研究の概要と筆者の背景

本論文”Teaching English to young learners: Second language acquisition or foreign language learning? – A case study”は、ポルトガルのトラス・オス・モンテス・エ・アルト・ドウロ大学のカルメン・マヌエラ・ペレイラ・カルネイロ・ルーカス氏による、小学校での英語教育に関する研究です。ルーカス氏は、ヨーロッパの言語政策や早期外国語教育、特にCLIL(内容言語統合型学習)の専門家として知られています。

この研究は、ポルトガルの教育現場で長年議論されている問題に取り組んでいます。それは、教室という限られた環境で英語を学ぶ子どもたちが、真の意味での「第二言語習得」を達成できるのか、それとも単なる「外国語学習」に留まってしまうのかという問題です。この区別は専門家にとって重要な意味を持ちます。第二言語習得とは、母語と同様に自然で流暢な言語使用が可能になることを指し、外国語学習は主に学習者が意識的に規則や語彙を覚える過程を指します。

研究の理論的基盤と方法論の検討

ルーカス氏の研究は、言語学習理論の巨人であるスティーブン・クラシェンの「自然順序仮説」と「理解可能入力仮説」に大きく依拠しています。自然順序仮説とは、言語学習者が特定の文法要素(形態素)を一定の順序で習得するという理論です。例えば、英語学習者は「進行形の-ing」を「三人称単数のs」よりも先に習得する傾向があるとされています。

研究方法として、ポルトガル北東部の私立小学校で2年生84名(7歳)を対象に、英語のみの授業環境を設定し、CLIL(内容言語統合型学習)アプローチを採用しました。CLILとは、数学や理科などの教科内容を外国語で学習する教育手法で、言語習得と内容学習を同時に行うことを目指します。

しかし、この研究の方法論には重要な問題があります。最も深刻なのは、比較対照群が設定されていないことです。科学的な研究では、新しい教育方法の効果を検証するために、従来の方法で学習するグループと比較することが不可欠です。この研究では、CLIL方式で学習した生徒たちの成果は示されていますが、従来の方法で学習した場合との比較がないため、本当にCLIL方式が優れているのかを判断できません。

また、データ収集と分析の過程が十分に詳しく記述されていません。研究論文では、どのようにデータを収集し、どのような基準で分析したかを明確に示すことが求められますが、この点で不十分さが目立ちます。

データの解釈における問題点

論文では、子どもたちの作文や課題への取り組みから、形態素順序の習得が確認できたとしています。具体的には、「I have got a ballerina」「The teddy bear is on the table」といった文を正しく書けるようになったことを成功例として挙げています。

確かに、7歳の子どもたちがこれらの文を書けるようになったのは素晴らしい成果です。しかし、これらの例だけで「第二言語習得が達成された」と結論づけるのは早計である可能性があります。言語習得の評価には、より体系的で包括的なアプローチが必要です。

特に問題となるのは、示されている子どもたちの作品が、どの程度教師の支援や模倣によるものなのかが不明確なことです。研究では「足場かけ(scaffolding)」という支援方法を用いたと記述されていますが、この支援がどの程度影響したのかが分からないため、子どもたちの真の言語能力を正確に評価することが困難です。

統計的分析の欠如

この研究で最も気になるのは、統計的な分析が全く行われていないことです。84名という比較的大きなサンプルサイズにも関わらず、数値による定量的な分析結果が示されていません。例えば、何パーセントの生徒が目標とする文法構造を習得できたのか、習得度にはどの程度のばらつきがあったのか、といった基本的な情報が欠けています。

現代の教育研究では、質的データ(作文サンプルや観察記録など)と量的データ(テスト結果や習得率など)を組み合わせた混合研究法が一般的です。この研究は主に質的アプローチを取っていますが、主張の妥当性を高めるためには、より客観的な数値データが必要でした。

一般化可能性の限界

この研究が行われた環境は、一般的なポルトガルの小学校とは大きく異なっています。対象となったのは私立学校の中・上級社会経済層の家庭の子どもたちです。これらの子どもたちは、一般的に教育に対する家庭のサポートが充実しており、学習への動機も高い傾向があります。

さらに、この学校は「英語教育の先駆者」として保護者に英語学習の機会を提供していた特別な学校でした。このような恵まれた環境での成果を、ポルトガル全国の公立学校に一般化することには慎重であるべきです。公立学校では、より多様な社会経済的背景を持つ子どもたちが学んでおり、家庭での支援や動機のレベルも様々です。

週2回50分という限られた時間の現実

研究では「最少限の言語接触(週2回、各50分)でも第二言語習得が可能」と主張していますが、この時間配分で本当に十分な言語習得が達成できるのかについては疑問があります。週100分という時間は、第二言語として英語を習得するには極めて限られています。

多くの第二言語習得研究では、言語習得には大量の意味のある入力と練習機会が必要とされています。特に、読み書き能力の発達には相当な時間が必要です。この研究で示された成果が、本当に持続的で実用的な言語能力につながるのかは、長期的な追跡調査なしには判断できません。

教師の専門性と研修の課題

論文では、ポルトガルの小学校英語教師の多くが十分な専門的準備を受けていないという重要な問題を指摘しています。これは実際にポルトガルだけでなく、多くの国で共通する課題です。早期英語教育の重要性が認識される一方で、専門的な訓練を受けた教師の不足は深刻な問題となっています。

しかし、この研究では研究者自身が授業を担当しており、一般的な教師がこの方法を実践できるかどうかについては検証されていません。研究者は言語教育の専門家であり、おそらく一般の小学校教師よりもはるかに高い専門知識と技能を持っています。このような専門家による指導での成果を、一般の教師による指導に期待するのは現実的ではない可能性があります。

CLILアプローチの実践的課題

CLIL(内容言語統合型学習)は理論的には魅力的なアプローチですが、実践には多くの課題があります。教師は対象言語(この場合は英語)に熟練しているだけでなく、教科内容にも精通している必要があります。さらに、言語レベルが低い学習者に対して、教科内容を理解可能な方法で提示する高度な技能が求められます。

この研究では、数学の図形や食べ物といった比較的シンプルな内容を扱っていますが、より複雑な教科内容をCLIL方式で教えることは、かなりの困難を伴います。また、すべての教科でCLIL方式を採用することが現実的で効果的なのかについても、慎重な検討が必要です。

倫理的配慮の不備

研究倫理の観点から見ると、この研究にはいくつかの問題があります。論文では英国教育研究協会(BERA)の倫理原則に従ったと記述されていますが、具体的にどのような手続きを取ったかが明記されていません。

特に重要なのは、保護者や子どもたち自身への十分な説明と同意の取得です。実験的な教育方法を導入する際には、従来の方法との比較や潜在的なリスクについて、関係者に十分な情報を提供する必要があります。また、研究に参加しない選択肢があることも明確にすべきです。

言語習得理論の複雑性

この研究は主にクラシェンの理論に依拠していますが、言語習得研究は過去数十年間で大きく発展しており、より複雑で多面的なアプローチが必要とされています。例えば、社会文化的要因、個人差、動機、学習方略など、多くの要素が言語習得に影響することが明らかになっています。

単一の理論的枠組みに基づいて複雑な言語習得プロセスを説明しようとすることは、現象の全体像を見落とす危険性があります。より包括的で学際的なアプローチが、現代の言語習得研究には求められています。

長期的効果の検証不足

この研究の最も重要な限界の一つは、短期的な成果しか検証していないことです。言語教育の真の価値は、学習者が長期的に言語能力を維持し、発展させることができるかどうかにあります。

研究で示された子どもたちの成果が、数か月後や数年後にも持続しているのかは不明です。また、この早期の英語教育が、後の英語学習にどのような影響を与えるかも検証されていません。場合によっては、不適切な早期教育が後の学習に負の影響を与える可能性もあります。

文化的・言語的多様性の考慮不足

ポルトガルの教育文脈に特有の要因が十分に考慮されていません。ポルトガル語と英語は異なる言語系統に属し、文字体系や文法構造にも違いがあります。この研究では、ポルトガル語話者にとって英語学習の特有の困難や利点について、詳細な分析が不足しています。

また、ポルトガルの教育制度、文化的価値観、家庭の言語使用パターンなどが、英語学習にどのような影響を与えるかについての考察も限られています。これらの要因を理解することは、効果的な教育方法を開発するために不可欠です。

政策的含意と実践的課題

この研究は、ポルトガルの言語教育政策に影響を与える可能性があります。しかし、限られた証拠に基づいて大きな政策変更を提案することには慎重であるべきです。

全国規模でCLIL方式を導入するには、大規模な教師研修、教材開発、評価システムの構築など、膨大な資源と時間が必要です。これらの投資が本当に効果的なのかを判断するには、より大規模で長期的な研究が必要です。

評価方法の妥当性

この研究で使用された評価方法にも疑問があります。子どもたちの作文サンプルや課題への取り組みから言語習得を評価していますが、これらの評価が標準化されておらず、客観性に欠けています。

言語能力の評価には、聞く、話す、読む、書くの四技能すべてを包括的に測定する標準化されたテストが必要です。また、評価は複数の時点で行い、学習の進歩を追跡することが重要です。

研究デザインの改善提案

この研究をより厳密にするためには、いくつかの改善が必要です。まず、無作為化比較対照試験(RCT)のデザインを採用し、CLIL群と従来型指導群を比較すべきです。また、事前テスト、事後テスト、追跡テストを実施し、学習効果の変化を定量的に測定する必要があります。

さらに、複数の学校、異なる社会経済的背景の子どもたちを含めることで、結果の一般化可能性を高めることができます。研究者以外の教師による指導効果も検証すべきです。

実践的価値と限界

この研究には批判すべき点が多い一方で、実践的な価値も認められます。子どもたちの具体的な作品や学習過程の記録は、教育現場の実践者にとって参考になる情報を提供しています。また、早期英語教育に関する議論を促進し、教師の専門性向上の重要性を指摘した点も評価できます。

しかし、科学的な研究として見た場合、方法論的な厳密さに欠け、結論を支持する証拠が不十分です。教育政策や実践に影響を与える研究であれば、より高い基準が求められます。

結論:理想と現実のバランス

ルーカス氏の研究は、ポルトガルの小学校英語教育改善への強い願いと理想に満ちています。CLILアプローチや言語遊びを通じた学習の可能性を探る試みは価値があり、教育現場に新しい視点を提供しています。

しかし、科学的研究としては多くの限界があります。より厳密な研究デザイン、客観的な評価方法、長期的な追跡調査が必要です。また、一般化可能性についても慎重な検討が求められます。

教育研究は、理想と現実のバランスを取りながら進めることが重要です。この研究は出発点として価値がありますが、より堅実な証拠を積み重ねることで、本当に効果的な早期英語教育方法を確立していく必要があります。教育の質向上という目標は共有しつつも、科学的な厳密さを保持することが、最終的には子どもたちの利益につながるのです。


Lucas, C. M. P. C. (2022). Teaching English to young learners: Second language acquisition or foreign language learning? – A case study. World Journal of English Language, 12(1), 50-73. https://doi.org/10.5430/wjel.v12n1p50

By 吉成 雄一郎

株式会社リンガポルタ代表取締役社長。東京電機大学教授、東海大学教授を経て現職。コロンビア大学大学院ティーチャーズカレッジ(英語教授法)、信州大学大学院工学研究科(情報工学)修了。専門は英語教授法、英語教育システム開発。 さまざまな英語学習書、英検、TOEIC 対策書、マルチメディア教材等を手がけてきた。英語e ラーニングや英語関係の教材・コンテンツの研究開発も行う。全国の大学、短期大学、高専等で使われているe ラーニングシステム「リンガポルタ」も開発した。最近ではAI による新しい教育システムの開発にも着手している。

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