研究の背景と著者について

ウィーン大学のアレクサンドラ・シュルツ氏とウォーリック大学のマリオン・クメル氏による本研究”Grammar teaching in ELT: A cross-national comparison of teacher-reported practices”は、現代ヨーロッパの英語教育における興味深い現象を明らかにしています。シュルツ氏は第二言語習得研究の専門家として、特にヨーロッパにおける英語教育の実態調査に取り組んでおり、本研究は彼女の博士課程での研究成果の一部として発表されました。

ヨーロッパでは2009年以降、共通参照枠(CEFR)に基づく行動指向アプローチが英語教育の基盤となっているはずです。しかし実際の教室では、各国の言語政策や社会における英語の存在感の違いが、教師の指導方法に大きく影響を与えているのではないかという疑問から、この研究は始まりました。

調査の概要と方法

この研究では、EF英語能力指数でそれぞれ異なる順位にあるスウェーデン(2位)、オーストリア(6位)、フランス(23位)の中等学校英語教師615名を対象に、オンライン調査を実施しました。興味深いのは、研究者たちが教師の「信念」ではなく「実際の指導実践」について尋ねた点です。これは、教師が理想的だと考える指導法と実際に行っている指導法が異なる場合があることを考慮したものです。

調査では、文法指導を四つの軸で分析しました。まず「明示的指導対暗示的指導」、つまり文法ルールを明確に説明するか、それとも自然な文脈の中で習得させるかという違いです。次に「計画的指導対偶発的指導」、これは予め決められたカリキュラムに従うか、学習者のエラーに応じて指導するかの違いです。最後に「帰納的指導対演繹的指導」、つまり例から規則を導き出させるか、規則を先に提示してから練習させるかの違いです。

各国の特徴的な指導パターン

調査結果から、各国の特徴的なパターンが浮かび上がりました。スウェーデンの教師は、他の二カ国と比べて明らかに暗示的で流暢性重視の指導を行っています。これは、スウェーデンの学習者が幼少期から映画、音楽、ゲームなどを通じて英語に触れ、15〜19歳の青少年が一日平均5時間以上英語を使用している現実を反映していると考えられます。

実際、スウェーデンでは1960年代から政府が英語の影響を制限しようとせず、テレビ番組や映画の多くが字幕付きで放送されているため、子どもたちは自然に英語の音に慣れ親しんでいます。このような環境では、教師が文法ルールを詳しく説明するよりも、学習者が既に持っている「英語感覚」を活用した指導の方が効果的なのかもしれません。

一方、オーストリアとフランスでは、より明示的で計画的な文法指導が行われています。特にオーストリアでは、他の二カ国に比べて体系的な文法指導を重視する傾向が強く見られました。これは、オーストリアの学習者がスウェーデンほど日常的に英語に接していないという現実を反映しているのでしょう。オーストリアでは映画やドラマの多くがドイツ語吹き替えで放送されており、英語への自然な接触機会は限られています。

フランスの教師は、興味深い特徴を示しました。下級学年では明示的指導を重視するものの、上級学年では暗示的指導に移行する傾向があります。また、帰納的指導(例から規則を導く方法)を他の二カ国よりも多用しています。これは、フランスの教育文化における「発見学習」の重視と関連しているかもしれません。

研究の意義と興味深い発見

この研究の最も興味深い発見の一つは、教育レベルによる違いです。三カ国すべてで、上級学年になるほど偶発的(反応的)な文法指導が増加しています。これは、基礎的な文法知識を固めた後は、学習者のエラーに応じて必要な時に指導する方が効果的だという、多くの教師の経験的判断を裏付けています。

また、各国の言語政策の違いが指導実践に与える影響も明確に示されました。フランスでは1994年のトゥボン法によって公的場面でのフランス語使用が保護されており、アカデミー・フランセーズが英語からの借用語を制限する新語を作成しています。このような言語純粋主義的政策が、教室での英語指導にも影響を与えている可能性があります。

研究の限界と批判的検討

しかし、この研究にはいくつかの限界があることも認識しておく必要があります。まず、自己申告による調査であるため、教師が実際に何をしているかではなく、何をしていると思っているかを測定している可能性があります。教師は無意識のうちに社会的に望ましいとされる回答をしてしまう傾向があり、これは教育研究全般の課題でもあります。

また、サンプリングも自己選択による参加者に依存しており、特に上級学年の教師数が少ないという問題があります。スウェーデンとオーストリアでは、上級学年の教師がそれぞれ41名と40名しか参加しておらず、統計的な信頼性に疑問が残ります。

さらに、研究者たちが使用した指導法の分類も、実際の教室実践をやや単純化しすぎている面があります。現実の授業では、明示的指導と暗示的指導、計画的指導と偶発的指導が複雑に組み合わされており、教師は瞬間瞬間の判断で指導方法を調整しています。例えば、ある文法項目については明示的に説明しながら、別の項目については学習者の自然な習得を待つといった柔軟なアプローチが一般的です。

教育実践への示唆

この研究から得られる実践的な示唆は多岐にわたります。まず、各国の英語教育政策立案者にとって、自国の社会における英語の存在感を正確に把握し、それに応じた指導方針を策定することの重要性が浮き彫りになりました。

スウェーデンの事例は、豊富な英語環境がある場合の教育課題も示しています。学習者が学校外で自然に英語を習得していることで、学校での英語学習が「つまらない」「本物ではない」「挑戦的ではない」と感じられるという問題が報告されています。これは、現代の日本の英語教育にとっても重要な警告です。インターネットやゲーム、動画配信サービスの普及により、日本の学習者も以前より多くの英語に接触するようになっており、従来の文法中心の指導法の見直しが必要かもしれません。

一方、オーストリアやフランスの事例は、英語への接触機会が限られた環境での効果的な指導法を考える上で参考になります。特に、基礎段階では明示的指導を重視し、徐々に暗示的指導に移行するフランスのアプローチは、多くの文脈で応用可能でしょう。

研究方法の評価

研究方法論の観点から見ると、この研究は大規模な量的調査として一定の価値があります。615名という参加者数は、この種の国際比較研究としては十分な規模です。また、探索的因子分析を用いて測定項目の妥当性を検証している点も評価できます。

しかし、質的データの不足は大きな制約です。なぜ教師がそのような指導法を選択するのか、どのような文脈でその判断を下すのかといった深い理解には限界があります。今後の研究では、教室観察や詳細なインタビューを組み合わせたミックスメソッド・アプローチが必要でしょう。

より広い文脈での意味

この研究は、グローバル化時代における言語教育の複雑さを浮き彫りにしています。英語が世界共通語として機能する現代において、各国の言語政策や文化的背景が教育実践にどのような影響を与えるかを実証的に示した点で価値があります。

特に、言語の「習得環境」と「学習環境」の相互作用について考えさせられます。スウェーデンのような豊富な英語接触環境では、学校教育の役割も変化せざるを得ません。従来の「教える」から「既存の知識を整理し発展させる」へのシフトが必要かもしれません。

今後の研究への期待

著者たちが示唆するように、この研究領域にはまだ多くの探究すべき課題があります。例えば、どのような文法項目が学校外学習で習得されやすく、どのような項目が教室での明示的指導を必要とするのかという問題は、実践的に非常に重要です。

また、教師の指導法選択に影響を与える要因についても、より詳細な調査が必要です。教師養成課程での学習内容、使用教科書、同僚との相互作用、学習者からのフィードバックなど、様々な要因が複雑に絡み合って指導実践が形成されています。

結論

シュルツ氏とクメル氏による本研究は、ヨーロッパの英語教育における国別・レベル別の違いを系統的に明らかにした貴重な貢献です。完璧な研究はありませんが、この研究が提起した問題意識と発見した知見は、今後の英語教育研究と実践の発展に重要な基盤を提供しています。

特に、社会における英語の存在感と教室での指導法の関係性について実証的データを示した点は高く評価されます。これらの知見は、各国の教育政策立案者、教師養成機関、そして現場の教師にとって、それぞれの文脈に適した英語教育のあり方を考える上で重要な参考資料となるでしょう。


Schurz, A., & Coumel, M. (2023). Grammar teaching in ELT: A cross-national comparison of teacher-reported practices. Language Teaching Research, 27(5), 1167–1192. https://doi.org/10.1177/1362168820964137

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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