言語を切り替える教育実践を指す言葉として使われ始めたのです。その後、García(2009)がこれをより動的な概念として再定義し、バイリンガルの子どもたちが自然に行っている言語実践全体を指すものとして広めました。

従来の多言語教育では、「スペイン語」と「英語」というように、言語を別々のものとして扱い、それぞれの能力を測定してきました。しかしトランスランゲージングの視点では、話し手の言語レパートリー全体を一つのまとまりとして捉えます。たとえるなら、従来の見方は絵の具を色ごとに分けて管理するようなもので、トランスランゲージングの見方はパレット上で色が混ざり合って新しい表現を生み出すプロセスそのものに注目するようなものです。

この視点が重要なのは、植民地化や国民国家形成の歴史が作り出してきた「一言語一国家」という考え方に挑戦するからです。Yildiz(2012)が指摘するように、「言語」は名前を持ち、数えられ、それを話す集団の所有物であるという見方が当たり前になっています。この見方では、名前のついた言語に当てはまらない言語実践は「逸脱」「ごちゃまぜ」あるいは「見えない存在」とされてしまいます。

批判への応答―理論的ジレンマと実践的課題

しかし著者たちが認めるように、トランスランゲージングには重要な批判が向けられています。

第一の批判は「脱構築主義」の危険性です。トランスランゲージング理論の一部の論者は、「スペイン語」や「日本語」といった個別言語は社会的構築物に過ぎず、心理的実在ではないと主張します。つまり、私たちは状況に応じて言語レパートリーの様々な側面を使っているだけで、脳の中に「日本語システム」「英語システム」といった別々の箱があるわけではない、というのです。

この見方の問題点は、言語の権利擁護を困難にする可能性があることです。もし個別の言語が「存在しない」のなら、少数言語の復興運動や、子どもが母語で教育を受ける権利をどう正当化できるのでしょうか。MacSwan(2020)やGrin(2018)といった研究者たちは、この点を厳しく批判しています。実際、先住民言語の復興に取り組む人々にとって、「その言語は社会的構築物に過ぎない」と言われることは、自分たちの闘いの基盤を掘り崩されるようなものでしょう。

第二の批判は、変革的可能性の限界です。Jaspers(2018)が端的に指摘するように、「道の終わりには、生徒は単一言語的で学術的な言語能力で評価される」のです。教室でどれだけ複数言語の使用を認めても、最終的には標準化されたテストで測られる現実があります。Block(2018)は、トランスランゲージングが「承認」(マイノリティグループの違いを認める)に焦点を当てすぎて、「再分配」(経済的不平等の是正)の視点が欠けていると批判します。つまり、言語の多様性を認めるだけでは、社会経済的な不平等は解決しないという指摘です。

第三の批判は、用語の過剰使用です。トランスランゲージングという言葉が、記述的、理論的、イデオロギー的な目的を同時に含み込んでしまい、焦点がぼやけているというのです。また、既存の「コードスイッチング」研究との違いが必ずしも明確ではないという指摘もあります。

Bakhtinのヘテログロシア―生きた言語の捉え方

これらの批判に応えるため、著者たちはまずBakhtinの言語理論に目を向けます。Bakhtinは1920年代のソビエト連邦で、ロシア語による統一的言説が形成される過程を目の当たりにしながら、それとは反対の視点―「言語は人々の意識と実践とともに生き動いている」という視点から理論を構築しました。

Bakhtinの「ヘテログロシア(多声性)」という概念は、言語の本質的な多様性を指します。これには三つの層があります。まず、社会的世界や信念体系に基づく発話タイプの多様性。次に、一つの言語(たとえばロシア語)自体が実は「諸言語の対話」であるという言語的多様性。そして、私たちが話したり書いたりする言葉は「自分と他者の境界線上にある」という多声性です。

私たちが使う言葉は、決して白紙の状態から生まれるのではありません。過去の誰かが使った文脈を引きずり、新しい文脈で新しい意味を帯びます。たとえば「がんばって」という言葉は、励ましの文脈もあれば、プレッシャーを感じさせる文脈もあり、皮肉として使われることもあります。この言葉は私たちを通って流れていくのであって、私たちが完全に所有しているわけではないのです。

この視点で重要なのは、言語を「プロセス」として捉えることです。言語は対話的で多声的なものとして、私たちの世界観を媒介し、知識構築に参加します。同時に、言語には常に二つの力が働いています。多様性や創造性に向かう遠心的な力と、標準化に向かう求心的な力です。この緊張関係は「すべての具体的な発話」に存在します。

著者たちはさらに、Thibault(2011)の「一次的言語使用」と「二次的言語」の区別を導入します。一次的言語使用とは、身体化され分散された、瞬間瞬間の対話的な言語使用です。これは二次的言語、つまり「より長い、ゆっくりとした文化的時間スケールで安定化した文化的パターン」を背景として生じます。

ここで重要なのは、言語を人の心の中だけでなく、身体や環境全体に分散したものとして捉える点です。教室での学習を考えるとき、私たちは言語そのものではなく、言語を使う人、学習プロセスに関わる人に焦点を当てる必要があります。ある生徒が数学の問題を解くとき、その子の過去の経験、身体的な状態、教室の物理的環境、クラスメートとの関係など、すべてが言語を通して学びに影響を与えているのです。

Bourdieuの象徴的権力―言語市場という戦場

プロセスとしての言語という視点に加えて、著者たちはBourdieuの権力理論を援用します。Bourdieuはフランスの社会学者で、教育や言語が社会的不平等をどう再生産するかを鋭く分析しました。

Bourdieuの「言語市場」という概念は、学校を一種の競争の場として捉えます。この市場では、ある種の言語使用(「正統的な言語」)が価値を持ち、それ以外は価値が低いとされます。たとえば日本の学校で言えば、標準語で教科書的に正確な表現をすることが高く評価され、方言や「ら抜き言葉」は否定的に見られる傾向があるでしょう。

興味深いのは、何が「正しい」かについての認識は広く共有されているのに、実際にその「正しい」言語を使いこなせる人は限られているという点です。これがBourdieuの言う「言語的ハビトゥス」と「言語資本」の不均等な分配です。

ハビトゥスとは、長期にわたって身につけた、ものの考え方や行動の仕方の型のようなものです。たとえば、本に囲まれて育ち、親が常に「標準的な」言葉遣いをする家庭の子どもは、意識せずとも学校で評価される言語使用を身につけていきます。一方、家では方言を話し、書き言葉に触れる機会が少ない環境で育った子どもは、学校で求められる言語使用との間にギャップを感じることになります。

Bourdieuが指摘する恐ろしいのは「自己検閲」のメカニズムです。学校という言語市場で成功する見込みが低いと感じた生徒は、発言を控えたり、授業への参加を減らしたりします。さらに深刻なのは、検閲があまりに完璧になると、意識的なものですらなくなることです。「自分には言うべきことがない」と感じてしまうのです。

この構造を理解すると、なぜ教育改革が難しいのかが見えてきます。教師が「みんな自由に発言していいよ」と言っても、生徒たちの身体に染み込んだハビトゥスは簡単には変わりません。また、たとえ一部の生徒が「正統的な」言語を獲得しても、市場の競争構造そのものは変わらず、新たな「卓越性」の基準が生まれるだけかもしれません。

理論の統合―プロセスと権力を結びつける

著者たちの独創性は、Bakhtinのプロセス論とBourdieuの権力論を結びつけた点にあります。Fig. 1(本文5ページ)に示されたVenn図は、この統合を視覚化しています。

左の円は「プロセスとしての言語」を表し、ヘテログロシアと一次的言語使用を含みます。右の円は「権力としての言語」を表し、言語市場における言語的ハビトゥスを含みます。そして二つの円が重なる部分こそが「教育におけるトランスランゲージング」なのです。

この統合が意味するのは、言語実践を理解するには、両方の視点が必要だということです。ある生徒が教室で沈黙しているとき、それは単に言語能力の問題ではありません。その子の言語レパートリー全体(どんな言語環境で育ったか、どんな言語資源を持っているか)と、学校という言語市場での位置づけ(自分の言語使用がどう評価されそうかという予測)の両方が関わっているのです。

著者たちは、この視点がいわゆる「バイリンガル」の子どもたちだけでなく、すべての生徒に関わると主張します。たとえば、両親が外国語を話すが本人は社会の主要言語しか話さない子ども、主要言語の「低い」変種(方言など)を話す子ども、社会経済的に不利な立場にあり学校で求められる言語使用に馴染みのない子ども―これらすべての生徒が、トランスランゲージングの視点から理解できるというのです。

変革的可能性の再考―教育における現実的な戦略

先に触れた批判、特に「変革的限界」という問題に対して、著者たちはどう答えているでしょうか。

彼女たちは、トランスランゲージングを単なる教授法として矮小化することを避けます。「生徒の複数言語を活用して学習を支援する」という実践的アプローチは確かに有効ですが、それだけでは結局、生徒を標準的な単一言語使用に移行させるための一時的な足場になってしまう危険があります。言語についての考え方そのものを揺さぶることにはなりません。

かといって、「個別言語は存在しない」という脱構築的立場も現実的ではありません。Romero(2012)が紹介するグアテマラのマヤ語運動の例は示唆的です。統一されたアルファベットの採用と標準化された変種の開発は、過去30年間のマヤ運動の「最も顕著な成功の二つ」でした。言語の標準化が、権利擁護の武器になることもあるのです。

著者たちは、トランスランゲージングを「特定のイデオロギーに奉仕する」理論ではなく、「生産的な問いを生み出す」理論的レンズとして位置づけます。最初から答えが決まっているのではなく、各文脈での言語市場の具体的な動態を理解し、マイノリティの生徒がその「ゲーム」により効果的に参加する方法を探るための道具だというのです。

現代的な問題として、著者たちは生成AI(ChatGPTなど)の登場にも触れています。AIが「正しい」言語使用を支援してくれる時代に、何が「卓越性」として評価されるのか。この問いは、言語市場の動態が常に変化していることを示しています。かつては手書きの美しさが評価されましたが、今では内容の独創性が重視されるように、評価の基準は時代とともに変わります。

本論文の貢献と課題―建設的な評価

ここまで論文の内容を追ってきましたが、批評として、その貢献と限界を考えてみましょう。

まず高く評価できるのは、トランスランゲージング理論に対する様々な批判に正面から向き合い、より堅固な理論的基盤を構築しようとした誠実さです。多くの教育研究が実践報告に終始する中、この論文は理論的な問いを丁寧に掘り下げています。特にBourdieuの権力理論との接続は、トランスランゲージング研究に欠けていた視点を補うものとして価値があります。

また、「すべての生徒」にトランスランゲージングの視点を適用しようとする試みも重要です。複数言語話者だけでなく、方言話者や社会経済的に不利な立場の生徒も含めて考えることで、より包括的な教育理論の可能性が開かれます。

しかし同時に、いくつかの課題も指摘できます。

第一に、理論的野心と実践的有用性のバランスです。著者たちは「教授法に矮小化すべきではない」と主張しますが、では教師は具体的に何をすればよいのでしょうか。Bourdieuの理論は構造の堅固さを強調するあまり、個人のエージェンシー(主体的行為能力)が見えにくくなる傾向があります。教師や生徒が言語市場をどう変えていけるのか、もう少し具体的な道筋が欲しいところです。

第二に、「脱構築主義」批判への応答が十分とは言えません。著者たちは「構造主義的議論から抜け出す」と言いますが、それは問題を回避しているだけではないでしょうか。個別言語の心理的実在性をどう考えるかは、教育政策にも関わる重要な問いです。たとえば「日本語教育」や「英語教育」というカリキュラム編成が果たして妥当なのか、という根本的な問いに対して、理論はどう答えるべきなのでしょう。

第三に、権力分析の精緻化の余地があります。Bourdieuの理論は主に階級に焦点を当てていますが、現代の教室には人種、ジェンダー、障害の有無など、多様な権力関係が交差しています。Block(2018)が指摘した「多価的アプローチ」の必要性は、この論文でも十分には展開されていません。

第四に、学習プロセスそのものへの考察がやや弱いように感じます。Bakhtinの理論やThibaultの一次的言語使用の概念は興味深いのですが、それが具体的にどう知識構築に関わるのか、認知的プロセスとどう結びつくのかは十分に論じられていません。特に、脱構築的立場を避けながら、どのように「言語システム」と「言語使用」の関係を理解するのかは、今後の課題でしょう。

結びに―理論と実践の対話に向けて

教育現場では今日も、複数の言語を行き来する子どもたち、標準語とは異なる言葉で育った子どもたちが学んでいます。この論文が提供するのは、そうした子どもたちの経験を理解するための理論的道具です。

完璧な理論などありません。しかし、よい理論は私たちに新しい問いを投げかけ、見えなかったものを見えるようにしてくれます。TurnerとLinの試みは、言語と教育をめぐる議論に重要な貢献をしています。特に、プロセスと権力を統合しようとする姿勢は、今後の研究の方向性を示すものと言えるでしょう。

ただし、理論はあくまで始まりです。各地域、各学校、各教室には固有の言語市場があり、固有の権力関係があります。普遍的な理論を目指しながらも、個別の文脈に敏感であり続けること。そして何より、理論が教師や生徒のエンパワーメントにつながること。これらが、トランスランゲージング研究の今後の課題だと思われます。

教育における言語の問題は、単なる技術的な問題ではありません。それは、誰がどのような知識にアクセスでき、誰が社会で成功できるかという、根本的に政治的な問題です。この論文は、その複雑さに正面から向き合おうとする一つの試みとして、読む価値のあるものだと評価できます。


Turner, M., & Lin, A. M. Y. (2024). Translanguaging: Process and power in education. Linguistics and Education, 83, Article 101340. https://doi.org/10.1016/j.linged.2024.101340

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語eラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているeラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAIによる新しい教育システムの開発にも着手している。

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