研究の背景と著者について
この論文”Towards a critical transformative approach to inclusive intercultural education”は、オーストラリアにおける異文化間教育の理論と実践について包括的に検討した重要な研究です。著者のアマヌエル・エリアス氏とフェティ・マンスーリ氏は、ディーキン大学のアルフレッド・ディーキン市民権・グローバル化研究所に所属し、移民研究、文化的多様性、社会統合の分野で国際的に認知されている研究者です。特にマンスーリ氏は移民・異文化間研究の研究チェアを務め、ユネスコの文化的多様性と社会正義に関する比較研究チェアも兼任している著名な学者です。
オーストラリアは世界でも有数の多文化社会として知られていますが、その教育システムにおける文化的多様性への対応は決して順調ではありません。この論文が取り組む問題は、単に学術的な関心にとどまらず、オーストラリア社会全体が直面している現実的な課題でもあります。人口の約28%が海外生まれであり、200以上の言語が家庭で話されているという現状において、教育現場は日々、文化的多様性に関わる複雑な課題に直面しています。
多文化教育から異文化間教育への転換点
この論文の最も重要な貢献の一つは、多文化教育と異文化間教育の概念的違いを明確に整理していることです。従来の多文化教育が主に「文化的差異の認識と受容」に焦点を当てていたのに対し、異文化間教育は「積極的な交流と相互理解」を重視するアプローチです。これは単なる語彙の違いではなく、教育哲学の根本的な転換を意味します。
多文化教育は、異なる文化背景を持つ学生たちが平等な教育機会を得ることを主な目標としていました。これは確かに重要な出発点でしたが、実際には各文化グループが孤立したまま並存するという「文化的モザイク」の状態を生み出すことも多かったのです。一方、異文化間教育は、異なる文化背景を持つ人々が実際に交流し、相互理解を深め、共通の価値観を構築することを目指します。
著者たちが提示するこの概念的区別は説得力がありますが、同時にいくつかの課題も浮き彫りにします。まず、異文化間教育が目指す「変革的な態度変化」は理想的ですが、具体的にどのような教育実践によって実現されるのかについては、まだ十分に明確ではありません。また、文化的差異を単に認識するだけでなく、積極的な交流を促進するという目標は、場合によっては文化的少数派に対して同化圧力を生み出す可能性もあります。
政策と現実のギャップ
論文が指摘するオーストラリアの政策環境の分析は、多くの示唆に富んでいます。オーストラリアは1973年に多文化主義を正式に採用した世界でも数少ない国の一つですが、連邦レベルでの多文化法制はいまだに整備されていません。これは、カナダの1988年多文化法と比較すると明らかな政策的空白です。さらに、8つの州・準州のうち、多文化法制を持つのはニューサウスウェールズ、ビクトリア、南オーストラリアの3州のみという状況は、国家的な統一性に欠けていると言わざるを得ません。
このような政策的不統一は、教育現場にも深刻な影響を与えています。2008年のメルボルン宣言は文化的多様性への対応を謳いましたが、全国的な実施戦略については合意に至っていません。オーストラリア・カリキュラム評価報告機構(ACARA)が設立されたものの、実際の教室活動とカリキュラムの間には依然として大きなギャップが存在します。
特に問題なのは、教師の事前研修や継続的な職能開発において、異文化間教育に関する内容が十分に組み込まれていないことです。多くの教師が文化的多様性への対応に不安を感じながらも、適切な支援やリソースを得られないまま教育実践を行っているのが現状です。
実証研究の成果と限界
論文の中核をなすのは、「Doing Diversity Project」と呼ばれる3年間の縦断的研究の結果です。メルボルンの小学校6校と中学校6校を対象としたこの研究は、異文化間能力向上のための専門的職能開発が学生の態度に与える影響を詳細に追跡したものです。
研究結果は非常に興味深いものでした。短期的(2か月後)には限定的な変化しか見られませんでしたが、長期的(18か月後)には統計的に有意な改善が確認されました。具体的には、文化的多様性への受容度の向上、オーストラリア・アイデンティティの狭隘な理解の減少、異文化間コミュニケーションへの関心の増大などが観察されました。
しかし、この研究にはいくつかの限界があります。まず、サンプルがメルボルンの学校に限定されており、オーストラリア全体への一般化可能性については疑問があります。メルボルンは特に文化的多様性の高い都市であり、他の地域では異なる結果が得られる可能性があります。また、研究期間が3年間に限定されており、より長期的な効果については不明です。
さらに重要な点は、この研究が主に学生の態度変化に焦点を当てており、実際の学習成果や社会的結束への影響については十分に検証されていないことです。異文化間理解の向上が学業成績の改善や社会的排除の減少にどの程度貢献するのかについては、さらなる研究が必要です。
教育現場での実践的課題
論文が指摘する異文化間教育実施のための3つの重要条件(リーダーシップ、リソース、評価)は実践的な観点から非常に重要です。しかし、これらの条件を満たすことは現実的には極めて困難であることも明らかです。
まず、リーダーシップの問題です。学校管理職の多くは教育学の専門家であっても、異文化間教育の理論や実践について十分な知識を持っていません。また、教師に対する継続的な職能開発を提供するための時間的・財政的リソースも限られています。多くの学校では、日常的な教育活動に追われ、新しい教育アプローチを導入するための余裕がないのが現状です。
リソースの問題はさらに深刻です。著者たちが指摘するように、異文化間教育のための適切な教材や指導法は極めて限られています。UNESCO や国際教育局が提供する国際的なツールはありますが、これらをオーストラリアの具体的な文脈に適応させるためには相当な努力と専門知識が必要です。また、多くの教師が教材開発に過度の時間を費やしているという状況は、教育制度全体の効率性の観点からも問題があります。
評価の問題は最も複雑です。異文化間能力は本質的に多面的で主観的な概念であり、標準化された測定は困難です。論文で言及されているデンソンらの研究は評価ツールの開発において重要な進歩を示していますが、その一般化可能性と実用性については疑問が残ります。さらに、異文化間能力の評価が過度に形式化されることで、本来の教育目標である「真の相互理解」が損なわれる危険性もあります。
COVID-19パンデミックの影響と新たな課題
論文は COVID-19 パンデミックが異文化間教育に与えた影響についても言及していますが、この点についてはより詳細な分析が必要でしょう。パンデミックは確かに物理的な交流を制限し、デジタル格差の問題を浮き彫りにしました。しかし同時に、オンライン教育の普及により、従来は地理的制約によって困難だった国際的な文化交流が可能になったという側面もあります。
また、パンデミック期間中に見られたアジア系住民に対する差別の増加は、異文化間教育の緊急性を改めて示しています。このような危機的状況においてこそ、日常的な異文化間理解の構築が重要であることが明らかになりました。しかし、論文ではこのような短期的な社会的危機に対する異文化間教育の対応策については十分に検討されていません。
先住民教育との統合の課題
論文は先住民の文化と知識体系に関する言及も行っていますが、この点についてはより深い検討が必要です。オーストラリアの先住民人口は全体の3.2%と少数ですが、その文化的・歴史的重要性は計り知れません。植民地化の歴史と現在も続く構造的不平等を考慮すると、先住民の教育課題は単なる「文化的多様性」の問題を超えた複雑さを持っています。
異文化間教育のアプローチが先住民の脱植民地化運動や文化復興の取り組みとどのように関連するのかについて、論文では十分に検討されていません。また、先住民の伝統的な知識体系と西洋的な教育システムをどのように統合するかという根本的な問題についても、さらなる研究が必要です。
国際比較の観点から見た限界
論文はオーストラリアの経験に主に焦点を当てていますが、国際比較の観点からはいくつかの限界があります。カナダの多文化主義政策やヨーロッパの異文化間教育実践との比較は興味深いものの、アジア太平洋地域の他の多文化社会(シンガポール、マレーシア、ニュージーランドなど)との比較は十分に行われていません。
特に、オーストラリアが地理的に位置するアジア太平洋地域において、文化的多様性への対応がどのように行われているかについての比較分析は、オーストラリアの政策立案にとって極めて有用でしょう。また、移民社会ではない国々での異文化間教育の実践例も、参考になる可能性があります。
理論的枠組みの発展可能性
論文が提示する理論的枠組みは有用ですが、さらなる発展の余地があります。特に、「批判的変革的アプローチ」という概念は魅力的ですが、その具体的な内容や実践方法については十分に明確化されていません。批判的教育学の伝統やポストコロニアル理論との関連についても、より深い検討が可能でしょう。
また、異文化間教育の目標として掲げられている「変革的な態度変化」が実際にどのような社会的変化をもたらすのかについても、より具体的な理論化が必要です。個人レベルでの態度変化が制度的変化や構造的不平等の解消にどのように結びつくのかという問題は、理論的にも実践的にも重要な課題です。
測定と評価の方法論的課題
異文化間能力の測定に関して、論文が提示する量的アプローチには限界があります。4段階のリッカート尺度による調査は確かに統計的分析を可能にしますが、文化的理解の質的側面を十分に捉えることは困難です。また、文化的背景の異なる学生に対して同一の尺度を適用することの妥当性についても疑問があります。
より包括的な評価のためには、質的手法(インタビュー、参与観察、ナラティブ分析など)との組み合わせが必要でしょう。また、評価の主体についても、教師や研究者だけでなく、学生自身や保護者、地域コミュニティの視点を含めることが重要です。
持続可能性と制度化の課題
論文の実証研究は18か月という比較的短期間の効果を示していますが、異文化間教育の真の成功は長期的な持続可能性にかかっています。研究プロジェクトの終了後に、学校現場で異文化間教育の取り組みがどの程度継続されているのかについては明らかではありません。
持続可能な異文化間教育のためには、個別の学校やプロジェクトを超えた制度的支援が不可欠です。教師養成課程への組み込み、国家カリキュラムの改訂、継続的な職能開発システムの構築、十分な予算配分など、包括的な制度改革が必要でしょう。
今後の研究課題と実践的示唆
この論文が提起する課題に対処するためには、複数の研究領域での継続的な取り組みが必要です。まず、異文化間教育の効果に関するより長期的で大規模な縦断研究が求められます。また、異なる地域や文脈での比較研究により、一般化可能な知見を蓄積することも重要です。
実践的な観点からは、教師養成と職能開発のシステム改革が急務です。異文化間教育の理論と実践を統合したカリキュラムの開発、メンター制度の充実、学校間のネットワーク構築などが考えられます。また、学校管理職に対する専門的研修も不可欠でしょう。
政策的には、連邦政府レベルでの統一的な多文化教育法制の制定が望まれます。現在の州・準州レベルでの分散的な政策では、国家的な一貫性を保つことは困難です。また、異文化間教育のための専用予算の確保と、その効果的な配分システムの構築も重要な課題です。
結論として、この論文は オーストラリアにおける異文化間教育の現状と課題を包括的に分析した重要な研究であり、理論的にも実践的にも多くの示唆を提供しています。しかし同時に、さらなる研究と政策的取り組みが必要な課題も明らかにしています。真の意味での包括的な異文化間教育の実現には、教育制度全体の変革と社会全体の意識変化が不可欠であり、それは長期的で持続的な努力を要する壮大な事業なのです。
Elias, A., & Mansouri, F. (2023). Towards a critical transformative approach to inclusive intercultural education. Journal of Multicultural Discourses, 18(1), 4–21. https://doi.org/10.1080/17447143.2023.2211568